皐月
先生の朝は早い。もともと早いらしいが、僕との登校時間をずらすためにはもってこいだ。僕も先生が起きたら起きるようにしている。布団をたたみ、朝食の準備を手伝う。一緒に朝ごはんを食べ、洗い物は僕がする。
最初に決めたルール通り、先生が家を出でから三十分空けて家を出ている。それまでは本を読んだり、テレビを見たりしている。
登校しながらそろそろ中間一週間前であることに気づいた。そろそろ勉強しないと。
登校して、いつも通り本を読んでいると、将生に声をかけられた。
「よ、おはよ!」
「おはよう……」
将生が朝から挨拶してくるなんて珍しい。将生は小学校からの同級生で、タイプは違うのだが、なんやかんや仲良くしてくれる数少ない友人だ。
「なんか最近お前いきいきしてるぞ」
「いきいきって今まではいきいきしてなかったのかよ」
「あんましてなかっただろ。いっつもつまんなそうな顔して」
そうなのか。僕意識してこなかったが将生は意外と僕のことを見ているようだ。
「そんなことないよ」
「お前、まさか好きな子でも出来たか?」
ハッとした。好きな子?
「図星か? やっぱりな。そうだと思ってたぜ」
「いやいや」
「否定しても無駄だぞ。誰だ?」
朝から将生はテンションが高い。
「それはないって」
決めつけられては困る。
「なんだ、恋の予感だと思ったのに。つまんね」
恋の予感って。お前が使う言葉かよ、と将生にツッコミながら、先生のことを考えていた。好きな人。恋。先生との暮らしで僕は変わったのだろうか。
今日は部活もないからまっすぐ家に帰ると、まだ先生は帰ってなかった。当然だ。先生はまだ仕事をしているのだから。それでも僕はなんだか寂しくなった。将生の言葉を思い出す。相手に会いたいと思う気持ちは恋なのだろうか。図書室で恋愛小説を借りてくれば良かったと後悔した。
「ただいま~」
先生が帰ってきた。いつもより遅い。
「夕ご飯、すぐ作るから」
「味噌汁は作っておきました」
先生の帰りが遅いからクックパッドで調べて味噌汁を作ってみたのだ。
「ありがとう。助かるわ」
将生に恋と言われたせいで先生をそういう目で見てしまう。なんだか変な感じだ。あんまりじろじろ見ていると気づかれてしまいそうだ。
「「いただきます」」
焼き魚をほぐしながら帰りが遅かった理由をきくと、先生はものすごい勢いで愚痴りはじめた。
「だいたいさ、教員のやることが多すぎるのよ。保護者会の準備なんかする暇ないわよ。でもしなくちゃいけないのよね。部活の監督もしなくちゃいけないし。職員会議も忙しいときになんであるかな」
愚痴が止まらない。教員は大変らしい。
「これでも早く帰ってきてる方よ。誠くんのために」
ドキッとした。あれ、これが恋と言うものなのか?自分が恋しく思っていた人が自分のことを思ってくれている。
自分でもよくわからない感情が渦巻いて、焼き魚の味はあまりしなくなっていた。
翌日、将生のせいでモヤモヤしていると、また将生が声をかけてきた。
「どうだ、やっぱり恋だっただろ」
「なわけねーだろ」
「ほら、相手のことを意識しちゃったでしょ」
将生。こいつは何を知っているんだ。やはりモテる男は違うのか。
すると、先生が僕の教室に来た。
「有島、水嶋先生に呼ばれてるぞ」
クラスメイトが将生を呼んでいる。なぜ水嶋先生が将生を?将生は先生の方へ向かう。
先生と楽しそうに話している将生をみて、何故か僕は胸がチクリと痛んだ。
「何話してたん?」
「来週の大会について。陸上の」
将生は陸上部で、確か短距離の次期部長と言われるほど実力だ。
「なんで水嶋先生?」
「顧問だから。今回の引率らしい」
なるほど。先生は陸上部の顧問だったんだ。知らなかった。
「大会に行くのはお前だけ?」
「まさか。先輩たちも一緒だよ。お前も見に来るか?」
「まぁ、考えとく」
先生は先生だった。当たり前のことだが大会の引率もする。当たり前のことに今始めて気がついた気がした。
今日も先生の帰りは遅そうだ。味噌汁は作っておくことにした。
「ただいま~」
「おかえりなさい」
「ねぇ、テスト作りめんどくさいんですけど。手伝ってくんない?」
それを生徒の僕に言わないでほしい。
「無理ですよ。僕そのテスト受けるんですよ」
「そうだった。君に頼んじゃダメだわ」
先生は笑いながら、キッチンで夕ご飯の用意をしていた。
やっぱり僕は先生のことが好きなのだろうか。料理をしている先生を見ながら僕は考えた。
肉じゃがを食べながら、僕は先生に大会の話をしようとした。
「テストって毎回作り替えないといけないの。これが大変でさ」
気づいたら先生の愚痴が始まっていた。
「たまに去年のテスト、部活の先輩とかから入手する人がいるんだって」
「はぁ」
「だから作り直すんだって。でもさ、日本史って出す単語決まってるし、問題作り替えにくいんだよね」
それを僕に言われても。
「先生、今週の日曜陸上の大会ですか?」
それとなく話題を逸らす。
「そうだけど、なんで知ってるの?」
「将生から聞きました」
「将生くんって?」
「有馬将生です」
「あ、そっか。有馬くん同じクラスか。有馬くんと仲いいの?」
「まあ、そこそこ」
「引率に行かなきゃいけないから、次の日曜日はほとんど家にいない。勉強してな。英語とか」
ギクッ。なぜ知っている
「そりゃ、なんとなくそういう話にもなるのよ。伊藤先生とは」
教員ネットワーク。恐るべし。僕は英語が嫌いだ。伊藤先生が嫌いなわけではないが、単語が覚えられないし、文法も難しい。
「英語は無理だけど、日本史なら教えてあげてもいいわよ」
土曜日に日本史を教えてもらうことにした。ラッキーだ。
土曜日は朝から日本史を勉強した。やっぱり先生は日本史が大好きなのだ。専門が平安時代ということもあり、大学で使っていた資料集を出してきていろいろ教えてくれた。多分テストにはほとんどでない。でも先生が楽しそうに話しているからテストに出る出ないは関係ない。先生の話は面白かった。
「なんだか、こんなに平安時代について話したのは久しぶりかも。大学楽しかったな」
「先生は大学時代どんな感じだったんですか?」
「今で言うレキジョよ。歴史について研究テーマを持って研究してた。サークル活動もしてたわよ」
「例えば?」
「ブラスバンドと教育系のボランティア。トランペット吹いてたの」
「吹奏楽部の顧問してましたっけ?」
「してるわよ。音楽の先生がいない日とかに」
顧問も大変そうだなと思っていると
「それでね藤原氏は……」
まだ続くようだ。
日曜日は家でテスト勉強。といってもテレビを見ながらだらだらやっていた。先生がいないとなかなか真面目に勉強しない。先生に言ったら笑われそうだ。
将生の大会に行っても良かったのだが、先生と一緒に行ける訳じゃないし、先生と話してたりしたら怪しまれるだろうからやめにした。
陸上の短距離の女子はかわいい子が多いと将生に言われたが、あいにくあまり興味がない。
気が付くと中間テストが終わりまた日常が戻ってきた。夜ご飯はたまに自分で作ったり、先生が帰りにお惣菜を買ってきたりしていた。
先生は中間テストの採点で大変そうだったが、そんな採点も終わり成績が返ってきた。結果は上々だった。勉強したからだろう。
先生は珍しくビールと缶ジュースを買って帰ってきた。
「お疲れさま~」
そして先生は珍しくビールを開け、豪快に飲んでいた。
酔いも回ってきた頃、いきなり先生が四つん這いになって僕の方に近づいていた。
「ねぇねぇ、お姉さんといいことしない?」
そう言って先生は僕に抱きついてきた。
先生の甘い香りとビールの酒臭い香りが混ざって鼻に突き刺さる。先生の柔らかい胸が僕の体に乗っかる。背筋が凍った。僕は勢いよく部屋を飛び出しドアの外に出た。まさか先生に迫られるとは。これだからお酒は嫌いだ。まだ胸がドキドキしている。先生がとても艶めかしく見え、見てはいけない物を見てしまったかのような背徳感にも襲われた。
手すりに寄りかかり、空を眺めた。星がいくつか見える。
空を眺めて心が落ち着いた。月がきれいだ。先生と暮らしはじめてから空を見る機会が増えた。よく先生が空の話をするからだろう。
部屋に戻ると先生はしょんぼりとその場に座っていた。
「ひかりさん。すいません」
「こっちこそごめんね。君に手を出さないって約束は私からしたもんね。本当にゴメン。もう私寝るね」
その夜は全く眠れなかった。先生の胸の感触が残っている。先生を一人の女性として考えたことはなかった僕は戸惑っていた。
「おはよう」
土曜日の朝。カーテン越しに暗く曇った空が見える。まだ雨は降っているようだ。気づいたら寝てしまっていた。僕は昨日のことを思い出した。今日が土曜日で良かった。学校がある日だったらめんどくさかった。
コーンスープのいいにおいがする。今日は休日だから朝ごはんに手間暇かけている。先生らしい。
「朝ごはん一緒に食べよう」
先生と向かい合ってトーストを頬張る。今日はテレビがついていないから静かだ。雨の音が部屋に響く。
「昨日はごめんね」
先生は申し訳なさそうに謝った。
「なんだか酔っぱらっててつい。君がどれだけ傷ついたかわからないけど、私も女だから……」
「言い訳はやめてください」
これ以上先生の口からこんな言葉聞きたくない。
「僕も昨日悪い夢を見ました。夢の中のその人は今までそんなふうに意識していなかったので驚きましたよ。けどそれは夢の中なので。忘れてください。僕もすぐ忘れるんで」
「誠くん……」
「今日のコーンスープ美味しいです。先生泣かないでくださいよ」
先生は目に涙を浮かべていた。顔はぐしゃぐしゃになっていた。
「そう、良かった」
やっと笑ってくれた。やっぱり僕は先生のことが好きだ。彼女とか恋人とかそうじゃない。親しい人、大切な人、いなくなると僕が僕でなくなってしまう人。僕はもう少しでいいからこの人と一緒にいたい。
「僕は先生のことが大好きです。家出した僕を受け入れてくれて、居候までさせてくれて、面倒まで見てもらって本当に感謝してます。僕は今幸せです。すごくすごく幸せです」
「私もよ。最初は教え子だったけど気づいたら弟みたいで。一人暮らしって結構寂しいんだよ。仕事も忙しい。どれだけ仕事しても理想の教師像にも近づけないし、働けば働くほど遠ざかっていった。そんなとき君がいきなり家に来たの。驚いたわ。こんなにもぴったりはまるピースはなかった。ありがとう。私もこんな形で壊したくない」
「ならもうちょっとだけここに居させてください。お願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。誠くん」
なんだかうまくまとまったようで僕はホッとした。
やはり僕は先生のことが好きだがそれは将生の言うものとは違いそうだ。
五月晴れがまぶしい月曜日の朝。晴れた青い空がきれいだ。一限からグラウンドで体育だった僕は昨日の話の続きを考えていた。日差しが暖かく心地いいのだが、体育をするとなると少し暑い。僕は眠い目を擦りながら果たしてこの関係はいつまで続くものなのかと考え込んでしまった。いつまで続くかわからない日々が僕は急にいとおしくなった。先生は今もどこかの教室で授業をしている。帰れば先生と二人でご飯が食べられる。その事がとても嬉しく思えた。
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