第二話 覚えたこと
「……やっとごちそうさまか」
「ごーそーさまっ」
彼女がいただいたのは、お弁当とその他諸々。
さすがに弁当箱までは食べずに返してくれたが、それにしても文句を言うまで隅々までその中を舐めていたその様からは、今回の手作り弁当を気に入ってくれたということが過ぎるくらいに分かった。
その前まで広がっていた、ホラーでスプラッタな光景を飲み込んだ後で、こうも嬉々としていられるのだから、彼女はとても大物だと思う。さすがの巨体だ。
「まったく、それにしてもお化けか……最初にここに来た時は、確かにそんなもんを恐れていたけど、通いなれた今更になって出てくるものとは。まあ、俺も得体のしれないものに縁があるもんだ」
そして、この知りあう順序が違っていたらきっと、俺の五体が悲惨なことになっていたに違いない。その場合の俺は、あの幽霊の事をよく知っていて、この蜘蛛のバケモノを知らないのだから。
だから、もしお化けの方を先に見つけていたら、俺が必死にあの子をこいつから保護しようとして犬死するようなことがあったのかもしれない。
「お化けなんてないさ、って考えていた過去の自分に感謝だなあ」
また、心霊よりもUMA(未確認動物)の方に興味があったことも、幸いなのだろう。だから、こんな怪力乱神の化身のような生き物から逃げ出さずにいられる。
「いや、絡め取られてしまった、っていうのが正しいか」
「んー?」
俺に弁当箱を返してしまったために、その有り余る手が暇になったのか、彼女は銀糸の広がった地面を二種類の手を器用に使ってさらい、パラパラと散らばる糸をカンテラの青色の光に当てて煌めかせることを楽しんでいた。
彼女の銀髪は遊びに合わせるように流れ、黒い甲殻にぶつかって跳ね、艶々と波立つ。そして、幼さを残した顔立ちの中でも殊更特異な赤い大きな二つの単眼が、青い薄暗闇の中からうるさい俺を見つける。
そんな、異常で恐ろしくて、綺麗な彼女から、離れることはもう無理だった。俺は、そういう個性を認めてしまったのだ。斬って捨てるべき妖怪のような彼女を、俺は気に入ってしまっている。
「そうだ、あと、一つあった。そう、お前にあげられるものがあと一つ」
「ひーつ?」
用意していたのは別に大したものではなく、しかし向き合うにはきっと必要になるものだ。決して俺は彼女のことが嫌いではなく、ならば好きなのだろう。だから、そろそろ【彼女】では遠い。
「お前の名前、色々と考えたんだけどな。まあ、調べたらお前の見た目がアラクネだとかアルケニーだとかいうゲームの蜘蛛のモンスターに似てたからさ、簡単にアルっていうのでいいと思うんだよ。どうせ、俺が呼ぶためだけの通称だし、別に構わないよな?」
「うー?」
親なんてないのか、誰にも名付けられなかった彼女は、俺の名を知ってから楽しそうに呼んでくれる。なら、安っぽく二文字だけで、でもきっと呼びやすい名前を、彼女は喜んで受け取ってくれるだろうか。
「俺がりょく、お前が、アル」
「りよー、アル」
「そう。お前はアルだ」
「アル……アル」
そうして、彼女は笑んだ。まるで、あの時のように。しかし、今は凄惨なものではない。
アルは、人食いだ。
いや、一度きり、初めての時にしかそれを目撃していないので、本当は雑食で悪食であり、偶々それを口に入れただけであるのかもしれない。
しかし、アルがこの巣穴まで人を導くために伸ばされた糸を目撃することがなければ、俺は永遠に彼女のあの笑顔を見る機会を失っていたのだろう。
銀糸に引っ張られていたおじさん、確か行方不明者を探す町内放送では、高里なんとかさんと呼ばれていただろうか。その彼がフラフラと糸の続く茂みへと入っていったのを目撃して、思わず追いかけてしまったのがそもそもの始まりだった。
そして、洞窟に入った彼を幾度も躊躇しながらスマートフォンのバックライトの光源のみで追いかけた俺は、彼の最期を目撃したのだった。
アルはその時、高里さんをシャクシャクと頭から食べていた。
頭蓋なんて硬いものだろうにと思ってしまうが、しかし途方もなく顎の力が強いのであれば、それは人がカペリンを頭と尾のどちらから食べるのがいいか、と論議する程度の好みの問題にしかならないのだろう。慣れた今だったら、そう呑気に考えられる。
しかし、あの時の俺はそんな彼女に恐怖して、足の震えで俺は止まり、だから余計なことも出来ずに満腹でご満悦なアルの笑みを目撃できたのだ。そう、弱さのせいで何もできなくて、無様にも俺は助かった。
最初は変なおっさんだと冷やかしの気持ちで追いかけたのだけれども、それでもあの時俺は食まれて亡くなっていく彼を助けたいと心から思っていた。
動かない膝をあそこまで恨んだことは、初めてのことだ。声を発することすら出来なかったというのに、未練がましくもあの強い迷いは脳裏に焼き付いている。それに、暗い洞窟程度を恐れて救出の機会を逃した自分の馬鹿さだって、未だに後悔し続けているのに。
それでも、逃げ出す前に見たアルの笑みが、忘れられなくて。そして、食料と共に訪れるのを繰り返して、俺は恐怖を先に忘れてしまったのだ。
いいや、ひょっとしたら、通報すらしないでアルを隠して独り占めしている俺は、既に恐怖に狂ってしまっているのかもしれない。
もし、またアルが人を食べるようになれば、次には親族友人の誰かがいなくなってしまうかもしれないというのに。それに何より、このままだと気が向いた時に一番近くに居るだろう自分が、真っ先に食べられてしまうはずなのだ。
あの小さな口で、身動きも取れないままにシャクシャクと、あの笑顔で美味しくいただかれてしまう。
そんな、気持ち悪くて恐ろしいと拒絶してしかるべき生き物に、好意を持ってしまっている時点で、俺がおかしいのは間違いないのだろう。とんでもなく悪い、馬鹿だ。
だから多分、俺と同じように、出会うことで、恐怖で彼女も壊れてしまったのだろう。
「殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す……殺してやるっ!」
彼女の形相を破壊する程に恐ろしいそれは、人間が発していいような鬼気ではない。死んで、残るくらいの怨念を目撃した後だけに、それが分かってしまう。
死んでも変わらない想いよりも強いものが、煮えたぎっているのだ。それが恐ろしくないわけがない。
「コロ……す? あは。コロスコロスコロス。はははは!」
そんな感情を、アルは知る。相手を否定する感情をアルは初めて受け取り理解した。だから、嬉しくて笑っているのだろう。
「ああ……どうして、こんな、ことに」
二人に挟まれた修羅場の中で俺はまた何も出来ずに、ただ、殺すなんて言葉を自分の名前の次に覚えて欲しくはなかったと、そう思えただけだった。
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