第一章:心なき動機
どこの場所にも、周りから少し浮いた人物は存在する。そ
の浮いた存在が自分である、という認識は自分自身――――霧桐零にもあった。
その理由としての自己分析としては、いつも携えている微笑みと、誰に対しても一歩、壁を作っている敬語のせいではないだろうかと推測できる。
最も、四月も終わろうとしているのに、これらの特徴を治すことをしないのがまた、性格を現わしてる。
そもそも、自分自身それらを気にする必要もないと零は断じていた。その為、これらの特徴を治すつもりもなく、いつも通りに一人放課後の道を歩く。
高校生の放課後の行動としては、部活動に参加をする、友人・恋人と過ごす、帰路の道を着く、アルバイトに性を出すなどのパターンが考えられるが、零は帰路への道とアルバイトの両方を取り入れていることになる。実際はアルバイト以上の仕事をしている為、やはりどのパターンにも当てはまらない。
零の『黒猫』における仕事は技術者として多くの商品を生み出すこと。非常に繊細でデザインのよい品々は、一部界隈でとても人気が高い。時にはより大きな商業展開を申し出る企業もあるのだが、かりそめの姿である為全て断っていた。そもそも大量に生産をすることも難しい。だから、これは副業でいいのだ。
カランと『黒猫』の扉を開ける。自宅兼用の店であるが、もちろん家に入るための玄関は別に存在する。だが、帰宅する方向やすぐに仕事にはいれる関係などから、店の方の扉からでいるすることが多い。
「あら、零。おかえりなさい」
「ただ今戻りました、母さん」
零を待ち受けていたのは彼の母親である梢。並ぶと、それは兄妹かのように錯覚されるがそれは間違いである。彼の妹は別に存在する。
「今お客様が来ているところよ。お相手、よろしくね?」
と、梢は言うが、店内には零と梢以外の姿は見えない。すぐに、そのお客様が『黒猫』ではなく『クロネコ』であることがわかった。
「それは構いませんが……、どこまでお話を?」
「お茶菓子をお渡ししたところ。そこで零が帰ってきたの」
「なるほど」
つまりは何も進んでいないということらしい。ただ、中途半端に投げられるぐらいならば、最初からこちらが受け持つ方がよい。どうせ、引き継ぎも何もしてくれないのだから。
暖簾をくぐり相談室への扉をノックする。
コンコンコンという乾いた三つの音の後、室内に入る。
「初めまして、ようこそ『クロネコ』へ」
「はじめ、まして」
中にいた人物をサッと観察する。年齢は18~22あたり。装いや雰囲気から働いているようには見えないので、大学生だろうか。髪を茶色に染めているが、決して派手な感じでもなく、メイクも必要最低限でとどめている。決して冷やかしなどで遊びに来るタイプには見えない。そもそも顔もどこか緊張感を帯びていて、メイクでは隠し切れない疲れを感じ取れる。『クロネコ』の客は大半が真剣な悩みを抱えていることが多いため、こういった顔色をしている人物は珍しくない。
「『クロネコ』の使者、霧桐零と申します。見た通り、普段はただの高校生として通ってますが、力は本物ですのでご安心を」
微笑みながらまだ着替えていない自分の制服を見せる。制服から高校を特定することは非常に容易であるが、特別隠すことでもない。最悪、問題が発生した際はそれなりの対処をすればよいだけの話だ。
「私は……、
噂か、と口の中で小さく繰り返した。噂の収集を最近怠っていた気がする。火のないところに煙は立たないというが、煙をたたせることで、あたかもそこに火があるかのように見せることもできる。噂はバカにならない。
「なるほど。もちろん、私達で解決できるかどうか、という前提はありますが、その噂は場違いな間違いではないですよ」
「はぁ…………はい?」
肩の力を抜いてもらうための定型的な挨拶なのだが……この挨拶がウケることはなかった。むしろ恐怖心を与えているような気すらする。不思議な話に思う。
切り替えるためにシャープペンシルとノートを手にして彼女を見る。
「さて、それではどうして私どものところへ?」
どこかぽかんとした表情を見せたままだったが、すぐに気を取り直して、また深刻な表情へと戻った。
「実は私、時々意識を失ったような気分になるんですよね……。そして、フッと気が付いたら、別な場所にいるんです」
「短時間の記憶喪失、ということですか?」
「どうなんでしょうか……。気を失っている間、どうしてそうしたのかという理由もわからなくて、なぜかその場所にいたり、何かをしようとしていたりするんです」
「なるほど……」
冷蔵庫の前まで行ったところでふと、何を取りに来たのかを忘れる、というレベルの話ではないだろう。では、その他の可能性としては……。
「解離性同一障害……いわゆる、多重人格や夢遊病、ということはないですか?」
超常的な現象かと思いきや精神的な病であったという話も珍しいわけではない。むしろ可能性で上げるならそちらの方がいくらでも高いものだ。それゆえに、霊現象かどうかは慎重に検討しなければ見逃す可能性も高いのだが。
「疑わなかったわけではないです。でも、それだと説明がつかなくて……。どうやってそこまで来ただとか、何をしようとしているのか……それは理解できているんです。だけども、なぜ、そこにいるのか。なぜ、そのようなことをしているのか……。そう、動機に当たる部分だけが欠落をしているんです」
その言葉に目を細める。
通常多重人格であれば、主の人格が後退している最中の記憶は保持していないことが多い。しかし、記憶を保持している――――しかも、動機だけをなくして。また、彼女の言い方からしてどのようにして来たのかなども推測をしているわけでもなさそうだ。
少なくとも、零はそのような症状がでる病気に心当たりはなかった。
「ちなみに病院の方には?」
「まだです。近くにいい病院がないというのもありますし……調べても似たような症状もない……。この状況でいっても、よくて妄想、悪くてイタズラと思われて終わりだと感じましたし……。それにこんなことを相談できるような親しい友人もいませんし」
実際にその場に行けば、何かしらの処置は施してくれるであろう。光の言葉に偏見ともいえる部分が存在するが、それも仕方のないことなのだろう。
心霊現象を存在しないものと考える医学にとってすれば、変わった現象に悩まされる人たちを前に妄想癖と結論付けるのが一番合理的な結論と言える。もちろん、それが通常の思考であり、なんでもかんでも霊現象と結び付けられるよりはよっぽどマシなのだが。
しばし、シャープペンシルを走らせる。色々な考えを書き連ねるが、医学方面においても、心霊現象においても。これといった結論を出すことはできなかった。もしも、結論付けられるならそれで対策を施して終わりなのだが……。
「この依頼、クロネコはしかとお受けいたしましょう」
「本当ですか!?」
「ただし、まだ超常現象などによるものと結論付けるわけではありません。超常現象であるとすれば、という仮定の元サポートをしていきます。それでもよろしければこちらにサインを……」
紙を一枚渡し、注意事項などに目を通させる。注意事項には途中で契約の破棄をすることはできなこと、超常的現象であるならば必ず最後まで解決をすることを約束すること、そうでないのならば『クロネコ』の人脈ネットワークで解決策を見いだせる存在を紹介することなどが書かれている。また、報酬は成功報酬であり、経済的事情も加味した値段を請求することが書かれている。
超常的現象を相手にするときはこちらも命がけなのだ。
一通り目を通し終えたらしい光が、サインをして紙をこちらによこす。それを受け取ると同時にお守りを差し出した。
「こちらはクロネコで製作をしております、お守りです。肌身離さずお持ちください。ただし、このお守りは必ず効くんだ、という気持ちと一緒に。想いは時として在り方そのものを変質させてしまいますから……」
説明をしている零ですら、毎回プラセボ効果のようだなと思う。思い込めば……というものだが、こういった曖昧な超常的道具は人の想いというものに影響を受けやすい。
「わかりました、よろしくお願いします」
頭を下げる。チラリと契約書を覗く。この契約書で重要なのは一番目は携帯番号、二番は名前だ。
「では、近いうちに連絡を差し上げると思います。こちらから、どうぞ」
一見すると何変哲ない壁であるが特殊な操作をすることにより、扉が横にスライドして外へとつながる扉となる。軽く驚いたように目を開かせる光。
「割とシンプルなトリックなんですよ。皆さん、驚かれるんですけどね」
「そ、そうでしょうね」
「それでは……。あなたに幸せを」
困ったような笑いの後、光は外へと消えていった。今更だが、荷物も必要最低限のものしかもってきていないようだったので、このまま家へと帰るのだろうか。
ともかく、今回の件を色々と対策を立てる必要性がある。まとめたノートを片手に自室へと帰ろうとする。
「……お客さん?」
「帰ってきてたんですね、心」
店の方から声が聞こえる。振り返るとそこには制服姿のまま右手に、黄色のユリを一輪持った、双子の妹がいた。
黒髪を伸ばしっぱなしにして、特別まとめるなどをしていないために、見慣れている零からしても暗い雰囲気を持っている。だが、大きな瞳に丸みを帯びた顔は同時に幼さも感じさせて、その雰囲気を相殺させているようだった。
「……うん、たった今、帰ってきたところ」
「そのユリは?」
「……もらった。下級霊に」
つまるところ寄り道をしていたらしい。下級とはいえ幽霊にプレゼントをもらうなど、心だからこそできる芸当であろう。心のすごさと、そして彼女に憑くユウの相乗効果は素ざましいものがある。
「また、ユウに呼ばれたのですか?」
「……うん、ユウと一緒なら大丈夫って」
心が見上げる場所には、ただ電灯が光をさしているだけである。しかしながら、零でも感じることが出来る。見えないが存在する。不可思議な感覚だが、零にとってはそれが日常の中で育ったものなので素直に受け入れられる。
「そうですか。ユウと一緒なら大丈夫でしょうが、気を付けてくださいよ。貴方はただでさえ、幽霊に好かれやすいんですか」
「……ユウは大丈夫だよ?」
「ユウのことは信頼していますよ。それに、幽霊にかかわらず人気の少ないところは危険でもありますから」
「ユウがいるから、大丈夫」
ユウにそのような力はおそらくないはずだが……これ以上の忠告は無意味だろう。
「……それより、お客さんはなんだったの?」
「そうですね。今回の依頼者は凪杉光さん、19歳。大学生になるに従いこちらに越してこられたご様子です。後、彼女との契約もとりつけています。これが簡単にノートです」
心にさきほどメモしたノートを渡す。黒髪から除く瞳は細かく揺れていた。おそらくその瞳の奥では緻密な計算が行われているのであろう。
「……呪い?」
「わかりません。ですが、その可能性も考えて
「……わかった。私も調べてみる」
心はノートを返却して、ユリの花を花瓶へと入れると二階へと上がっていった。ユリはくるくると風の力で回ってから動きを止める。その花弁はまるで客を待ち構えているかのようであった。
「さて、母さんはどのようにお考えですか?」
いつからいたのかは定かではないが、真後ろにニョキリとたっていた母、梢に尋ねる。もはや驚きもしない。
「んーとね……、一つ言えるのは彼女は嘘をついているつもりも、騙そうとか、そういう腹黒い打算的なものはないことは確かよ」
「道具管理履歴は?」
「カメラならさっきみたわ。もちろん、勝手に使われた形跡はなかったし、そもそもそのようなことがあればすぐに発見しているわよ」
「少なくとも、クロネコの道具ではさそうですね」
『抜き切りのカメラ』。この話を聞いて真っ先に思い浮かんだのはこの道具だ。もちろん、用法が似ているだけで今回の事件とは関係なさそうに思えたのも事実である。だが、そういった思い込みが足をすくわれる可能性もあるため確認は必須となる。それに模造品という形でならもしかすればあり得るかもしれない。
このカメラに映された者は記憶を奪い取る。元は嫌な記憶を消すためのものであり、動機だけを消す、といった器用な真似はできないはずだ。しかし、
「とはいえ……手がかりがないのも辛いものです」
渡したお守りも、反応を示さなければ何が原因かもわからない。
むしろお守りの効果が発揮してもらえる方がこれは故意か事故かはともかく、何かしら生存している人間によるものであることがはっきりするのだが。
「母さんは何か考えがありますか?」
「私も今のところは何も思い浮かばないかなー」
本気で考えているのか怪しげな、お気楽声である。思わず苦笑いを浮かべてしまうが、一変。少し真面目な表情へと変わる。
「零、一つだけ覚えておきなさい」
「なんでしょうか?」
「超常的な現象に対処するために私たちのような存在が産まれたのか、私たちのような存在が産まれたから超常的な現象が起きたのかは分からないってことよ」
「卵が先か鶏が先か、みたいな話ですね」
零の返しには何も答えず、「困ったことがあったら言いなさい」と言葉を残してどこかへと去ってしまった。
「とにもかくにも」
零はレジ下の黒いローブを羽織る。黄色いユリ。花言葉は『陽気』と『偽り』。『黒猫』から『クロネコ』へ。
「調査の方、開始いたしましょうか」
あれから、何事もなく三日が過ぎた。調査を行うにしても、零、心ともに高校生活を過ごす必要性がある。基本的にはそちらを優先せざる得ない。もちろん、大きな問題が発生すれば別だが、たいていの問題は梢が解決してしまうことだろう。その梢も普段は一人で『黒猫』を切り盛りしなければならない。仮初の、表の顔ではあるが、そこがしっかりしていなければ大きな問題へと発展してしまう。
「それで、何か思い当たることはありますか?」
片手に菓子パンを持ちながら零は屋上からグラウンドを見下ろす。昼休みにもかかわらず、昼食をとらずに走り回っている生徒が数人見えた。一体何をしているのかは屋上からは判別を付けられなかった。
口内には麦と餡子の味が占める中で適当なところに腰を下ろす。辺りにも数人の生徒の姿が見えたが、幸いにもこちらを注視している人物はいないようだ。
「……私はいくつか推測を立ててみた。でも、正直なところは実際に見てみないことにはわからない」
クリームパンをかじりながら所感を伝える心。
「なるほど。私も同様の意見です」
「……凪杉光からの連絡は?」
「いいえ。お守りの方も効果を発揮している様子はございません」
ピッと魔法陣の書かれた紙を見せる。心はチラリと見てすぐにクリームパンを齧る作業に戻った。
反応のないものを見ても仕方がないということだろう。そもそも、何か問題があったのならば凪杉光から連絡がやってくるはずである。
「今は耐え忍ぶしかない……ということでしょうか」
多少の歯がゆさを感じながら再びグラウンドへ視線を戻した。
――――おや。
目に留まったのは食堂からあふれた人々だ。通常であれば多少の賑わいを見せたとしてもここまで人があふれることはない。なにかしら新メニューがでたのだとしても、ここまで溢れるだろうかと少し思案をしたところで思い出す。そうだ。確か午後から他学年が他校と合同授業を行うらしい。その生徒たちの昼食場所として提供をするということが事前にプリント配布されていたことを思い出した。プリント内容は、当日は食堂が込み合うことが予想されるためできるだけ使用を控えるようにというものだ。零としては普段使用するのは食堂ではなく、コンビニか、または購買のどちらかであるため記憶にとどめていなかった。
「なるほど、驚きというのは非常に単純なものです」
「……驚き?」
「えぇ……」
そこで視線を合わせる。何気なく呟いた驚きというワードではあったが、その一言を一つの推論を立てた。
心と目を合わせ頷く。どうやら全く同じ推論を立てたらしい。
「驚きという言葉からこの答えが道びだされることに、今日単純に驚嘆しました」
「……ユウがどこかへ行った。やっぱりそのギャグはやめるべき」
「そう、でしょうかね」
タイミングが良い、悪いという言葉があるが、今回に限れば非常にタイミングが良かった。一つの推論を立てて、梢にも相談を行った夜。凪杉光に異常を示したことを表す発光が魔法陣が行った。
「……零」
「わかっています。行きましょう。それにお守りも発動してくれたようですからね」
もしも自分が普段から微笑みを浮かべていなければ、ニヤリと頬をゆがめていたことであろう。それほどまでにお守りが発動したということが嬉しい。なぜならそれは、故意か否かは分からないが、人からの呪いの類であることが確定をしたということなのだから。
零は真っ赤な鏡を手に取り、そして黒いローブを羽織る。心も同様に黒いローブを羽織った。昼にこの格好であれば目立つが、夜なら目立たないだろう。そもそも目立つ目立たないというのは体して関係がない。どうしても、心霊現象に対しての抗体を得るために作られた、陣が描かれたローブを作成しようとするとこうなってしまうのだ。
「改良が必要かもしれませんね」
「……なにが?」
「いえ。何も。それより、見えてきましたね」
魔法陣が指し示す方向を覗くと、道を歩いている光を見つけた。その姿はただ歩いているだけで、何もおかしいことはない。それもそのはず。
彼女は凪杉光本人であり――――そして多重人格でもなんでもないのだから。
「では、いきましょうか」
「……うん」
アイコンタクトを取ってパッと目の前に現れる。
「きゃっ!?」
突然現れた漆黒のローブ二人組に驚いたのだろう。小さく凪杉光は叫び声をあげていた。その様子にますます確信を深める。
だが、それは厄介さも感じさせるものだ。こんな結末ならば、誰かに呪われてしまっているほうが楽だったのではないだろうか。
「数日ぶりです、凪杉光さん」
「その声、クロネコの」
「はい、霧桐零です。こちらは妹の霧桐心です」
「そ、そう。それで、どうして急に? あっ、もしかして何か分かったとか?」
「えぇ、とても厄介なものが憑いているいるようです」
「厄介?」
光は思わず首をかしげたようだ。言っていることの意味が分からないとでも言いたげである。
「それでは、今は何をしようとしていたのですか?」
「今? 今は……デパートに行こうと思って」
「こんな時間に、ですか?」
零は時計を示す。日を跨ごうかというほどの時間。24時間営業のデパートは少なくともこの近辺にはない。
「そもそも……なんでデパートに……? あれ? なんで……。もしかしてまた」
「混乱されていることはご理解いたします。しかしまずは、遠回りかもしれませんが、私の話を聞いてください。それが一番の近道となりますから」
「は、はい」
とりあえず、話は聞いてくれるらしい。道のど真ん中で話すのはいささか危険な気もするため、それとなく道の端に誘導をしながら喋りだす。
心霊現象を解決しようとしているのに、車にはねられて自身が心霊になるなど笑えない話だ。それこそ自分のギャグ以上に。
「例えばです。貴方は部屋でくつろいでいます。しかしながら突如、部屋の電気が消えてしまい、真っ暗となってしまいました。貴方の感情はどうですか?」
「お、驚くと思います。何が起こったのかもわからないかと……」
「では、外が雷雨である、という前提条件があればいかがでしょうか? もちろん、あなたが雷など怖くない、という前提がありますが」
「とうとう落ちてきたかと思います。もちろん……多少は驚くでしょうが、先ほどよりは冷静に対処できると思います」
「その通り。驚きという感情は自分の予想外の出来事に対して起こることがほとんどです。身構えていれば驚くようなことが起きたとしても、急激な変化そのものに驚くだけで、恐怖などによるものではありません」
「私はついさっき、クロネコさんが現れたことに驚きましたが。後、妹さん? がもう一人いたことにも」
チラリと視線を心にやった。心とは初対面のはずで、もう一人妹という存在……。あぁ、あの人か。
「凪杉さんが最初にお会いになったのは私どもの母親ですよ」
「あの人がお母さん!? よくて中学生ぐらいだと思ってたよ!? 今日、というか今年一番の驚きだよ!」
年下ではあるものの、口調を丁寧なものにしていた彼女が普段使いの言葉へと戻す。それほどまでにこの出来事が驚きだったのだろう。
「このように予想と違うことに関しては驚きというものを感じるわけですね」
「あっ、そっか……。その話でしたよね」
脱線を多重に起こした挙句、反対車線にまで達していたようにも思える会話。このまま進み続けたら、対向車線と正面衝突しかねないので零は話を本筋に戻す。
「そして気になる点。驚きと、動機の喪失にどのような関連があるのか、ですが……。繰り返しになりますが、驚きは予想の裏切りです。逆に言えば辻褄があえば驚きは少ない。何が言いたいのかと申しますと、人の意識は全て辻褄合わせでしかないという仮説――――意識受動態仮説というものをご存知でしょうか?」
「意識……なに?」
うまく聞き取れえなかった為か聞き返される。だが、この仮説を説明するのも難しい。そもそも零自身もなんとなくしか理解をしていないところである。だからこそ、身をもって体験してもらう方が楽だろう。
「……じゃんけんを、して」
「じゃ、じゃんけん?」
今まで話に参加をしていなかった心の唐突な要求に戸惑った様子ながらも、素直にじゃんけんをした。結果は凪杉光がグー、心がチョキだった。
「……じゃんけんで出す手は自分が意識的に決められていると思われている。だけど違う。本当はこれを出そうと意識をする前に脳が決めているといわれているの」
「だから、辻褄合わせ?」
「その通り。そしてあなたはこの辻褄合わせが出来ない状況になってしまった」
「はい?」
突飛な方向からの攻撃に怪訝な顔を隠そうともせずに尋ね返してくる。
「デパートに行こうと脳が先に決めた。それはなぜかと意識が辻褄合せをしようとできなかった。簡単に言えばこんな状況にあなたは陥っているのです」
「じゃ、じゃあ、私は動機を失っているのではなくて」
「元から動機など存在していなかったということです。にもかかわらず脳のデパートに行こうという発想に抗えずに、そもそも疑問にも抱かずに行こうとしていて……その道中などでふと、何をしているのだろうと疑問に思うんです」
そこまで話して、もしや梢は最初から知っていたのではと勘ぐってしまう。意識が先か、動機が先か、ここが話の焦点だったのだから。
「でも、どうして!? 今までそんなことなかったし」
「なぜ思考が断絶をしていたのか。その理由はこれです」
零がスッと赤い手鏡を見せる。鏡なのだからそこに映るのは凪杉光である。だが、一瞬の後にぐにゃりと鏡の映像が歪んだ。
「う、うぅ……」
胸を抑え込み沈む凪杉光。そっと零が彼女の肩を支える。一体何が起こっているのかと目線で訴えかけてきた。
「なぜそのような突飛な行動を脳が勝手に行い、そして動機もないまま動き出そうとしたのか、その理由はあなたにあなた自身の生霊が取りついて操作をしていたから」
苦しさからか、漏れるのは荒い呼吸だけであるが、耳だけはこちらに向いており必死に聞きとろうとしていることがわかる。
「生霊はもとよりおかしな行動を唆す存在となりえます。しかし、そもそもがあなたの生霊……。より深くしみ込んでしまい、その為に生霊の記憶も保持してしまったのでしょう……。なぜ、あなたにあなたの生霊がとりついたのかまでは……わかりませんが」
これが全ての原因だ。今思えば多重人格というのも遠からずというわけだ。一部記憶を共有している別人格と入れ替わっていたようなもの。その別人格の名前が、生霊だっただけの話だ。
「この鏡は『真実への鏡』。通常は霊体を認識させ、引き剥がすために用いるのですが、今回は自身と再統合させるために用いております。ただし、生霊は自身と統合をさせる方が苦しみが増す。もう少しの辛抱です」
「……大丈夫。再統合中は磁場が不安定になるけど、辺りの幽霊がすりつかないように私がいる」
その励ましは、もはや凪杉光の耳に届いていなかったようである。苦しみの声を夜空へと咆哮をする。すかさず、零が一枚のお札を取り出し「元に戻りなさい」と伝える。紫煙が起こり、彼女は意識を手放し地へと落ちた。
「統合、完了です」
倒れ伏した彼女を背負う。想定通りの重さと、背中にそれなりの大きなのふくらみ。そしてすーすーという寝息が耳元に木霊する。
「さてと、一見したところ、一件落着、ですかね」
「……やっぱり、やめたほうがいい」
零の変わらぬギャグに冷たい視線を送る心。二人はそのまま彼女を背負ったまま黒猫へと帰還した。
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