第一話 食事
洞窟、というものは山近くに住んでいてもそうそう馴染みがあるものではなかった。しかし、それが暗がりを湛えているということは、馬鹿であっても昔から知っている。
小学生の頃に遠足で見た、山肌に隠れるようにあった、侵食されて大きく開いただけの亀裂を見て、感じたものは恐怖だった。知らず見逃してしまいそうな自然の隙間、その暗がり。
幼心の意地をもってしても、その中に手を突っ込ませることが出来なかったのはどうしてだったのか。怖いもの知らずというのが子供というもののはずなのに。
「原始的恐怖って奴なのかねえ。よく、分からん。もう、そんなのは忘れてしまったからなあ」
もう、取り返しのつかないところまで足を踏み入れてしまった俺には、最早思い出せない昔の心地だ。躊躇いなどなく、俺は慣れた洞穴に入っていく。
「相変わらず、暗いな。まあ、アイツに明かりは大切じゃないもんだからなあ……ないがしろにしていても仕方ないか」
マグライトの光源のみで、湿り滑らかな洞穴を行くのは気軽には行かずに、壁に這わせた手のひらも汗で湿る。
ただ巨大なものが先にいるから、というわけでもないのだろうが横穴の広さは充分であり、頭上を気にしないで済むのは救いではあった。
「お、キラキラし始めた。居るな……おーい。約束通り来たぞー!」
そんな、下を見てばかりの道中で、見つけたものは住人の落とし物だった。ライトの強い光線によって銀色にきらめいているのは、何条もの糸、である。
そんな綺麗なものを束ねてまとめて腹の中にしまっている美人は、俺の呼び声に応じて、闇の中から湧いて出てくる。
逆さまになって、糸と紛らわしいその長い銀髪を地面に付けながら、彼女は俺と目を合わせた。
「りょー。りょー?」
「ああ、俺だよ、緑(りょく)だ。丸井緑。言ってみ?」
「まーいりょー。りょー」
「……前より少しは言えるようになってるか」
俺もまるで幼子に相対しているような言葉を放っているな、とは思うが、しかし現実は八足を糸に引っ掛けて天井からぶら下がっている半身蜘蛛の怪物に対して自分の名前を覚えこませているというものだ。
まあ、しかし似た言葉を喋れるということは声帯が似ているということでもあるし、彼女がオウムでもなくむしろ蜘蛛女であることを鑑みれば、毎度会うたび行うこの努力もそうおかしくも無駄でもあるまい。
対話すらままならない現状は問題だ。
「りょー。なに?」
「ああ、質問か? ならそう、その言い方でいいんだ。……で、何が聞きたい?」
無言で、彼女が人の手そっくりな方の左手が指し示したのは、俺が今まで背負っていたリュックサック。普段通りと違って、大きめでかつ中身が充実したものを持ってきたので、きっと気になったのだろう。
暗い中でも目ざといやつである。いや、暗中在住だからこそ、この暗視力なのかもしれないが。
「ああ、この中ならあれだ。お前の服が入ってる」
「ふく?」
重力に従って捲れ上がったフリルだらけの洋服の胸元を、逆さの彼女は示すように僅かに引っ張った。ライト光が鎖骨の辺りを強く照らし、その肌の見事な白さを俺はぼうっと確認する。まあ、強い野生だけあって無防備なものである。
「ああ、それのことだ。光に頼んだら、着なくなった奴とかまた一杯くれたよ。あいつん家って金持ちだよなあ……まああり得ないだろうけれども、もしアイツに会ったとしたら、お礼を言っとくんだぞ? 多田光(ただひかり)って名前の女だ。言ってみ?」
「たーらかり」
「……まあ、あいつの名前はどうでもいいな。ただ、着るものに困っている女の子が居るって言ったらこれだけ用意してくれたあいつの気持ちくらいは汲んでくれ」
「くん?」
「要は、これも着てみろってことだよ」
そう言って、俺はリュックサックから、畳まれてビニール袋に包まれた色取り取りの衣服を差し出す。
元々彼女は、裸だった。それも八本もある節足の下肢はまだしも、上半身は人間の女体に酷似した何かで、また瑕疵なく美しかったのである。
だから、俺はなんとしてでもそれを隠さなければならなかったのだった。乳房から目をそらすだけでは不十分で、なるたけ似合った上等な着物を用意できなければ、気が済まなかったのである。
恐ろしいものと同じで、それは慣れるべきものではないのだから。
そのために、一度はデパートで女性服を漁るハメになって。
そうして、一着だけでは物足りないだろうと思った俺が、再びレジで女性店員に彼女さんへのプレゼントですか、と聞かれるまでの羞恥と、幼馴染の光に趣味か女性関係を疑われることの恥ずかしさを天秤にかけ、後者をとって、今に至るということだった。
「やー」
「やー、でも今着てるのが似合っていると思うから別にいいが、一応持っていておいてくれ。別に、服着るの嫌じゃなさそうだったじゃないか」
そう、野生の生き物かどうか本当は定かではなくとも、元々が全裸であったというのにワンピースを被せて蜘蛛らしき節足と腹部以外隠した半裸になってから、むしろ彼女はそれを喜んでいたのだが。
果たして、彼女はビニール袋を受け取り、そうしてその人並みより端正な鼻に寄せて。うえっと、顔を背けて舌を出し、手を離した。
「……におうのか」
「そー」
以心伝心。言葉より行動のほうが分り易いこともある。
彼女が臭いと思ったのは、光の体臭が悪いというわけではないだろう、きっと。アロマキャンドルとか香水とか何とか、いい匂いの好きなアイツが持っていた服は、それだけ篭った臭いが強かったのだ。
俺が嗅いだら、まあそうしたら変態のようだが、きっと女性らしい芳香だと思うのだろうけれども、流石に生粋の蜘蛛女にとってあまりに不自然な臭いは嫌なものだったようである。
「きっと引き出しで眠ってた物だろうし、ひょっとしたら箪笥の中の芳香剤の臭いまで混じってたりしてな。洗って干しておいたら多少匂いも減っただろうに……まさか、見栄張って匂い隠しに香水振りまいたりしてないよな。でも間が抜けていて、面倒くさがりなアイツだからなあ……」
「やー」
「やー、でもいいからそれ一応持っておいてくれよ。そんなの家に持って帰れないし。匂いもその内抜けるさ。お願いだよ、頼む」
「うー」
手を合わせてお願いしてみれば、意外と通じるものであったようで、彼女は上下反転してドスンと降りてから、落としていたビニール袋をその手に取る。
「やー」
「あっ」
そして、あっという間に銀の糸でグルグル巻きにしてから、ライトの届かない奥に向けて投げてしまった。直視していても相変わらず、どこから糸が発生したのか分からないのが不思議だ。
暗闇のせいなのかは分からないが、それは何時か白日のもとに晒したい謎ではある。
「って、お前なんてことしたんだよ! あーあどこも糸だらけでどこにあるか分かんないや……そんなに要らないなら今回は仕方ないけれどさあ、何でもかんでも嫌だからって同じことしちゃ駄目だからな」
「うー」
そう、もし俺が要らなくなったといって、同じ事をされてはたまらないのだ。包まれて捨てられて窒息死するより、生きたまま鳥葬された方が、まだ無駄がなくて望ましい。
もっとも、そう簡単に死ぬ気はないが、俺なんて軽々と引き裂けそうなほど太くて硬そうな彼女の蜘蛛の下肢を一本でも目に入れていれば、それを意識せずに済ますのは無理というものである。
「はぁ……まあ、怒ってばかりで通じるわけもないか。仕方ない。出来れば、飯ぐらいもっと気分よく食べたかったんだが……」
「めーしっ!」
文字通り、こいつの食いつきはいい。最初に見た時ですら、モノを食べている光景であったし、比較的にこの生物は食事というものに拘泥していると判断してもいいのだろう。
生き物なら当たり前のこととも思うが、不自然なコレが本当に正常な生き物としての機能をどれだけ持っているのか分からないために、判断も少しばかり慎重になっていた。
まあ、俺が美味しいと思えるようなものを適当に与えてみたら予想通り素直に喜んでくれたので、あまり考えすぎることもないとも思えるのだが。
「そうそう。大量の服のせいでギュウギュウ詰めにするしかなかったから、今回はペチャンコになりそうな菓子パンは避けて……ま、出来が悪いが俺が作った弁当だ。お弁当」
そうして、リュックサックの底から取り出したのは、一本の水筒とプラスチック製の弁当容器。薄いスポーツドリンクは、ここまで自転車を駆ってきた自分のためで、弁当箱の中身は貢ぎ物だ。
中には、海苔巻き三角おにぎりが、鮭とおかかと昆布の三つ。そして、卵焼きとウィンナー。後は野菜が必要か分からないが、多少の彩りとしてプチトマトと茹でたブロッコリーを添えて、ラップフィルムにマヨネーズを絞っておいた。
そんな、強いて言えば手製というのが取り柄くらいの男弁当であるが、まあ今開いた限りでは思ったほど持ち運びの揺れで崩れておらず、きっと味の崩壊もないはずだった。
「おべとー、おべんと!」
「そうだ。おべんと、でもまあ、大体合ってるな。いいだろう、ご褒美だ。ほら、取ってみな。全部串で刺してあるから手でも食えるだろ? こうして……うん、食べるんだ」
語りかけながら、教えるために、俺は卵焼きを一つだけ食んで、串を容器の端に戻した。味も焼き加減もやや甘めに作りすぎたな、と思ったが充分許容範囲内である。俺も気を引けるくらいに、ちゃんと、美味しそうに食べることが出来た自信がある。
落ち着くためにも、俺は無闇に清潔な糸だらけの地べたに座り、そして再びリュックサックの中に手を入れて、取り出したカンテラを灯した。
すると途端に、LEDライトの無臭無聊な青白い光で辺りは満たされて、おぞましさも美味しさも分かり易くなった。
つられるように、彼女の手が、卵焼きに刺さった赤いプラスチックの串に延びる。そして、俺の目の前で止まった。
「んー」
「あ、悪い悪い。届かないか。ほら」
彼女は大きな蜘蛛の下半身の分だけ、常人よりも随分と大きい。故に、自ずと甲殻に阻まれることになる上半身は、下に伸ばしても中々足元まで届かないのだ。
「おー………おー」
自由な糸を使わないのを不思議に思いながらも、俺が弁当箱を高い位置まで差し出したら、彼女もやっと端を掴めたようで、暫くの間物珍しそうに目の前で卵焼きを動かして、様々な向きから見るのを楽しんでいた。
そして、俺がその白い指先が間違って串を抜かして落としてしまう事を恐れ始めるようになってから、ようやく彼女は青白く照った黄色を口に入れて、パキッと食べる。
「あ、串ごと食ったな……まあ、お前なら大丈夫なんだろうけれど……」
「ん」
「ああ、はいはい。口にあったようだな。もう、なんでもいいや。全部好きに食いな」
「おー」
面倒くさくなった俺は、そのまま手を持ち上げ、弁当箱を受け渡す。彼女は物珍しそうに、マヨネーズに指を突っ込んで、それを舐めてみたりして、実に楽しそうにしていた。
そんな風に嬉しそうにしてくれるのは気持ちいい。しかし、遊ぶのも仕方ないが、そのありがたみを覚えて欲しいと思うのは父性からか、はたまた自衛の心からなのか。
「ちょっと待った。食べる前に、いただきます、をしておこうか。ほら、いただきます」
「いたらきます」
今回は弁当箱を取り落とす訳にはいかないから彼女は片手だったが、食事の前に手を合わせるのは、いつものこと。最早習慣になりつつあるのか彼女が、いただきます、と言うのは俺の名前を呼ぶより流暢である。
「おー。……おー」
彼女にとって今回の食事は、発見に満ちたものであるようだ。驚きに口を何度も開くために、もぐもぐポロポロと食べこぼしている。
「相変わらず、どっちが食べてるのか分からないなあ……」
しかし、落ちていく食物をむざむざ見過ごしてしまうほど彼女の目は鈍くなく、たとえそうであったとしても、糸は常に張られているため無事だった。
糸は蜘蛛によく似た彼女の一部である。つまり彼女は、糸でも食めた。器用にも銀糸が落ちてくる米粒やらを弄び、解して吸収していくのである。それも、啜るのではなく組み込まれていくかのような自然さと綺麗さで。
明らかな、超常だ。まあ行儀は悪いが、銀糸が辺りを舞う様はあまりに美しいために、俺も無粋な文句を言う気も起きない。
「おー」
「お前が人間と同じものを食べられる、っていうのは楽でいいな」
最初は、初めて食していたものしか食べないのかと、恐る恐るではあったが、今では気構えなく飯を選べる。どうやら雑食のようなのだ。この蜘蛛は。
自分でも酔狂なことをしていると思うが、しかし野生生物を発見したら、取り敢えず餌付けをしてみるというのはよくある反応だろう。それは、その生き物が恐ろしげな外見をしていなければ、という条件付きのことではあるが。
まあ、彼女の下半身の節足動物振りを気にしなければ、愛らしい上半身に騙されてやることだって可能だった。擬態だろうが収斂進化だろうが異次元的な相似だろうが、女性的な生き物と接するのは中々に面白い。
俺もオカルト研究会の端くれであることを、ここ半年会に出向きもしないというのに、こういう時には自覚する。
しかし、俺が人間であるからには曲りなりとも一般人と接触することこそが、本当は大きな意味を持つものである。勉学だけでなく好意悪意等まで、人は遍く群れから学ぶもの。
ならば、俺以外の人と接してみることは彼女にも似たような意味を持つのか、それをさわりでも知ってみたくなり、試みてみたことがあったことを俺は思い出した。
「あ、そうだ。BGM代わりに、ってのはあれだけれど……ほら、これボイスレコーダー。俺が隠れて休み時間に録音したヤツが入ってる。言葉の勉強になるか分からないけれどさ、俺以外の人間の声を聞いてみるのもいい経験と思ってさ。持ってきたんだ」
「んー?」
パクパク、ぽろぽろ、シュルリという擬音を繰り返していた彼女が俺を見る。夢中になっていても、俺を忘れてはいなかったようだ。気を取られたことで落ちた米粒の塊は、あっという間に糸に侵略されて消えていった。
「まあ、驚くなっていうのは無理かもしれないけれど……弁当落とすなよ?」
「おと?」
『……で、さ。結局、嫌になってドラマを最後まで見れなかったわけなの』
「おーっ!」
「危な! ……って別に慌てることもなかったか」
使わないからと親父から貰ったレコーダーは、不慣れな俺のせいで意図よりも早く音を出して彼女を驚かしてしまった。しかし、彼女の糸の速さもまたさるものであり、驚き手放された弁当箱は、中身を無駄にすることなく絡め取られていた。
人の手二つに蜘蛛の脚八脚。そして今も下を流れていて、どこからともなく出現する糸。これだけのセーフティネットがあれば、大事なものを取り落とすことなんてまずないのだろう。執着の強い生き物だ。
『家族が揃ったから居心地悪くなる、っていうのはまた面倒なもんだな』
「りょー、りょー!」
「そう。俺の声もこの中に入ってる」
確か、これは二限の休み時間での光とした会話だっただろうか。悪用しないとはいえ、少しだけ後ろめたく思いながら、机の引き出しの中のICレコーダーの録音ボタンを押したことをよく覚えている。
『別に、家族の誰が嫌いとかそんなことないはずなんだけれどねー。なんか、皆集まると狭いわ近いわ面倒臭いわで、耐えられなくなっちゃうんだよ』
『八人家族だったけ、光の家。核家族の俺に狭さ、とかはまあ分かんないが……それでも嫌い、っていうなら理解出来ないことはないけれど……ふぅん』
「おー」
そう言えば、こんなことを話していたなあと、妙に自分の声ではない様に思える己の発言を聞き返していると、感心しているような声が耳に入った。
見てみると、彼女は蜘蛛女なりに、レコーダーが会話を再生していることを理解し始めたようで、俺に近付きマジマジと音源を見つめていた。
『あ、嫌いじゃなんだったらさ。お前家族の皆が好きなのか?』
『……一緒にいるのがキツいんだから、常識的に考えてそんな訳ないと思うけど。ま、別にフツーじゃないの? ……そう、フツー』
『普通、かあ……でもお前のそれって、家族に対しての普通じゃないよな。かもしたら、他人に対しての普通なんじゃないか?』
『……どういうこと?』
『関心のないのに寄ってくる他人はウザいだけってことだよ。坂道の金星人語りなんて、俺も逃げ出したくなるくらいどうでもよかったりするしな。ま、きっとお前は、それが家族でも一緒なんだろうさ』
『そう……なのかな』
なるべく自然な会話がいいだろうということで行った光との会話の無断録音だったが、肝心の内容が無駄に重い悩みの話だったので、最初の教材としては易しいものではなかったかもしれない。
しかし、自意識過剰でなければ俺と誰かの会話であるということが、一番彼女の興味を誘うはずである。それと後は、服をくれた恩人の声を聴かせるのも悪くないという考えも、服が捨てられるまではあった。
「んー」
ふと前を向いてみれば、先程よりも彼女との距離は近く、取り敢えず会話に興味を持っているのは間違いないようだった。また眉根を寄せて悩んでいるように見えるが、果たして会話のどこまで理解しているのだろうか。
あるいは彼女は全部分かっていて、それで悩んでいても別におかしくはないだろう。それくらい、俺はこのバケモノの恐ろしさを信用している。
『ま、俺がそう思ったっていうだけのことだ。深刻だったら家出なりカウンセリングを受けるなりすりゃいいと思うが、聞く限りちょっと面倒なだけみたいだし、まあ普通にしてても大丈夫だろ』
『はあ、簡単に言ってくれるわ。もし……もし本当にりょっくんの言うとおりに、私にとって家族が他人と同じって言うなら、私はどこで安心すればいいっていうの?』
『さあなあ……まあ順当に考えれば、ペットを飼って一人暮らしでも始めるってのが、一番早い解決方法だろうなあ。何しろ、光が彼氏作るっていうのは非現実的な話だし』
『なっ! そんなのチョー簡単だよ! 私がモテモテだってこと、りょっくんが一番知ってる癖に!』
『まあ、確かに光のモテ期には俺が仲介人として活躍したこともあったが……でもお前が全部断って、俺に落ち込んだ野郎共を慰めるって仕事を作ってくれたじゃないか』
『だって……それは……』
『それは、相手がよく知らない他人だから、だろ? いや、お前の場合は……っと』
俺は自分の言葉が途切れるのを聞きながら、ここで急に走り寄って俺の肩に手を回して、下らない言葉が口から零れるのを止めてくれた奴のことを思い出していた。今思えば、最後まで言えなくて、本当に良かった。
推察を語りたいばかりに言葉で光を傷つけてしまうのは、本意ではないのだから。
『おーおー、光ちゃんが緑の隣でしょげてるなんて、珍しいじゃないの。まったくどんな話してたんだ? ほら、聞き上手の綱次さんにも教えてくれないか?』
そんな風に気を回してくれたのは、渡辺綱次(わたなべつなつぐ)という、クラスメートだった。
気恥ずかしいために本人に向かってそうだと言えないが、実際に彼は場の空気を読んで行動し、その成果として気が置けない友人の数も多いという、絵に描いたような、いいヤツである。
「おおー!」
また違う声がスピーカーから響いたことに目を白黒させている彼女を見て、俺は少し和んだ。
『……ツナ。はぁ、どうもこうもないわよ。下らない相談事を、なんだか二人でちょっと難しく考え過ぎちゃっただけ』
『ああ、大体わかった。カタイからなー緑は。もっと、柔軟に考えないと。テキトーでもいいんだぞ、テキトーでも。オレを見習えよな』
『いや、お前みたいに適当にやってたら、何も解決しないだろ……』
『いいや。なんだろうと、困ってる相談者をもっと困らすのは駄目だろー? お前が光ちゃんの困った顔を見たかったっていうならオレも文句は言わないけれどさあ』
『そんな悪趣味じゃないって』
『……えっ、私の困り顔って、悪趣味なものなんだ……うぅっ』
『あー、泣かした。光ちゃんかわいそー。緑酷いんだー』
『言いがかりにも程があるだろ……ああクソ、光め急に綱次に調子合わせやがって! おい、下手な泣き真似すんなよ。顔を隠して笑いを堪えているのバレバレなんだぞ!』
『あははっ』
この後結局、俺も綱次の調子に乗っかってしまい、散々からかわれることになるのだ。それもまあ、今考えれば自業自得と思えなくもないが。
「はぁ……しかし恥ずかしい内容だな、こりゃ。やっと、終わってくれたって感じだ」
席から三人共離れたために、後ここから先は雑音ばかりが聞こえるだけだろう。そして、俺は授業中に忘れていたことに気づき、録音停止ボタンを押して終わるのだ。今や、ざわつきばかりが、スピーカーから溢れている。
「おー?」
「どうした?」
そろそろ流しておくのも無意味かと、止めようとした矢先に、何やら気になる反応があった。また、彼女はボイスレコーダーに驚いたのだ。
人でなしの彼女にはまだ、何か聞こえているというのだろうか。耳の形はそっくりだが、きっとその可聴域は人間と幾らか被っているだけで大きく違う。だから、俺には聞こえなくて、彼女のみ楽しめる音もあるのだろう。
「はぁ……どれどれ」
しかし、俺の手はスピーカーを耳元に寄せて、意識は雑音の中に向かっていた。
まあ、やってみても駄目だった、というのもいい経験だろう。手を伸ばすかどうかは、気分次第だ。
『……ぃ』
「お? なんだ……ちょっと、聞こえるな」
『……ぃ』
寄せて、寄せて。すると、鼓膜が人の声のような音で震えた。間近で、吐息が漏らされたような、そんな声が続いている。彼女が気にしていたのはこれか、と理解し、そしてその事実が恐ろしさを多分に含んでいることにも気が付いた。
「随分と近い、な……」
「おー?」
あの後ボイスレコーダーは、録音中であることを知らせる赤色を光らせながら、机の引き出しの中に放置されていたはずだった。そんな、持ち主の俺ですら忘れていたものに、あの時気づいて近寄ったものがいたのだろうか。
こうして、証拠が残っている以上、それは確かなのだろう。そして、その何者かは、息が届くほどに近寄り何やらボソボソと喋り続けた後に、俺の盗聴染みた行為を問題にせず、そっと引き出しに戻したのだ。
俺の手元で、レコーダーがただ今平穏無事に再生されているという現実は、そんな不可解で不気味な人物の影を脳裏に浮かび上がらせていた。
聞き間違いならば、どれだけ良かったことだろう。しかし、その呻くような声は、耳を疑う度、主張するかのように確かに大きく響くようになってきているようだった。
『……しぃ」
そしてまた再び、聴こえた。ひんやりとした洞の空気の中で、緊張した背筋に冷たい汗が一筋流れて、俺はゾッと身を震わせた。
何かが、おかしい。俺は、右手でICレコーダーを持って、そのまま右耳にそえている。ならば、今みたいに【ステレオ】に聴こえてくるのはおかしなことだろう。
蜘蛛の彼女は楽しそうにして、目の前にある。ならば左耳に響いた、この呟きは何者からもたらされたものなのだろうか。
「……やしい」
「……誰だ、何処に居る」
「だーだ?」
もう、スピーカーに意識を向ける意味は無い。明らかに、この青い暗がりの中に何かが居て、呟いていた。しかしそれは、録音されていた声と同じ音色のままに今も流れ続けている。
まさか、声だけがボイスレコーダーの中から飛び出した訳でもないだろうが、そうでなかったとしても、青白い光とマグライトの光を充分彷徨わし、いくら目を凝らしてもこんなに耳元に響く声の主を判別できないというのはあまりに不可思議だ。
「ぃ……やしい……」
「蜘蛛人間の次は、透明人間か何かかよ……あ、でも、なら大したもんじゃない、か」
マグライトの光を瞬きもせずに受け止める蜘蛛な彼女が、平気でいるのが頼もしい。そう、よく分からないものになんて、俺は目の前で餌を与えることで慣れていた。
恐れるのは、不明だから。だとすると、その声よりも俺の反応を楽しむほどの余裕が彼女にあるのは、それが理解できているからではないのだろうか。
「ん」
そう考えた時、丁度彼女は示すように、俺が通ってきた方の暗がりに視線を向ける。俺も、宙に描かれたその線を伝い、見定めようとした。
「ぐっ」
すると、パチリと、何かが繋がったような音が脳裏に響き、頭痛が走った。突然のことで、食いしばり耐えることの出来なかった口の端から、苦悶の声が漏れる。視界が僅かに涙で滲み、耳朶も痺れるように痛んだ。
合わせて、まるで無理やり頭の中を広げさせられたような、そんな嫌な感覚だった。
しかし、そんな不調も刹那のこと。彼女の視線の先を、必死に追いかけた俺は、ようやく小さい影を認めることが出来た。もう、謎の出処は明らかである。
その、薄ぼんやりとして、青色の光景の中で吸い込まれるように暗い、そんな人影の呟きを、姿を見て取れた俺は今度こそはっきりと聞き取ることが出来た。
「悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい……」
「……ああ、そうか。幽霊だったのか。見えるまで気づかなかったよ、すまない」
ソレの歪んだ口が発する意図不明な繰り返しを無視して、ようやく俺は大体を理解した。コレの元は女の子、なのだろうか。血に濡れて損傷が酷くてとても分かり辛い。
とはいえ、何故だかライトの光ではソレを照らせないので、恐ろしくても分かるためには見つめ続けるしかなかった。
そういえばと、寄り道に心霊スポットが入っていたことを今更になって思い出す。そこからくっ憑いていたのだとしたら、随分と長い間この子を無視し続けてしまったものだ。悔しさを連呼するのも、仕方がないのかもしれない。
「悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい……」
「やーし、やーし」
しかしこうして並べて見てみると、やはり幽霊というものの外観は蜘蛛女よりも恐ろしい。あるいは不細工だった。血を垂れ流す亡霊なんて、気持ちが悪い。今にも死のうとしている姿で死んでいるなんて、ミスマッチにも程があるだろう。
そして、一見まともに思える蜘蛛の方は、俺が少女の悔しさを理解しきれないことと、また違う方向で理解を放棄しているようである。そんな彼女の目と態度が、弁当箱の蓋を開けた時から変わっていないということに、俺は気付いていた。
「悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい……」
「どうして俺に干渉して来たのか分からないけれど……わざわざ俺なんかに憑いてくるなんて……哀れだな」
ああ、化けて出てこなければ、良かったのに。怨霊でも何でも、本当に有ってしまえば万物と影響し合い、そのために片一方が害するばかりでなくなる。
しかし、きっと呪うため、伝えるためには、人によって見えるか見えないくらいスカスカだろうと、実体が必要なのだろう。幽体、というものがあるのだろうか。何にもない、が何かできるわけもなく、きっとそれは仕方のない事なのだ。
「めーしっ」
だから、その体が何で出来ていようとも触れることが出来る糸織りのバケモノならば、オバケを食べてしまうことだって可能だろう。
そして、出来るなら、色々な物を食べてみたくなるのも人情。ゲテモノが意外と美味しいというのは、俺も聞いたことがある。
しかし、そんな変なものを食べて、お腹を壊さなければいいのだが。
「止めろって言ってやりたいが……俺なんかに、こんなバケモノ止められるわけがない。だから、ごめんな。精一杯、恨んでくれても構わないぞ。……どうせ、それも直ぐに出来なくなるだろうし」
「えーい」
「悔しい悔しい悔しい、悔し、悔、や、ああああああああああ!」
止める気も間もなく、幽霊を捕獲するために、至るところから銀糸が翻った。糸は、薄かろうとも重かろうとも違おうとも、結び付ける。そして、一つに合わせてしまうのだ。
グルグルと纏まった幽かなものは、捕らえられてからようやく、そこから繋がる自分の運命の末端に気付いて慌て始めた。だがもう遅い。糸は複雑に絡んでしまい、もう彼女以外に解けるものではなかった。
それにしても、この子はこれ程の異形を前にして、何故逃げようともしなかったのだろう。あるいは、自分はもう死んでいるから大丈夫だとでも思っていたのだろうか。思考が悔しさに占められていたとしても、もう少し考えることが出来れば良かったのに。
そう、化けて出るほど恨めしいという、それが生きた感情であることに気付いていなかったなんて、残念だ。
せっかくの、生きた死者。もうちょっと、恨む以外に何かできなかったのだろうか。今更だが、そう考えてしまう。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「……やっぱり、可哀想だ。食べるなら早く食べてやれ。ほら、早く」
「うー」
流石に、ゴボゴボと血を吐きながら、歪んだ口を大きく開いて叫ぶ人の形のようなものを、見続けるというのは馬鹿な俺でもあまりに辛いものがある。不満気な彼女は、蜘蛛らしく大人しくなるまでじわじわとキツく縛する気だったのかもしれない。
でも俺はそんなことを見るのも嫌だし、そんなことを彼女にさせたくもなかった。だから今度こそ深く深く、俺は頼み込む。
「頼む。食べることを止められないなら、それくらいは聞いてくれ」
「……ん」
意図が、通じたのはありがたいことだった。出来れば止めて欲しかったが、それでも彼女は俺のために嗜虐心を収めてくれた。俺は、頭を下げて彼女にそんな不自然を強いることしか出来ない自分が恥ずかしい。
止めたら食われるかもしれないからって、身を呈さないのは悪いことだと、俺は思う。そう、思うだけで、悔しいだけだ。
「あああああああああああああああああああ……」
「よーし」
歩幅の大きな八脚で直ぐに俺を通りすぎてから、糸を辿って、彼女は叫び続けるだけのお化けを、人のようなその手で持ち上げる。
そして。可哀想な残り物。悪く言えば残飯に、彼女は口を付けた。
「――――いたらきます」
俺は目を背けずに、シャクリシャクリとあり得ないものが食まれていく様を見つめ続けた。
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