水無月

 土曜日の夜、先生は用事だと言って午後五時ぐらいに、珍しく夕食は要らないと言って出ていってしまった。

 一人で夕食を済ませ、早めに寝ていると、真夜中、ガシャンとすごい音がして目を覚また。眠い目をこすりながら玄関の方に向かうと先生が倒れていた。

「先生! 大丈夫ですか!」

 僕はどうしていいか分からず、とりあえず先生を叩いていると、

「水……ちょうだい」

 と言われたので、先生を座らせ、コップに水をくんで渡すと先生を一気に飲み干し、

「シャワー浴びてくる」

 と急に冷静になって動き出すので、これはお酒の飲み過ぎだと僕は勘づいた。誰かと飲んできたのだろう。

 布団に戻って寝ようとしたが、万が一また先生が倒れると大変なので、シャワーから出てくるまで結局起きていた。


 翌朝、先生に倒れていた話をすると、

「やっぱり! 私昨日家に帰ってきた覚えがないんだよね」

 僕が昨日の状況を説明すると

「一人で帰ってきてた? 流石だわ。私」

 となんだか上機嫌だった。僕は酔った人が嫌いだが、昨日はそれどこではなかった。

「めちゃくちゃ焦ったんですからね」

「ありがとう。誠くん」

「何があったんですか?」

「ちょっと飲んできちゃってね」

 絶対ちょっとじゃない。まぁ先生がお酒に強くないことは知っている。

「飲み過ぎないでくださいね」

「はーい」

 まったく。大人になってもお酒は外でも家でも飲みたくない。


 最近、料理のレパートリーが増えた。日曜日の朝は僕が朝ごはんをつくることになっている。卵料理も工夫して、今日はパプリカ入りオムレツを作った。

「すごい! きれいに焼けてる!」

「多分中までしっかり火通ってるんで固いですよ」

「でも、おいしい!」

「良かったです」

 確かに我ながら味付けもちょうど良くて美味しくできた。

「今日は余裕あるから夜ご飯一緒に作ろっか」

「いいですね」

 買い物が二人でいけないのが残念だ。近所はリスクが高すぎる。

「なに作ろっか」

「じゃあハンバーグとか」

「いいね。じゃあ買い物行ってくる」

 僕はクックパッドでハンバーグの作り方を調べながら、せっかくなら温野菜やソースも工夫したいなと考えた。

 先生が帰ってきてから、二人でハンバーグを作った。昼からハンバーグなんて、と先生は言うが、夜ご飯は片付けがめんどくさいから昼ごはんにしようと僕が提案した。

 二人でキッチンに立ち、料理をしているとなんだか夫婦のような気がしてしまった。そんなことを考えるのはおかしな話だが、二人でリズム良く料理をしていると、仲が良かった頃の両親を思い出した。

 デミグラスソースもオリジナルで作り、レストランのようにハンバーグに温野菜とマッシュポテトを添えた。にんじんを甘く煮た付け合わせはグラッセと言うことを先生に教えてもらった。

「「いただきます」」

 二人で作ったハンバーグは今まで食べたハンバーグの中で一番おいしかった。


 学校では中間も終わり、余裕があるため、久しぶりに書道部に顔を出すことにした。

 書道部に入っている理由は、小学校の頃習っていたからであるが、心を落ち着けて目の前の半紙に向き合い、筆を動かすという一連の流れは、僕の性にあっている。

 厳しい部活ではないので、気が向いた時に筆をとる程度である。上手な訳でもないので、気ままに書いている。

 今日は伸び伸びかけた気がする。書道の先生にも誉められた。


「ひかりさん、今日久しぶりに部活行ってきたんですよ。そしたら先生に誉められました」

 先生にちょっとだけ自慢をしてみる。

「誠くんってなに部だっけ?」

「書道部です」

「書道部! なんか意外」

「そうですか?」

 先生に意外と言われてしまい少し傷つく。

「そういえば部活の話とかあんまりしなかったね」

「確かにそうですね」

 あまり自分から学校の話をすることはなかったかもしれない。

「もっと誠くんの話聞かせてよ」

「じゃあこれから面白いことあったら話しますね」

「うん!」

 こうして面白い話があったら先生に話すことになった。と言っても僕は自分の話をするのがあまり得意ではないので、ポツポツ学校であった話を先生にすることにした。


 関東も梅雨入りしてしまい、雨の日が続く。じめじめとした梅雨の日曜日。部屋の空気も湿っぽく、この時期は気分まで湿りがちだ。外に行く気も起きない。先生と二人でのんびりしていると、いきなりインターホンが鳴った。

「ひかり、入るぞ」

 僕は誰だか分からなかったが、先生には誰だか分かるようで、体が硬直していた。嫌な予感がした。

「昌くん。待って」

 しかし『昌くん』は部屋にづかづかと入ってきた。そして僕を見つけるなり、

「誰だよ」

 と小さく、怒りに満ち溢れた声で僕を睨んだ。

「昌くん、聞いて」

「お前は誰なんだよ! こんな時間からひかりの部屋にいてくつろいでるなんて! 何者だよ!」

 僕はその剣幕に圧倒されてその場に固まっていた。

「昌くん、落ち着いて」

「落ち着けるわけないだろ! この状況説明してみろよ! 最近会えないのは仕事が忙しいからかもしれないけど、家に入れてくれなかったのは奴のせいだろ!」

「なんでそんな決めつけるの!」

 先生は泣きそうだ。

「そこに布団おいてあんだろ。言い訳すんじゃねぇよ‼」

 とっさに僕は自分が寄っ掛かっていた布団を見た。

「昌くん、お願い。話を聞いて!」

 先生は立ち上がり、昌さんに向かっていった。圧倒的体格差だったが先生が昌さんの胸にぶつかりにいくと、昌くんも少しよろめき、そのまま二人は玄関の外に行ってしまった。

 僕は先生の部屋に一人残されて、なんだかとても場違いな気がした。さっきまでしっくりきていた空間がパズルのピースのように崩れていった。

 先生は一度コップに水を汲んでまた玄関に行ったっきり、長い間戻ってこなかった。何分何時間経ったかわからない。気がつくと雨はやみ、じめじめとした空気だけが残っていた。

 玄関のドアが開いた。

 先生は無言のまま部屋に入ってくる。

「ひかりさん……」

「ごめんね。誠くん」

 先生は泣き腫らしたあとがあった。

「昌くんはね、昌則くんっていうんだけど、私の彼氏で、大学のとき知り合ったの」

 先生の大学時代。僕の知らない先生。

「それでね、彼もそろそろ三十歳だから結婚とか真剣に考えてたんだよ。なのに、私が、中学生なんかと一緒に住んでたから」

 中学生なんか、か。昌則さんからはそう見えて当然かもしれない。先生は僕のことをどう見てるのだろう。先生も中学生なんかと思っているのだろうか。

「おかしいなと思って見に来たらこれだもんね。怒るに決まってるよね」

「昌則さんは合鍵持ってたんですか?」

「そうだよ。前まではここで二人で住んでたの。でも昌くんはオフィス変わっちゃったから今は別のところに住んでるの」

 僕だけじゃなかったのか。先生の特別な存在。僕は先生にとっての何者なのだろうか。

「先生、僕は何者ですか?」

「え?」

「僕は先生にとって何なんですか?」

 僕は先生の知らない一面をみて不安になった。別に先生の全部を知っている訳ではない。全部どころか本当は先生のことをほとんど知らないのだ。でも一緒に暮らしていた。これはなんだったのか。

 先生は僕のことをしっかり見ながらこう言った。

「今からすごい身勝手なこと言うよ」

「はい」

 僕は覚悟した。

「私ね、結婚するのがこわいの。なんでかはわからないんだけど、昌くんと結婚するのがこわいの。昌くんとはもう五年も付き合ってるし、すごいいい人なんだよ。かっとなっても落ち着いてくれれば、ちゃんと話はわかってくれるし。でも、誠くんと一緒に住んでて、すごい居心地が良かったんだよね。だから、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ一緒にいたいなと思ってたらずるずる引き延ばしちゃったんだ。本当は私も先生だから君が家に帰るようにしなきゃいけないんだよね。でも……」

 先生はずっと先生じゃないんだ。また、当たり前のことに気づかされる。さっきの昌さんと話していたのは昌さんの彼女としてのひかりさんだったのか。だから見たことない顔をしていた。僕は一人で納得していた。

「ごめんね。私が身勝手でわがままだったから。ずっとこの関係が続けばいいなと思ってた。結婚って私にはまだ重すぎるのかも」

 でも昌さんにとっては大事な問題で、きっと僕らよりもはやく時間が動いていたのだろう。

 僕も先生も思っていること感じていたことを丁寧に言い合った。感情には任せず梅雨のしっとりとした二人だけの空間だった。先生は僕にとって大切な人だし、先生にとっても僕は大切な人のようだ。

「君にとって私は何者?」

「それは、先生でありお姉さんですよ。正しいことを教えてくれるし、幸せも教えてもらいました」

「そんな、十四才で幸せなんて言っちゃって」

「じゃあ楽しい暮らしを思い出させてくれました。一緒にご飯食べて、学校であったこと話して、日本史楽しそうに教えてくれて」

「それは私も。家に帰ったら電気はついてるし、ご飯も作ってくれたりするし、私の愚痴も聞いてくれるし。私一人っ子だったから弟がいるようで楽しかったの」

 先生はまた涙ぐんでいる。

「なんだか家族みたいですね」

「そうだね。だけど多分違うわ。家族はもっと距離も近いし、親しいし、もっと関係性が深いのよ。でもそれだけ深くどろどろした、見たくもない醜いところまで繋がっている。私達は居心地のいい距離を見つけて、きれいな、うわべだけ、見てきたんだよ」

「結婚するってことは、家族になるってこと?」

「そういうことだよね。だからこわいのかも」

 いいとこ取り、か。きっと家族はもっと濃く深いのだろう。だから僕を含め両親も苦しんだのかもしれない。

 でも一緒にいたいと思う人と一緒に暮らせるということは幸せの一つのかたちだと僕は思った。

 先生とはもう少しだけ、一緒にいることにした。しかし、もう今までのように無期限というわけではない。


 今日は夏至。昼が長く夜が短い。

 青と夕焼けの境で白く光る下弦の月を眺めながら僕はこの時間が続けばいいと思った。

 先生と暮らすようになってからか、僕はよく空を見るようになった。水彩絵の具の青に白い雲がたなびいている空を見ると僕の心も少し明るくなり、一日頑張れる。

 どんよりと分厚い雲が空を埋め尽くしていると僕の心も押し潰されてしまう気がする。そんなことを先生に言ったらお天気屋さんね、と言われてしまうだろう。

 食事中にその話を先生にすると「誠くん、面白いこと言うね。空に左右されるなんて」と言われてしまった。

「でも、私も青く晴れた空見ると元気がもらえる気がする。秋の広い空とか」

「そうですよね」

 僕は先生にわかってもらえて、とても嬉しくなった。

「なんか誠くんが日常の話以外に感じたこと話すなんて珍しいね。なんか嬉しい」

「そうですか?」

「そうよ」

 よくわからないが、先生が喜んでくれたので、その日は空の話で盛り上がった。

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