二人の少女

@delpotoro

第1話


化粧のやり方を調べて夜更かししたせいで居眠りをしていたが、教室の窓の外からコバエがプリントの上に止まったのを見て、瞬時に目が覚めた。不要な日本史のプリントであったのが幸い、又しても不要な英語のプリントで上から叩いた。そして二枚ともゴミ箱に捨てる。まったく、ハエは気持ち悪い。

教室では日本史の矢島による授業が続いている。並みいる教師の中でも眠気を誘う力は格別だ。

「みなさん、最近集中力が落ちてますね。日本史なんて勉強して何の役に立つの?そう思っている方も多いでしょう。しかしね、先人達の貴重な経験、みなさんと同じ人間の生きざまを日本史では学びます。そして、彼らの成功や経験からあなた方が得る知見は計り知れない財産となりますよ。」

矢島はちょっとませた小学生でも言いそうな話で生徒の気を惹こうとしている。だが、分かっていない。そんな手垢のついた言葉を聞いたところで高校三年の私たちは勉強する気にはならないし、歴史で勉強する範囲は古すぎて、参考にならない。しかし、その古い経験で今を判断している者の一人が私の母だ。私は最近、近くのディスコクラブに通い始めた。田舎のここでは、娯楽が限られている。東京では廃れたディスコがまだ残っているのも田舎ならではだろう。私はそこで倫孝たちと親しくなった。何度か会い、今日も遊ぶ約束をしていた。その喜びを母に伝えたのが間違いだった。母は猛烈に怒った。

「あなたが受験生なのに全く勉強しないのは、目を瞑っているじゃない。でもクラブだけはダメ。もう二度といかないで。危険な男がいっぱいいるのよ。せめて、大人になってからにして」

それにしても、時代錯誤も甚だしい。今の時代、ディスコには、まともな男たちばかりだ。そして倫孝も、優しくて思いやりがある。第一、クラブなど行った事の無いであろう母に実情が分かる筈がない。

私の母は真面目で頭もいい。今でも勉強の質問は大抵答えてくれる。私の最大の謎はその母が大学を出てないことだ。高校範囲の、文系科目なら今でも大抵知っている母は確実に一流大学に受かる学力はあったに違いない。だが、理由は聞けずにいる。

その母と、法学部を出て弁護士をしている父は、二人とも教育熱心で私は物心ついた頃から勉強をさせられてきた。そして高校も進学校に入ったが、途中で燃え尽きた。手軽な娯楽に囲まれている環境の中、勉強する必然性も感じず、成績はみるみる下降した。初めは文句を言っていた両親も次第に諦め、最近は口を出さなくなった。

ベルがなる。退屈な学校も今日はこれで終わりだ。家に帰ると確実に母に捕まる。コンビニのトイレで着替え、私はディスコクラブに向かった。暇潰しにゲームをやっていると倫孝たちがやって来た。今日もいつもの連れと一緒だ。倫孝が何をやっているのかは知らないが、いつも四人の連れがいる。二十才という年以外、何も教えてくれない。

倫孝はダンスが上手い。私はもちろんダンスなど知らなかったが、優しく教えてもらった。今ではそれなりに踊れる。今までのように早速踊り始めた。

色鮮やかに点滅する光の中、君の瞳に恋してる、が流れている。誰もが耳にしたことがあるだろうが、ディスコで聴くと違う曲のようだ。コマーシャルなどでも使われているせいでポップなイメージも定着してしまったが、聴くべき場所で聴けば、フランキーヴァリの独特の歌声は幻想世界を生む。平凡な日常とはかけ離れためくるめく世界に、身も心も溶けそうになる。

もう何時間踊っただろうか。踊り疲れた事を倫孝が察して

「そろそろ休もうか」

と手を引き奥の席に連れていってくれた。本当に紳士なのだ。気配りを忘れない。ギムレットを二杯頼む。お酒を飲むことに初めは抵抗があったが、今では消え失せた。他愛もない話をしているとギムレットが届いた。美しい黄金色に吸い込まれそうだ。今度はYMCAが流れている。ヴィレッジピープルの原曲を西城秀樹がカバーして、日本ではヤングマンとしてヒットしたあの曲だ。いつものように乾杯すると倫孝は

「君の瞳に乾杯」

と言った。どこかの映画のセリフだっただろうか。ちょっとキザだけど、真剣な倫孝の表情に私も緊張する。

時計を見るともう九時だった。

「そろそろ帰ります」

と伝えた。この時間だったら、図書館で勉強してた、とギリギリ言い張れる。楽しかったが、仕方がない。すると今日は夕食に誘われた。初めての事だった。最初は断ったが、奢ってあげる、と言われて決心が揺らいだ。母への言い訳は後で考えれば良い。首を縦に振った。

田舎は夜がはやい。九時を過ぎると人影はない。街路灯の寂しい明かりの中、通り沿いのレストランに向かって大通りを歩いていたが突然倫孝が小道に入った。おかしい、そっちにはホテルしかない。悪寒が身体中を駆け巡る。後ろを見ると四人が囲むように立っている。

「ねぇ、どこ行くの?」

「どこ行くの?と来たか。カマトトぶるなよ。分かっているだろ」

明らかに口調が変わる。私はなんてバカだったのだろうか。奥底ではこの時間に夜歩くのはリスキーだと分かっていた。でも母が誤っている、と証明したいあまり無謀な行動に出てしまった。

「早く来いよ、最初から分かっていただろ」

倫孝がにやけ顔を浮かべて言う。

徐々に男五人の輪が縮まる。母の顔が脳裏に浮かんで来た。ごめんなさい、お母さんが正しかった、そう心で呟き身をすくめる。これまで取り返しのつかない失敗はしてこなかった。世間を信じ過ぎたのかもしれない。

絶望に襲われ、足も震え始める。男たちはそんな私を見て笑っている。

その瞬間、私の名を呼ぶ声が聞こえた。ついに心がおかしくなったかと思ったが、もう一度聞こえる。振り向くと車に乗り手を振っている母が見えた。驚きと喜びが胸に湧き上がる。母の車が私達の手前の交差点まで来たとき、私達のいる通りと垂直な車線からトラックが近付いているのが見えた。危ない、と思う間もなくスローモーションで母の軽自動車の横腹にぶつかる。ものが潰れる嫌な音がして、炎が立ち始める。倫孝たちは、目を合わせ逃げていった。やばい、と判断したのだろう。だが、今は倫孝などどうでも良かった。母の車が燃えるのを見て、意識が遠ざかって行くのが分かった。

目を覚ますと、点滴が繋がれていた。父の顔が視界に入る。真っ先に何があったか思い出し

「お母さんは?」

と尋ねたら、静かに首を振った。

そして長い話をしてくれた。

元々、母は極めて優秀だったらしい。今の私と同じ高校で、私とは似つかない成績をとっていて、誰もが名前を知っている都会の大学への推薦も内定していた。法学部だ。国、という強大なシステムを成り立たせている法の素晴らしさに魅了されていた。人生が一気に変わったのは、ある男のナンパが原因だった。男と遊び慣れていなかった母は、簡単にその男の話術に載せられ、私の通っていたディスコで遊んだ。大学が決まった安心感もあった。ある日の夜、レストランに誘われたという。何人かの男の友達も一緒だった。その男を信じきっていた母はついて行き、無理矢理ホテルに連れ込まれそうになった。

なんてこった、私と全く同じじゃないか。

一部の界隈では、有名な手口らしい。まず、男と遊び慣れていなさそうな高校生を狙う。そして何回か遊んで酒で酔わせる。その雰囲気でレストランに誘えば、人っ子一人いないというのに、通り沿いだから女はついつい安心する。時は変われど女は変わらない。

同じ手口にやられた母が私と違ったのは、誰も母を救ってくれなかった点だ。そして運悪く妊娠した。母は子供を堕ろし、事情を学校と警察に伝えて助けを求めた。ところが、男を訴えて貰えないどころか、推薦は取り消しになった。一緒にディスコで遊んでいたため、警察には鼻であしらわれたそうだ。更には周りからも尻軽女、と批判され精神的に大きな傷を負った。母が魅了された法は、母を救ってくれなかった。

私は胸の怒りが収まらないのを感じた。確かに母も私も世間知らずで考えが甘かった。でも、圧倒的に男たちの方が悪いに決まっている。

結局母は高校の同級生だった父と結婚した。浪人すれば大学に受かるのは確実だったが、母はあまりにも疲れていた。だからこそ私も同じ轍を踏みそうになった時、あれほどまでに強く反対した。そして今日、夜になっても私が帰って来ないため、嫌な予感がして父と二人、私を探しに来た。クラブで、男と私がちょっと前に出た、と聞き、父は近くの裏道で、そして母は女泣かせで有名な通り沿いで、私をさがした。母は私を見つけた安堵から、周囲が目に入らなかったのかもしれない。赤信号を無視して交差点を突っ切り、トラックとぶつかった。

胸が痛かった。かつて誰かが、人の命は地球より思い、と言った。私の胸の上には、今地球より重いものが載っかっている。たられば、は滝のように押し寄せる。

一週間後、私は学校に戻った。色々考えた末、私は勉強に専念する決意を固めた。法学部に入り、将来は日本の法を変える。今の法律は、弱者に厳しい。母だけで、犠牲者はもう十分だ。夢の大きさを笑いたければ、笑えば良い。でも、母は絶対に応援してくれる。前では日本史の矢島が授業をしている。話を聞くと、意外と面白い。人間の本質は千年経とうと変わらないようで、歴史の出来事や人物が身近に感じられる。

教室の窓の外からコバエが入ってきて日本史のプリントの上に止まった。こら、邪魔だ。英語のプリントをまとめたファイルでそっとつつく。コバエは再び窓の外へ飛んでいった。澄み渡る青空の下、コバエの存在の小ささは際立つ。でも、どんなに小さく見えるものだろうと、その死を、その不幸を悲しむ存在はきっとある。死は、もうこりごりだ。


視線を上げると、ひこうき雲が浮かんでいた。その眩しさになぜか、涙がこぼれそうになった。



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