文月
家をいつも通り出て、学校に行く。梅雨も明け、天気のいい日が増えてきた。同時に気温も上がり、蒸し暑くなってきた。夏の訪れを感じる。
「お前、最近引っ越した?」
教室に入っていきなり将生に話しかけられ、僕はたじろいた。
「なんで?」
「いや、帰る方向変わってたから」
まさか見られていた? でも将生はサッカー部だから帰る時間は重ならないはず。あ、書道部に最近行ってたからか。
「いや、別に引っ越したわけじゃないよ」
「そうなのか……」
怪しまれてる? これじゃばれてしまうもの時間の問題かもしれない。ほとんど先生の話はしてないしさすがにすぐに勘づかれることはないだろう。
「でもお前最近よく笑うようになったし、なんか変わったか?」
「そんなことないだろ」
「いや変わったよ」
将生は相変わらずよく見てるな。人の変化によく気づく。あやうく先生との関係を言ってしまいそうになる。
最近変わったのは僕よりむしろ先生だ。先生は最近よく長電話している。それも寝室で。楽しそうにはしていないところをみると友達と話しているようでは無さそうだ。仕事が忙しいのか、あるいは昌さんだろうか。
「別に、気のせいだろ」
「ふーん。そっか」
なんとか話を切り上げたが、少し焦った。バレたら面倒くさいのは目に見えている。
今日は帰りが遅い。またテスト前だからだろうか。肉じゃがでもつくろうかとも思っていると、先生が帰ってきた。
先生は帰ってくるなり、僕を手招いてテーブルに向かい合って座った。
「七夕って知ってる?」
「知ってますけど」
唐突な質問に僕は戸惑う。
「あれってさ、織姫と彦星は年に一回、晴れた日の七月七日に会えるんだよね」
そういえば、今日は七月七日。七夕だ。
「私達、会いすぎちゃったね」
その一言で、僕は先生の言いたいことを理解した。先生にしては洒落た言い回しだ。きっと前から考えてあったのだろう。
「もうこの関係は続けられないということですね」
「そういうことになるね。本当にごめんね」
「謝らないでください。先生が悪い訳じゃないんで」
「昌くんと何度か話し合ってね、やっぱりこの関係はおかしいって言われちゃったんだよね」
「そりゃそうですよ」
僕は笑ってしまった。
「先生が優しいから、僕は一緒に暮らせたんですよ」
「そっか」
先生の目は寂しげだ。
「そうですよ。本当にありがとうございます。感謝しかありません」
「私も楽しかったわ。ってこれ何回か言ったわね」
確かに同じような場面は何回かあった。その度に関係を更新していったが、今回はそのようにはいかないようだ。
「昌くんと電話してたの、知ってる?」
「薄々勘づいてはいました」
「そうだよね。私もそろそろしっかり結婚に向き合っていかないといけないのよね。昌くんは早く両親にもあいさつに行きたいんだって」
「年齢的にもそうでしょうね」
僕の気持ちは自然と落ち着いていた。
「誠くん、怒ってる?」
「怒ってないですよ。怒ってるように見えました?」
怒っているような素振りになってしまっただろうか。少し冷淡に言い過ぎたか。
「なんか、すごい落ち着いてるから。私の身勝手さに呆れてるかと思って」
なんだか先生は不安そうだ。先生の方が年上なんだからこういうところはリードしてくれていいのに。
「僕は極めて自然な流れだと思います。だから僕はすごく落ち着いています。いつかこの時がくると思っていましたし、それは遠くないと思ってました」
「どうして?」
「昌さんが部屋に来たのもですし、将生にそろそろ勘づかれそうになってたんで。なんででしょうね。先生との関係一言も話したことないのに」
「偶然ね。私も伊藤先生に『最近彼氏できたでしょ』とか『先生のアパートに生徒住んでる?』とか聞かれて。二つ目の方はビックリしたわよ。本人は学校の近くに引っ越そうかと考えてるから、って言ってたけど」「それは危うくバレてるところでしたね」
「そうだよね」
「むしろこの関係がここまで続けられたことの方がすごいですよ。僕も今なら家に帰れます」
「本当?」
「本当です。先生と暮らしていろいろ思い出しました。もっと自分から行動すれば良かったんですね」
「頼もしくなったわね」
「先生こそ大丈夫ですか?」
「この関係に慣れちゃったからなぁ」
先生がやっと肩の力を抜いて、足を伸ばした。この話をするのに緊張していたのかもしれない。
「これからはちょっと遠いけど昌くんちに住むことにしたんだ。私たち二人とも働いてるから、誠くんとの生活みたいにうまくはいかないかもしれないけど」
気がつくと日は沈み、空は暗くなっていた。今日の天気はどうだろうか。晴れているだろうか。
「空、見ませんか?」
「いいね」
先生と二人でベランダに出る。観葉植物が風に揺られている。
空は分厚い灰色の雲に覆われていた。織姫と彦星は出会えなさそうだ。
「織姫と彦星、会えなさそうだね」
先生は寂しそうに言う。
「そうですね」
「わたしたち、幸せだったね」
「幸せ、でしたね」
「一緒にいたいと思った人と一緒にいれるって幸せだよね。誠くん、大好きだよ」
「僕も、先生が、ひかりさんが大好きです。愛しています」
「それは言い過ぎでしょ」
先生は照れながら笑っている。愛しているは少し違うかもしれない。
「じゃあ愛しているじゃなくて、僕を受け入れてくれて、面倒見てくれて、ありがとうございます」
「私も誠くんと一緒に暮らせて、楽しかったし幸せだった。ありがとう」
僕らは二人きりで空を眺めながら残り少ない時間を過ごした。
夜風が生暖かい。夏のにおいがする。もうすぐ夏が来るのだろう。
「もうこの部屋には帰ってこられないからね」
「わかってます。昌さんと末長くお幸せに」
「皮肉らしい言い方ね」
先生は意地悪そうに僕を見ている。
「そんなことないですよ。心の底から思ってます」
「なら、ありがとう。でも『俺の女になれよ、ひかり』ぐらい言ってもいいのよ」
「それは、先生の妄想のなかでしょ」
僕も先生も笑ってしまった。この期に及んでまだ冗談を言い合えるなんて本当に仲良くなったなと思う
それとも今の言葉は冗談なんかじゃなくて、先生の願望が混ざった本音だろうか。まさかな。
「じゃあ忘れ物しないように片付けますね」
「そうして」
意外と家から必要なものを持ってきていたので、洋服の他に教科書や本などもあり、大荷物になっていた。そういえば四月に先生からスーツケース借りて持ってきたのを忘れていた。
先生の部屋に溶け込んでいたものもあり、どれが自分の家から持ってきたものなのか分からなくなっていた。
「荷物まとめていくと、なんだかやっぱり寂しくなるわね」
「ですね」
四月にはさっぱりとした印象だった先生の部屋も、僕のせいでごちゃごちゃした部屋になっていた。
三ヶ月という時間の中で僕はこの部屋を染め、この空間に染まっていた。それは先生も同じかもしれない。
荷物をまとめ、ドアの前に立つ。とても見慣れたドアだ。
「それじゃ、じゃあね」
「今までありがとうございました」
「これからは普通の関係に戻るんだね」
普通の関係って。これは普通じゃなかったのだろうか。
「最初は普通じゃなかったかもしれないけど、今のこの関係はすごく自然な、普通の関係じゃないですか?これからは教師と生徒ですけど」
「そうだね。今から教師と生徒の関係って言われてもしっくりこないもんね」
僕らはいつしか教師と先生という関係より、自然な関係になっていたのだろう。しっくりくる言葉はないかもしれないが、それが僕と先生との関係だった。
「じゃあ、さようなら。ひかりさん」
「じゃあね、誠くん」
また、夜道を歩く。本来の家に向かって。灰色の雲は風によって徐々に流され、星が見えるようになってきた。
「ただいま」
僕の生活はまた始まる。
淡く深く染まる日々 緑風渚 @midorikaze
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