第七章:時空の無限扉
目が覚めたら、そこはいくつもの扉が並らんでいた。状況を確認しようと体を起こす。
「ここは、どこなの」
少なくとも現世ではないだろう。それならばあの世? 死んだということになる。それにしても自分でも驚くほど冷静だ。
ふと、後ろを振り向くとよく見知った顔が二つ並んでいる。
「心ちゃん! 零くん!?」
慌てて二人を呼びかける。彼らはただ眠りについているだけのようだがそれでも心配してしまう。何かあったのかなんなのか。それに彼らを起こせばこの事態を解決する方法が見つかるかもしれない。
確実にこれは『クロネコ』の仕業か、心霊的な現象だ。
必死の呼びかけで二人ともうなりながら目を覚ましてくれる。そして状況を説明するが、返ってきたのは戸惑いだった。
「一体、何が起きているんでしょうか……」
「……わからない。一ついえるのは時間が狂っているということ」
「時間が?」
「はい、私もその意見に賛成です」
「ど、どういうこと!? 二人で納得していないで説明してよ」
勝手に話を進める二人を止める。このままでは蚊帳の外のまま終わってしまいそうだ。いや、それはそれで問題ないかもしれないが、納得がいくか行かないかは別問題である。
「……この場所については知っている。この場所は『時と空間の扉』と呼ばれる場所」
「全てが0と1で構築されたデータだけ存在する場所。私たちが普段暮らす世界はこの扉の先にあるんです」
「ま、待ってよ。0と1ってパソコンじゃないんだから……」
手を振って二人の説明を止める。ある程度のことは受け止める程度の器量は産まれてきているが、さすがに受け入れることの出来る限界を超えている。
「混乱する気持ちはわかりますが、事実だけお受け止めください。私たちの世界は全て0か1でできあがっているんです。これが複雑に絡まり合うことで生命体や土地を生み出しているんです。もちろん、日常を過ごしているだけではそんなことを気にすることもないです。しかし、ひょんなことからこの、世界そのもののデータが混ざってしまう。それが別データへの移行……パラレルワールドへの入り口となるわけです」
「パラレルワールド……」
「……そしてここはそのたくさんあるパラレルワールドへの入り口の集まり。時間と空間が複雑に絡まり合った場所」
「どうしてこんなことに?」
「それは……まだわかりませんね」
いつもの微笑みを消して真剣な表情となる零。ここまでの表情をみるのは光はもちろんのこと心も珍しいことだ。
心は静かに歩みを進めていくつもある扉の一つに手を掛ける。
「あ、開けるの?」
「……うぅん。様子を見るだけ」
そう返した心は扉に耳を当てて気配を探っているようである。目を閉じて意識を聴覚だけに回しているようだ。
霊感が鋭いということはそのほかの五感を操ることにも優れていると言うことだ。その気になればそれぞれの感覚を伸ばすことだって出来る。
「……ダメ。特に手がかりになりそうな囁きはなかった」
「しかし、気になることがあります。心も、そうではありませんか?」
「……うん。私たちが本当に知り合いなのか、だよね」
「その通りです」
「えっ? えっ? どういうこと?」
またしても自分を置いて話を進める二人。油断をすると置いてけぼりになってしまう。すぐに解決できることならば別にいいのだが、二人の最初の様子から、そうでないことが分かる。
「ここは時間と空間の狭間。もしかしたら私たちは別の世界、別の時間軸に生きていた世界の人間かもしれないと言うことです」
「なる、ほど……。でも、それを知る方法ってあるの? 別の世界から来たって事は、記憶に多少の違いが出てくるって訳だけど、まさか記憶を総当たりするわけにも行かないですし」
「総当たりするんですよ」
「マジ?」
「……マジ」
小さく息を吐く。これは大変なことになったらしい。
覚悟を決めて思い出話に花を咲かせることにする。まさか思い出話を語るのにここまでの覚悟が必要だとはだれが思うであろうか。
光視点で語られるのは自分がクロネコに訪れたときのこと、裏金と欲望の病院、コトリバコ模造品、商品を買いに来た暴力団に忍び込んだスパイ、妄想に囚われ女性、夢幻回廊の暴走。そして――――。
「そうそう。二人のお父さん。絃さんにお世話になったよね」
その何気なく呟いた一言に零も心も目を剥いて驚きを示す。
「どういうことですか?」
「……なんでお父さんを知ってるの?」
「なんでって、時々帰ってきてたし、一緒に仕事もしてたし……。えっ? なんか私とんでもないこと言ってる?」
光は二人の視線から耐えられなくなったように思わず首をかしげて聞き返す。その返答を零たちはすぐにせずにいくつかの推測を立て合う。
「今までの情報的に光さんはよく似た世界から来た別の光さん、なのでしょうか」
「……私もほぼ同じ内容を記憶してる。偶然?」
「この世の理が3%でも
「……となれば可能性としてはもう一つ」
「そうですね。光さん」
ようやくと言うべきか二人の密談を終えて視線をこちらに向ける。
「では、お尋ねします。私たちの父、普段は何をしているのですか?」
「えっ? 確か……あれ? 時々帰ってきては……うん?」
「重ねてお尋ねします。父の顔や姿形を思い浮かべることは可能ですか?」
「でき、ない。おかしい。確かに記憶としては絃さんがいて、たまに仕事を一緒にして、そんな感覚はあるのに、そのビジョンがしっかりとは見えない。あのときみたい、私に生霊が取り憑いていた時みたい」
「やはり」
「……そうだったんだ」
光の混乱とは引き替えに得心が得たような二人の声。
うろたえる光だが必死に記憶を呼び覚ます。しかし、どうしても肝心なところがやってこない。知識としては絃のことを思い出せても、思い出が伴わない。そのほか、絃に関係のないことであれば、ありありとそのときの感情を思い出せても、絃が関係すると頭が霞がかりそして霧散する。
「この事件、全ては光さんが鍵となってます」
「私が?」
「そしてその鍵である光さんを使い回そうとしている存在が我々『クロネコ』の中にいます。光さんも含め、全員が容疑者です」
この世の時間を戻すと言うことは案外簡単なことだ。しかし、時間を進めると言うことは出来ない。それがクロネコが考えるオカルトの鉄則である。
時間とは一定の速度で流れる砂の粒。その速度はどのようにやろうとも早くすることも、遅くすることも出来ない。しかし、一度落ちた砂をもう一度戻す。そのことは簡単だ。そのことを模した道具。それこそが。
「時空の砂時計」
「そうです。この道具はひっくり返した人間を中心に時間が戻るという物。ただし、過度の悪用を押さえるために補正として自分にとって得策となる運命は変えることが出来ません」
「じゃあ、その道具の使い方って……」
「……自分以外のために使う必要がある。だけど、それでも運命を変えることには変わらない。だから、それを行うにはそれ相応の対価を支払う必要がある」
「対価?」
いやな予感が頭をよぎる。
人魚姫の中では人魚が人間になる対価として、自分の声を引き替えにされた。そのほかにもことあるごとに引き替えとなる物を渡している作品というのは多い。そしてそのほとんどが大きな代償を追うことが多いのだ……。
「対価は……わかりません」
「えぇ!? ここまでじらしておいてわからないの!?」
「すみません。対価が何になるかはこちらからは全く予想できないんです。なぜならその変える運命によって払う対価も異なるわけですから」
「あー、でもそっか。うん。それで、だけども……?」
「1番気になるのは光さんがキーとなっているという点ですよね」
「うん。私がキーってどういうこと?」
知らずに操られているのだとすれば自分がその動きを把握することで、いい意味でも悪い意味でも操り人形にならずにすむ。
もしも、悪意をもって自分がいいように扱われているのであればその動きに反逆の狼煙をあげればよく、善意でやっているのであればその動きを邪魔しないように、そして加速することも出来る。
「光さんの語った記憶のほとんどは私どもも同様に記憶しておりました。そして感情の伴わない父の記憶から考えられるのは、光さんを中心として時間が巻き戻り、光さんの中にあるかもしれない時間軸の一つである、我々の父が生きていた場合の記憶が混ざってしまったと言うことです」
「えっ? えっと……。えっ? わからないことが多すぎて脳処理が追いつかない。そういや、今までなぜか気にしたことなかったけど……。霧桐家のお父さんって」
「……少なくとも私たちの生きていた時間の中では死んでる。私たちが5歳の頃に」
「理由を聞いてもいい?」
「……コトリバコ。アレのせいで父は死んだ」
ここで出てきたコトリバコというワード。一瞬思考が停止する。自分が関わってきた事件の中で唯一完全に蚊帳の外だった事件がこのコトリバコの事件。それまでは必ずどちらかに同行していたはずである。深読みしすぎかもしれないが、自分がキーと聞かされた今、コトリバコの事件、いやコトリバコ模倣作品事件で自分が関わっていないのは偶然と位置づけていいのかはまだ情報が少なすぎる。
「あっ、でも待ってよ。コトリバコって子供か閉経前の女性にしか効果ないんでしょ? それだとお父さんが死ぬってあり得なくない?」
「えぇ。もちろん、父がコトリバコの呪いで、死ぬことはありません」
いやに強調した言い方である。そしてそれの意味に気づけないほど光は鈍くない。
「父はコトリバコを悪用しようとしていてとある団体の抗争に巻き込まれ、命を落としました。それをきっかけに母はコトリバコの悪用を徹底的に嫌いコトリバコを全てつぶしていったんです」
「あの事件にそんな裏が」
コトリバコを全てつぶしたと聞いたときは超人的なすごさを感じたが、決して笑い話で終わるような話ではなかったのだろう。『クロネコ』にどっぷりとつかった身で考えると感情を優先してコトリバコを全て壊したのはいいのかと少し気になってしまう。
例えばこの感情が殺した相手に向かっていたら……それは新たな殺人を生んでいたはずだ。仮にコトリバコのみに向いていたとしてもそこから新たなる感情が人に牙を向ける可能性だってあるはずだ。もちろん、プロである彼らのことだからきちんと考えた上での行動だと思うが。
「……そんなお父さんが生きている可能性の時間軸。その記憶がお姉ちゃんに混入している」
「よくあることなの?」
「ごくまれに発生することがあります。時間を何度も巻き戻していくと、01データに異常がみられ、時間軸が崩壊することが。そしてそれが起きるのは主に変えたい未来に間接的に関わっている人です。そしてその変えたい未来は……」
「絃さん、ここのお父さんが生きている時間軸」
「その通りです。そのため光さんにその可能性が宿る記憶を持つまで何度も何度もやり直しさせたのでしょう。記憶が混入したと言うことは、その、時間軸に、近い場所に生きている時間軸があると言うこと。道具を併用すれば辿り寄せることが可能です」
死者の蘇生は不可能であることは、以前の出来事からも理解している。しかし、死んだことさえもなかったことにすれば……可能と言うことか。もちろんそれに関係する代償は大きいだろう。だが、不可能ではなくなったと言うことだ。
「私、心、そしてお母さんの中に父を生き返らせたいと願う存在がいた。光さんはそれに協力する形になった。もちろん、光さんのそれが全て演技で、最初から今回の黒幕とつながっていたという可能性も残しておきます」
光も容疑者の一部としたのはそういうわけなのであろう。自らの白を証明する方法がないためその判断は甘んじて受け入れる。また、自分自身も記憶を失っているだけでどこかの時間軸、もしくは最初の時間でこのことに一枚かんでいたという可能性だって大いにある。そうなのであれば全くの部外者である自分が、今回の出来事に巻き込まれたことも説明がつくのだから。
「でも、そうなってくると不可解なのが……」
「母さんがなぜここにいないのか、という点ですよね」
「話を聞く限りは梢さんも深く関わっているはず。なのにいないというのはどうも納得できない。疑うようで悪いけども……今回の件は梢さんが黒幕でないかと思ってる」
「……私も。正直、私はお父さんの記憶がほとんどない。零は?」
「少し、遊んでもらった記憶はあります。しかし顔などは写真で知る程度。また、母さんからの話を聞いているだけで記憶が勝手に作られている可能性も高いため、結論としてはあまり覚えていないという形となります」
「……だったらなおさら。私たちがお父さんのことを恋しく思うことがない。父という存在に憧れたとしても……それがあのお父さんである必要性もない。お姉ちゃんはもっとそう。……となると、考えられるのは一つだけ、未練があるとすればお母さんだけ」
「うん。そうだよね。もちろん、それに何かしら別の理由がある可能性というのも捨ててはだめだとは思うけども」
いろいろな可能性を考えておかないともしもの時に推理の転換がしにくくなる。ゲームではないので仕方がないなんてことは出来るわけがない。
「それで、ここから先はどのようにしていくつもりですか?」
「ひとまずは探索ですかね」
「……探索」
「えっと、どこを?」
「ココですよ」
とても素晴らしい笑顔で光の不安をさらに増強させた。
後悔のない人生を歩んできたといえる人は一体どれだけいるのだろうか。確かに総合的に見れば幸せな人生を歩んできた、と最後に告げて終わることの出来る人はいるかもしれない。しかし、どのような人でも小さな後悔はあるだろう。例えばあの時、別の高校に行っていれば。例えばあの時、告白をしなければ。例えばあの時、もう少し早く家を出ていれば。
この細かい、人によってはただの笑い話で終えられるようなことを全て改変することが出来れば……。
「だけどそれは運命が許さない」
時空の砂時計。時間を巻き戻せることが可能な道具。これを作り出したのは絃である。
彼との結婚は半ば決められていたコースのようにも思える。だが、それ以上に絃のことを愛していたというのも事実である。彼との出会いを語るとすれば、日記のほとんどを埋めることになるかもしれない。彼との思い出は語れば語るほどに苦しくなる。だからこそ、そのことを気にしない生き方をしてきた。コトリバコを壊せば全てが終わる……そう信じていたから。
しかし、その決意が揺らぐことになるとになった。初めて彼女が訪れた日のことを今も覚えている。アレを運命と言わずしてなんと言えるのであろうか。
凪杉光。
彼女の中に眠るたった一つの欠片。それを回収することが出来たのならば。
「キリストは死から復活をした。死からの復活は決して不可能の中にある存在ではない」
扉が幾重にも重なり0と1の破損データが圧迫する中、見た目の幼い、店長はキリッとした顔をする。
「この身を捧げれば、その後は――――」
0と1のデータに飲み込まれたその音はどこか奥深くへと沈んでいった。
そして時間は、代償を認め、幸せな世界の扉を一つ作り上げたのだった。
「今の音は!?」
光が慌てて後ろを覗く。時と時空の扉の探索は全くもって進んでいなかった。いくつか気になる扉(それは零や心にとって気になる扉であり、光にとってすればただ普通の扉としか思えなかった)を探ってみたがそれらしい進展は一切なかった。そんな憂鬱とした気持ちの中で響いたのがゴゴゴという地響きだ。
「……扉の生成」
「何か感じましたか?」
「……うん。こっち」
「ちょ、ちょっと」
説明もないままに走り出した心を追いかける。一体何がわかったというのであろうか。
来た道を戻っているわけだが、それが本当に戻っているのか否かすらわからない。何せ見えるのは幾千の扉と、そして部屋の中にいるはずなのに地平線が観測できるという不可思議な現象。この場所に置いては、上下の感覚ぐらいが確かな物でそれ以外は方向音痴でなくても迷いそうになってしまう。ただし、迷う為の道は、前か後ろかの二択しかないために、そうそう怒ることではなさそうだが。
「……ココ」
「ここって……えっと?」
「確かに強い霊力を感じます。ここが新たに創造された扉ですか」
「霊力云々でここが新しい扉だと断定されたという点に関しては何も言わないけどさ、ひとまず聞きたいのは扉の生成ってどういうことなのかな?」
もはや霊力だからと言われれば、はいそうですか、としか言えない。しかし、それ故に推測される出来事などに関しては理解できる可能性が数パーセントと非常に高いために聞いておく必要性がある。
「パラレルワールドが産まれたとでも考えてください。私たちは日夜、様々な選択をすることでどんどんパラレルワールドを産むことになります。しかし、今回の出来事は何かしら人為的な方法……例えば時空の砂時計を使い時間をやり直す等によって産まれたのがこの扉です。あまりにもタイムリー過ぎるため……おそらくは今回の出来事に関わっているとみていいことでしょう」
「うーん、うん。了解。ひとまず理解はした。それじゃあ、これからどうするの?」
「……ひとまず、様子を見る。扉を開けるだけ開けてみる」
「扉を開ける? それっていいの?」
「……たぶん問題ない」
「たぶんなんだ」
不安が募る。死ぬと言うことはないかもしれないが恐怖が体をすくう。死以上の恐怖というのは実際問題あるのであろうか。思えば『クロネコ』の仕事として生死に関わることを行ったことはないように思う。最大限まで安全に配慮をしてもらっていることであろう。
扉がゆっくりと開かれる。そのとたん、光の頭の中でからからと音を立て始める。
そして、まるでUSBが差し込まれたパソコンのように、新たなる記憶が宿る。それは今まで不鮮明だった絃のことに関するもの。
「待って……!」
この先に行くことへ本能的な恐怖が体を巡り、間一髪で二人にストップをかける。心などはもはや体の半分が扉の中に入っていた。
正直、自分に何が起きているのかを説明できるのかと言われれば、説明は出来ない。しかし、突然に思い出が頭の中に入ってきては、暴れ出しているのだ。
「どうされました? って、光さん?」
振り返った零が珍しく慌てたような、驚いたような声を上げた。そして自分の変化に気がつく。
「えっ? あ、あれ? おかしいな、なんで」
ポロポロと涙がこぼれ出す。その理由はなんとなく勝手に理解できている。二つの記憶が頭を駆け巡り、どちらが本物で、どちらが後から付け足された記憶なのかもわからなくなる。だけど、一ついえるのはこの涙は悲しみの涙であることだ。
「ちょ、ちょっと待ってね」
「……お姉ちゃん」
「ハンカチ……、ありがとう」
渡されたハンカチを受け取る。目尻をぬぐいながら記憶の整理に努める。なんとなく霧が晴れていき、どうして涙を流していたのかが理解されるようになる。それと同時にとても大切な物を忘れたようにぽかりと記憶に穴が開いたような気もするのだ。
「正直に私がわかることを伝えていくね……。その前に今までの流れなんだけど……、私の中になぜか絃さんの記憶が紛れ込んでいた、ということでいいんだよね?」
「そうですが……」
「もし、私が意味のわからないことを口走りだしたら……そのときは私を見捨てる覚悟もしてほしい。そのことだけ先に伝えておくわ」
「……お姉ちゃん、何言ってるの?」
「光さんを見捨てる理由もありませんが……」
「とりあえず、話を聞いて」
光自身よくわからないことを話していることを理解している。それでもなお伝えなければなるまい。最悪自分の命で、この二人が救えるのであれば喜んで差し出すつもりだ。
自分の記憶を知識としても保持するためにもう一度この世界を眺める。
「どうして、ここって地平線が見えるんだろうね?」
声音が変わる。普段よりも大人びた印象で音も少し低かった。そこにはなぜか慈愛や落ち着きと言った……一言で表すならば母性のような、そんな物が含まれている。
「地平線、ですか?」
「高さ160センチぐらいの所から見ているとして、およそ4.5キロほどで地平線が見えると言うことになっているらしいの。だけど、これは地球において。地球は丸いからどこかの地点でまっすぐに見ることが出来なくなる。その計算はピタゴラスの定理で求められる」
「何が言いたいんですか?」
「この時と空間の扉は地平線が見える。つまり、少なくともここの地面はまっすぐではなく、円を描いている所にあると言うことになるわよね」
「……考えたこともなかったけどそういうことだと思う。地平線が見えると言うことを不思議に思ったことはなかったけど」
「不思議じゃない? ここはいわば別次元の世界。夢幻回廊の世界では水平線を見ることが出来なかった。つまり、ここは地球、ないしは天体をモデルにした世界であると言うこと」
あの時感じた違和感は水平線がないことであることを思い出す光。夢幻回廊とはいわば夢の中の世界であるが、それゆえに現実を無視し、超越した世界を生み出すと言うこともあると言うことであろう。また、地平線や水平線のメカニズムなど普段は意識することがないため夢に反映されにくいのかもしれない。むしろ知らないことも多いだろう。光も知らなかったのだから。
「この扉が延々と続くと仮定した場合、どこかでループをすることになる。つまり、新たに扉が作られると言うことはあり得ないともいえる」
扉と扉の間に隙間はほぼなくきっちりと収まっている。そんな中に新しい扉が産まれると言うことは、扉と扉の隙間に無理矢理押し込み他の部分を押し出していると言うことになる。だが、それはこの世界が直線上でしかないと仮定した場合の話である。もしも球体であるならば何かを生み出して押し出すということが不可能になってしまう。
そもそも扉が作られたと思われる瞬間も、扉の位置が動いた気配は一切なかった。そのことから推測されるは何かの扉が別の扉に置き換わったと言うこと以外あり得ない。
「待ってください。確かにその理論ならば、それは正しいことになるでしょう。しかし、ここはあくまでも異次元の世界。地盤となる球体の直径が大きくなっている可能性も―――」
「それはない。それをするには拡張というもう一つの機能を付け加える必要性が出てくる。時空の砂時計にはそんな機能はつけられていないし、付け足すことも出来ない」
「光さん?」
「霧桐絃はこの世の全てを、等価交換で産まれる物だとしていた。今までの道具だってそう。全て対価を払うことで成り立つ。そう定義したゆえに等価交換内にあたることであれば、様々な物を作り出すことも難しくなくした。さすがの一言に尽きるわね……」
光自身、妙に頭はさえていてクリアだった。思考回路もハッキリしていて、気が狂ったわけではない。しかし、そこから紡ぎ出される知識は『クロネコ』のアルバイト以上の物を有している。特に弦の事に関する知識などは零や心を上回る物があるだろう。この時空の砂時計が弦によって制作された物であることなども、全くの初耳であるはずだ。
「つまり、人の命を救うという等価交換は人の命でもって成立する。とはいえ、それは道具による効果。戸籍とか色々面倒な法的な問題および、様々な可能性に不具合が生じるため実際は人の命以上の対価が必要となってしまう。そのことを理解している絃さんは……この展開を止めようとしている」
「……今話しているのはお姉ちゃん? それともお父さん?」
「記憶を介して喋っているだけ。今私の中には自分の生霊に取り憑かれたためにクロネコを訪れたという記憶と、絃さんの後妻して私がいる記憶の二つがある。ついさっきまでこの二つの記憶が半端に混ざり合っていたせいでよくわからない、新たな記憶をねつ造していたみたいね」
「後妻……、ですか?」
光は一体何を言っているのだろうか。後妻ということはもしやと考えられる。父の享年を知らないのでなんともいえないが母は現在34。同じ歳であるとすれば、19歳である彼女と結ばれたとしてもおかしくはないかもしれない。
「零、心。あなたたちは反発をすることなく私を迎いいれてくれた。ただ、年齢的な関係から私との関係は親子というよりお姉ちゃんという関係だったけどね」
「……お母さんはその記憶ではどうなってるの?」
「梢さんは、コトリバコの事件でミスをしてなくなってしまった。そこからしばらくは、父子家庭として二人を育ててきたけど、ある事件をきっかけに私と出会い……いつの間にか恋仲となって、婚約関係となった。結婚は私が卒業してからということになったけども」
「ある事件について尋ねても?」
「零がね、不良グループに憂さ晴らしとして絡まれて、命に関わる怪我を負ったの。それを見つけた私が救命活動をして助けたという事がきっかけ。クロネコとして不思議な事件を解決できても、こういう現実に起きる問題に対して無力なことに絃さんは憤りを感じていたわ」
「私が……。正直意外としか言い様がありませんが」
「今の私の中にある記憶は、梢さんが死んで色々あって絃さんの後妻となったという物。そして私たちが元々いた世界線……そこのバグが生み出され、修正して作られたのがこの扉。そこでの凪杉光はそんな運命を辿っていたみたい」
さらさらと扉をなでる。この先にあるのが、光が言う世界戦であり、かつ元の世界の扉ともなる。
「しかし、なぜ光さんにだけその記憶が……」
「その事に関しては……。だから私に任せてここにいてくれないかな?」
「何があるかわかりません。ここは私たちの方がよろしいかと思い――――」
「零くん、心ちゃん」
発言を遮ったのは、普段の光の声音。その瞬間から、二人の義母となった光ではなく、アルバイト従業員として、時に年上としてコミュニケーションをとっていた光に戻る。
「今、私は二つの記憶を保持している。それはどっちも大切にしたい記憶であるけども……、だけどどちらかと言えば、自我や、説明の出来ない感情としてはクロネコのアルバイト従業員という感覚の方が強いの。だから、私を信じて待っててほしい。必ず戻ってくるから」
「約束ですよ?」
「……約束。裏切ったら、ユウを介して呪い殺してもらう」
「あはは、それは怖いなぁ。わかった。必ずバグを取っ払って、元の世界線に戻すから。じゃあね」
扉を開けてその中に沈んでいく。
0と1のデータに飲み込まれる中、記憶が巡り巡り、そして意識がはっきりとしていく。
次に目が覚めた場所は――――。
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