推しが引退して三日目の夕暮れ

 推しすきなアイドル引退ししごとをやめたので私も仕事を休んで一日ぼんやりしてその次の日は泣き明かして寝て起きて死ぬほどお腹が減っているのに気づいてカップ麺を食べて突然のヘヴィな供給に胃袋をひっくり返して食べた分まるっと逆流させたらようやく生きている実感が湧いてきた。そういえばスマホが電池切れだ。そんなことはどうでもいいから現実を見つめよう。


 私にとって推しすきなアイドルの引退は彼女の死に等しい。偶像アイドルであった彼女じんぶつ偶像アイドルを辞めてもこの世に留まって毎日学校に通って三食食べて恋をしてふつうのおんなのことしていきつづけているのだろうけれどその人間いきもののことは今は置いておく。それは偶像アイドルでは最早ない。

 私の想いはリア恋勢アイドルとのれんあいをゆめみるれんちゅうとは違って恋愛感情ではない。その肉体が暮らす現実にちじょうとは関係なく真実ステージの彼女を推しあいしているのだから。それは猥雑な現実空間クソみたいなせかいから切り離された舞台上きょこうでの人格に過ぎないが、彼女アイドルがそれを演じたという事実からイデアのようにそのは証明される。彼女みゆみゆの存在に関わらず概念みゆみゆはそこに在り、ただ偶像みゆみゆを通じてその姿を私達の前に現していただけなのだ。言うなれば永遠不滅である上位存在みゆみゆがいっとき少女みゆみゆの体に宿りアイドルみゆみゆとして活動し、私達にその姿を、実在を知らせてくれていたのだろう。みゆみゆはここにいると。


 そうか。ならば何も悲しむことはない。

 私は真実を手に入れていた。


 かつて崇拝対象アイドルであった人間なにか偶像アイドルでなくなったとして、それは概念みゆみゆの実在性には何ら影響を及ぼさない! 私はもう真実かのじょを知っているのだから!

 私の中には推しみゆみゆの思い出が誰よりも鮮烈に焼きついている。彼女のデビューステージから毎日のブログ内容に至るまで(否、ブログ更新はそんなに頻繁ではなかったけど)。ならば私こそが誰よりも――引退した肉体だれかよりも、本物のみゆみゆに相応しいのではないか。

 そうだ、そうだ!私ならば引退すうらぎることなくみゆみゆを演じ続ける偶像アイドルでい続けられる!


 託宣を受けた預言者のように、私は吐瀉物の溜まった便器から顔を上げ、押し入れに詰め込んだ学生時代の衣類から極力ものを引っ張り出して身にまとうと洗面台の前に駆け寄りポーズを決めた。


「ぴちぴちフレッシュ十四歳、みーんなの妹! オレンジ担当みゆみゆだよ!」


 オタクどもの歓声はない。

 鏡の中には、サイズの合わない服を着た、やつれてくたびれたアラサーの女がいた。


 何やってんだろう、私。


 いや、大丈夫。まだこの格好で外に出てなかったからセーフ。ぎりぎり踏み留まった。むしろ偉い。


 どんなに理屈を積み上げても推しみゆみゆ彼女みゆみゆ一人しかいないし、その彼女はもうアイドルを辞めて普通の女の子として学校に通って三食食べて恋をするのだ。私の知らないところで、私の知らないみゆみゆになっていくのだ。

 ならばせめてと、私はそれが幸福であることを祈る。推しみゆみゆではない、信じてもいない神様に。


 あと会社には連絡しよう。謝り倒してなんとか許してもらおう。まずはスマホを充電しよう。

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