第3話 追い女-3 潜心(ダイブ)

 夜道の足音は恐怖をそそる。


 夜道を一人で歩いていると、周囲には誰もいないのに“自分以外の足音”が聞こえる。

 そんな経験はないだろうか。


 一説によるとそれは自らの足音の反響音であると言われている。

 夜道の静けさ、環境音の少なさ、そして孤独感が反響する足音を際立たせている――と。


 しかし本当に“いる”としたら――

 “自分以外の誰かが背後にいる”としたら――


 そう考えると振り向くことができなくなる。


 もしも背後に“それ”がいたとしたらなにか取り返しがつかなくなると、そう思うのだ。


 それは現実逃避に似ている。

 しかし目を背けようと、現実は何も変わらない。


 そこにいるものは、見ないでも、そこにいるのである。



 こつり、こつりと靴音が夜道に響く。


「……おそくなっちゃった」


 疲労の溜まった重い足を引きずりながら帰路につく“少女”が一人。

 街路樹に挟まれた舗装道を歩いていた。


「頼ってくれることはありがたいけれど、毎回こうも残業が続くと気が滅入るなぁ……」


 少女のバイト先には同性の上司がいる。

 上司は少女のことが気に入らなかった。

 “態度が気に入らない”、“見た目が気に入らない”、果てには“声が気に入らない”と難癖をつけている。

 残業を無理に押しつけるのも、その延長線であった。


 頼まれたら断りづらい性格を、ていよく利用されているのだろうか――

 少女はトボトボと歩きつつバイト先への愚痴をこぼす。


 夜道を照らし出す電灯の下、少女は道端に設置された時計塔を見やった。


「時間は……零時過ぎか。さすがにこの時間だと誰もいないわね。早く帰らないと」


 疲れはしているがその足は止まらない。

 一秒でも早く家に帰って落ち着きたい――という気持ちはもちろんあった。


 しかしなにより少女の心を支配していたもの。

 それは“恐怖”――


 ひと気のない道は物騒だ。

 男だとか大人だとか関係なく、“ひと気のない夜道”というのは根源的な恐怖を誘う。

 それが女性であるならなおさらだ。


 この恐怖から解放されたい。

 少女の心の大半を占めていたのはその思いだった。


 ――こつり。


 ぴたり。

 少女の動きが止まる。

 しかしそれはほんの数秒であり、すぐにまた歩き始める。


 ――こつり、こつり。


 周囲には誰もいない――はず。

 それなのに“誰かの足音”が聞こえる。

 自分以外の誰かの足音が――


「……気のせいよ」


 少女は今度は立ち止まらなかった。

 気のせいだと言い聞かせつつその足を進める。


 ――こつ、こつ、こつ、こつ。


「気のせいだ気のせいだ……!」


 小声で自分に言い聞かせる。

 これは自分の足音だと。

 自分の足音が反響して二重に聞こえているんだと。


 振り返ることなくその足を前へ前へと進める。

 一刻も早くこの場から離れるために、この恐怖感から逃れるために。

 ひたすら前だけを見て小走りに前進する。


 ――こつ、こつ、こつ、こつ。


 しかし速度を上げれば上げるほど増してくるその音。


 自分の背後に誰かがいる――

 その疑念は払拭しようとすればするほどますます青年の脳内で膨らんでゆく。


 ぴたり。

 少女は足を止めた。

 そしてもう一つの足音も止まる。


 ――いっそ……振り返る?

 ――振り返って、確認する?


 後ろに誰かいるのかいないのか。

 いないことを確認すればこの不安感は払拭される。


 ――しかし本当に誰か――“なにか”がいたなら?


 もしも本当に自分を追うなにかがいたならどうするか。


「……誰かいるんですか?」


 青年は前を向いたまま背後に声をかける。

 返事はない。

 振り向くしか確認するすべはない。


 ――少女は意を決した。


「……っ!」


 歯を食いしばりつつ、背後には何もいないことを祈りつつ、振り返った。


 ――そして少女は錯乱した。



 ――かつてここで殺人事件が起こった。


 自分の足音の反響音――それを後ろから尾けてくる誰かの足音だと錯覚する現象。


 ある少女がバイトからの帰り道、その二重の足音を“自分を追ってくる通り魔”だと勘違いした。

 あろうことか偶然居合わせた通りすがりの男性を殺害したのだ。


 彼女は罪に問われるさなか、ほどなくして自殺。

 そして死後、自らが当該の夜道にて怨み出る霊となったと噂されるようになる。


 それが“追い女(め)”――

 “彼女”であると。


「でも真実は違う。被害者は“被害者ではなかった”。及川真奈を本当に追っていたストーカーだったんだよ」


 青年は――斎藤|樹(いつき)は語り始める。


 水中のような不安定な場所。

 朝とも昼とも夜とも知れない、時間から隔絶された空間。


 ここは潜心(ダイブ)の空間だ。

 樹が飛び込んだ、“彼女”の精神空間。


 ここにいるのは樹ともう一人――


『来ないで……来ないでぇっ……!』


 目の前にいる“彼女”。

 不定空間の中心でうずくまる少女。

 “及川真奈”その人だ。


 樹の目の前にいるのは“追い女”ではない。

 “彼女”そのもの。

 樹は“彼女”の本心そのものと相対していた。


「被害者とされていた男性は本当にストーカーだったんだ。……さらに男性の本当の死亡原因は自殺。その場で自分に刃物を突き立てた。“及川真奈は殺人犯ですらなかった”」


『う……うぅ……』


 “彼女”は一層悶え始める。

 全身を小刻みに震わせる。


 しかし青年は構わず畳み掛けた。


「しかし人の噂とはとても恐ろしいもので、世間はこの事件に際し面白おかしく彼女を“トチ狂った悪女”に仕立て上げた。のちに報道された“彼女が無実である”という事実をかき消す勢いでな」


 樹は続ける。


「人々の心無い噂は言霊と化し、死後の彼女を現世に縛りつけ地縛霊へと変化させた。年月が経ち真実が遠ざけられることでさらに悪霊化に拍車をかけさせた。今でも“追い女”とネット検索すれば、嬉々として書かれた創作小説が上位に出てくる」


『あなたは……いったい私に何がしたいの!? 私を追いつめたいの!?』


 少女は――及川真奈は耐えきれないといった様子で、始めてハッキリと自らの意思を示した。

 うずくまったまま背後の樹へと叫ぶ。


「俺はあなたを苦しめたいんじゃない」


 樹はまた一歩進み出る。


「俺はあなたを救いたい」


『……私を救う?』


 及川真奈はうずくまったままぴたりと震えを止め、疑問の言葉をつぶやく。


「……ぶっちゃけ最初は興味本位だった。サークル活動の一環として、レポートを書くに留めるつもりだったんだ」


 自嘲気味に苦笑する樹。


「でも調べていくうちに気持ちが変わった。図書館で当時のローカル記事を読んでいくうちに、行動したいと思ったんだ」


「及川真奈はもとから臆病でおとなしい少女であり、決して誰かを傷つけようとかそういうことができる人間じゃなかった」


『私は……』


「悪霊と化してもなお相手を昏倒させるにとどめ、相手を死に至らしめることはしなかった」


『私は嫌だった……私は……』


「あなたは、救われなきゃならない。あなたは苦しむべき“人間”じゃなかったんだ」


 樹はうずくまる少女の、小さな肩に手をかけた。

 振り返る“彼女”。


 目の前の“彼女”は追い女でも、悪霊でも、殺人犯でもない。

 一人の少女。

 “及川真奈”。


 あたりは光に包まれた。



「おかえりなさい、樹くん」


「……未來先輩。無事帰還しました」


 樹は目を覚ます。

 道端に設置されたベンチの上。

 樹は未來の膝に頭を乗せる形で横たわっていた。


「樹ぃ生きてるかー?」


「生きてますよユリ先輩」


「雑! なんか未來のときと反応が違うぞ!」


 樹の顔を覗き込んだのはユリ。

 ポニーテールを揺らしつつ憤慨するも、その目は樹の無事を喜ぶように安心した様子である。


「……“彼女”は?」


「“彼女”はあなたが目を覚ます直前に無事に逝ったわよ。ぴりぴりと張り付いたオーラを解き放って、安らかな表情で天に登っていったわ」


「そうですか、よかった……」


「私はよくわかんなかったけどな」


「ユリ先輩はそもそも霊見えませんもんね……」


 樹はユリに対するツッコミもそこそこにし、夜空を見上げた。

 そして“彼女”へ捧ぐように、言葉を紡ぐ。


「あちらではもう“追われる恐怖”はありません。ゆっくり休んでください。及川さん――」

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