第三話 笑顔


 愛想笑いが下手だと、世界は上手く回らない。そう、私は思う。


 皆が笑っているのに、私はつまらない。そんなことはしょっちゅうあることで、でも仲間はずれが嫌な私は表情筋を、毎回無理に動かして笑みを作る。

 何時か笑窪が可愛いね、とお世辞を言われたこともあるけれど、それが嘘によって鍛え上げられたものだと思うと、ますます私は自然に笑えなくなった。


「はぁ……これじゃ、駄目だよねえ」

「多田さん、どうかしたの?」


 こぼしたため息は、丁度隣を通った【おともだち】の、長原藤子ながはらふじこさんが拾ってくれた。それを実に余計なお世話だと思ってしまうのが、私の悪いところなのだろう。


「いや、まあ、色々あってね……あはは、ちょっと疲れちゃっただけだから、大丈夫」

「そう? ならいいけど、あんまり辛気くさくしないでよね。貴女って目立つから、皆心配しちゃうわよ?」

「あはは、そうだね。ゴメンゴメン。ありがとね」


 私はまた、倦みを見せないよう慎重に愛想笑いを作った。好きでもない人にそんなことをするのは、やはり少し疲れる。

 長原さんの助言は、目立つ、ではなく浮いている、とすれば大体正しい。

 特定の友人グループを持たない私は、深く関わらないようにぐるぐると色んなクラスメートの間を毎日回っていた。

 またその中で、一番安心できるのが丸井緑という男の子の隣だということが丸分かりであることが、私を悪い意味で目立たせる要因の一つでもあるのだろう。


「やっぱり、どこか変。まあ、私に相談してくれないのはいいけど、ほどほどにね。あ、でも私そろそろ部活に出ないといけない時間だから、むしろ助かったかな。じゃあね」

「あ、そっか。じゃあね。バイバイ」


 そして、クラス委員長の長原さんは、目立ちたがり屋さん。文武両道の彼女が、私よりも目立つ容姿だったら、彼女が私を見る目も優しくなっていたのだろうか。振り返らずに、去っていった彼女の気持ちは分からない。

 ただ、長原藤子が私のことを嫌いだと言っていたのを、扉の影で聞いたことはあった。


「あはは。嫌われ者だなー、私」


 でも、もう虐められたくはないので、それを知っていても皆とは【普通】に接する。

 いや、別に私のことを嫌いな人は、言うほど多いものではないのかもしれない。以前とは違って気をつけているのだし、むしろそうでなければ困ってしまう。

 けれども、もし皆私と同じように演技をして生きているのかもしれないと疑い始めれば、もう何も信じることが出来なくなってしまうのだ。私が嫌でも彼らが【普通】にしてくれているのかもしれないという考えがちらつき、どこも居心地が悪くなる。


「それでも、一人ぼっちは、嫌」


 一人きりの放課後の教室で、情けなくも私は弱音を宙に溶かした。帰宅準備中の人たちや部活動に勤しんでいる人たちの声が、あまりに遠くから響いてきて、私のこころにざわつきを残していく。

 こんな、寂寥感も、久しぶりだ。


「……私を助けてよ、りょっくん」


 求めても、きっと私の元には来ない。昔とは、また変わってしまった。ただ、望みはそれほどないけれど、助けて欲しいのは本当なのだ。

 でも、もしまた私を助けてくれたなら、辛いのも嬉しいのも全部、彼の自作自演ということになってしまうのだろうか。こんな気持ちは全て、アイツのせいなのだから。


 そう、大好きなりょっくんが、悪いのだ。



 丸井緑という男の子と私、多田光は、新生児室で出会ってから今まで、すれ違いながらもずっと付き合いを続けている。

 もちろん、胎児の記憶どころか物心ついたのが幼稚園に入ってからという私には、そんな古ぼけた思い出なんてないけれど、その時に知り合った私と彼の両親の話から繋げると、それは確かな事実であると知れる。

 多田家と丸井家、その二家は隣り合うくらいに近いわけではないけれども、散歩しながら回れる同じ町内であったから、以降も交流が絶えることはなかった。

 それはつまり、私とりょっくんも、同じ時間を過ごすことが多かったということでもある。


 主に、彼が車で連れられて、よく無闇やたらに広い私の家にやって来た。

 親同士で仲良くしている間に、幼く狭い私とりょっくんは二人で遊ぶことを強制される。しかし、その隙間を埋める遊びを、彼と一緒に開拓していくのはとても楽しかったものと覚えている。

 互いに、アウトドア派な幼児だったから、登り易い樹のウロに宝物のコインとかを隠したり、穴を掘って大きなミミズを引きずり出したりして、今では考えられないくらいに活発にやんちゃをした。

 やりすぎて一緒に怒られるのもまた、ひとつのコミュニケーションで。あの時の私たちには、余計な壁なんて何にもなくて、平和だった。


 それは、その天衣無縫振りを見かねたりょっくんの両親が、彼を塾に通わせて私たちの時間を奪うようになってからか、それとも小学生になった二人が幼馴染ではなく【クラスメート】になってしまったからなのか。

 あるはずのなかった壁が、二人の間に何時の間にか出来ていた。


 知らずに、目新しい誰彼に構うことで、二人だけの時間はどんどんと奪われていって、何時しか互いに興味を失っていく。そして、次第に知らない間に変化していくりょっくんに対して、私は彼を好きであった気持ちですら変化させてしまったのだ。

 真面目だけれど自信過剰気味だったりょっくんと、運良く恵まれた容姿だけでちやほやされて強気だった私は、よく喧嘩をした。結果は、大抵私が最後に泣いて勝っておしまい。

 そんなつまらないやり取りは、昔を取り戻したくて起こし続けた摩擦だったのだろうか。それは、今でも分からない。

ただ、あの小学生の頃の彼のことは嫌いだったし、今だって嫌いだ。


 あの頃の私のことは、もっと、嫌いだけれど。


 やがて、性差が顕著になってからは、ぶつかることすら少なくなり疎遠になった。私たちの学年ではクラスなんて二組しかなかったのに、二人が別れてしまったというのも、影響していたのだろう。

 私は喧嘩相手のりょっくんが居なくなって、せいせいしていた。でも、それは同時に、私の増長を叩いてくれる人が居なくなったということでもある。私は、大切な鏡を失ってしまったのだ。


 だから、伸びに伸びた天狗の鼻は、自重ではなく他人の手によって折られることになった。女王を気取った私に対して周りの反応はうざい、から直ぐ嫌いに変わって、そうしてついに気持ち悪いと思われるまでになっていく。

 そこまで来たら、私が迎える結末は一つしかない。虐め、それからの無視だ。


 裸の王様が、更に王冠と民衆すら奪われてしまえば、彼は何の証もないただの変質者に早変わりしてしまうだろう。似たように、中身の無い私は見捨てられることで簡単に底辺へと落ちていった。

 金等を搾取されることや、様々な種類の暴力を浴びせられるようなことはなかっただけ、私は随分とマシな方だったのかもしれない。でも、幼い彼らにそういう知識があったなら、全てされていたに違いなかった。

 いや、本当は、そんなことなんてなく、私にすることを悪口と軽蔑と無視とで済ましたのは、彼らの中に優しさがあったから、なのかもしれない。

 でも、私にはいじめられっ子を追い詰めて自殺にまでに至らしめる不良と、【おともだち】だった、彼らの違いがまるで分からないのだ。


 絶えない陰口と、汚物扱いされることだけで、私は何度も死にたくなった。勇気を出して相談した両親から、理解されずにただしっかりしろと、怒られたのには、絶望した覚えがある。

 それでも、私が蔑んでいた不細工な子と一緒に後ろで黙って過ごすことになってから、ようやく虐めは無視に変わってくれた。そして、作り笑いに、媚びること、後は頭を下げることを覚えて、時間をかけて私は少しずつ認められるようになったのだ。


 それは、一年経って最高学年になり、またクラス替えがあって人が入れ替わったから、というだけではないのだと、そう思いたい。


 まあ、そんな私が苦しんでいたというどうでもいいことを、りょっくんは少しだけ知っていて、少しは心を痛めてくれていたらしい。

 虐められていた時期に、暗くなった私に構うために隣のクラスからやってきて、虐めという秘密を共有することで特有の異様な雰囲気になっていた教室内で、何度か彼が私に接触をはかろうとして失敗している姿を眺めていたことがあった。

 その度に、重くて吸いにくい空気の中で、それでも後で私はため息を吐くしかない。

 好きなんじゃないか、とか、彼氏ならとっとと持ってっちゃってよ、とかいう言葉に一々反発して、そうでなくても少しはやし立てられただけで逃げ出す気分屋のくせに、無理をして。

 対面しても、盗み聞きしている元【おともだち】から言葉尻を捉えられないよう喋らない私に、りょっくんが幾ら話しかけても無駄だったのに。


 助けてくれない全てが憎くて、そのせいで全てが曇ってしまった灰色の世界に居た私は、そんなりょっくんの行動が、うざったくてたまらないものだった。

 何しろ目立たないようにしているのに、役に立たないからかいの種が向こうからやってくるのだ。私を目立たせないで、と思って彼の余計なお世話を憎んでしまうのも、あの時の私には自然なことだった。


 ただ、この時から、一人になろうとする私をりょっくんが追いかけるということが、当たり前のことになったのは、私にとって怪我の功名だったのだろう。

 学年が上がって同じクラスになっても、顔を伏せ続けていた私を忘れずに、仲間はずれにならないように彼が頑張っているのが見て取れた。

 最初は過干渉が憂鬱なばかりだったけれど、それだけでなく続けられていけば段々と黙ってばかりいられなくなっていくものだ。勝手に気を使われるのが嫌になった私は、顔を上げて文句を言う気になった。

 私は一人で大丈夫なのだと、強がろうと思って。


『どうした?』


 そうしたら、そこにはりょっくんの笑顔があった。私と正反対の、満面の笑み。それを直視してしまった私は、何も言えなくなって、声はすぼまり顔も赤くなってしまう。でも、その時だけ、私は顔を伏せることを忘れていた。


 この後から、私はりょっくんの姿を目で追うために、顔の上げ方を思い出して、下ばかり見ることをどんどん忘れていく。

 久しぶりに見上げた空は、青くて綺麗なもので。おかげで、小学校の卒業アルバムの中には、私が笑っている写真が今も幾つか残っている。




 何時か、私はりょっくんに、どうして私を助けようとしてくれたのか、聞いてみたことがある。あんなに喧嘩ばかりしていたのに、気にしてくれたのは、どうしてかということはずっと気になっていた。

 彼は私のことがそれ程好きではなかったはずなのに。

 りょっくんはそんな私の質問に長い間悩んだ。そして仄かに顔を赤くしながら返してきた言葉は、確かこのようなものだった。


『いや……俺は、俺を助けたかっただけだ。昔はずっといっしょに居たしな……だから、俺は光が暗くしていると、どこか調子がおかしくなるんだよ。俺がもし、そうなったらと思うと、もうダメだ。気分悪くなるから、何とかしようと動くしかなかった。大体余計なお世話だったかもしれないが、俺は光が久しぶりに顔を上げてくれた時に満足したんだから……お前もちょっとは嫌じゃなかっただろ?』


 その言葉に照れ隠しなんてものはなく、全部本当のことだったのだろう。成熟にはまだ遠くて幼くもあったりょっくんに、現在のように分け隔てない優しさが備わっていくのは、まだまだ先のことなのだから。

 ただ私は、彼の身内に対する情に、助けられたのだ。


『うん……嫌じゃ……嫌じゃなかったよ……』


 そして、そんな特別な位置に、無視されるべき汚物という自己評価が定着していた、他人の筈の私が置かれていたということ。そんな嬉しいことに、私の胸は酷く高鳴る。

 家族にですらもう向けられなくなった親愛の情が、心の底から湧いてくるのが分かった。


 彼は私のことが嫌いじゃないのだ。嬉しい。でも、貪欲な私はもっと欲しいと泣いてしまう。


『うぅ、あぁあ……あ、ありが……うぅ……』

『お、おいどうした?』



 初めて、私はりょっくんに泣いて負かされた。何時だって、恋した方の負けなのだ。



 これが、私の何番目かの恋の始まり。そして、これから私がりょっくんを追いかけるということが当たり前になったのだった。

 色々とあったけれど、それは今現在まで続いている。臆病だから手を伸ばすことまで出来ないけれど、そのせいでたとえ望みが潰えてしまったとしても、私はずっと彼を追い続けることだろう。そして、心の内で求め続ける。




 私にはもう、それしか出来ないのだから。



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