涙の王女と仮面の女王

長月葉緒

涙の王女と仮面の女王

__ソル国、某所


『緑の国の王女の涙には、万能の治癒能力がある』


そんなおとぎ話のような噂がソル国の瀬尾近平(せお ちから)の耳に届いた時、彼は二十九歳だった。彼は村中の物知りを訪ねて、王女の名はクラリス、そして、彼女が住むのはソル人街のあるファウスタニカ王国であることを突き止めた。無理やり手に入れた移民船の片道切符を握りしめ、瀬尾は恋人である北昌時(きた まさとき)のもとへ向かった。


「昌時、聞いてくれ!」

近平はやさしく昌時の体を抱き起こした。

「どうした近平。何かいいことでもあったのか」

「これから、二人でファウスタニカ王国で暮らさないか」

昌時は驚きを隠せなかった。余命一年もないであろうこの体で、一体どこへ行けると言うのだろう。近平の口調は至って真剣であった。

「……」

「昌時、お前、前から言っていたではないか。一度でいいから海の外へ渡ってみたいと」

「しかし……」

「何も心配することは無い。お前の身の回りのことは全て俺がやろう」

近平の自信に溢れたその顔に、心が動かないかと言えば嘘になる。我が人生の終末を、この男の手に委ねるのも悪くないかもしれない。昌時は優しく微笑んだ。

「……そうだな、最後の時、俺はお前さえいてくれればそれでいい」

昌時の冷たい頬を撫ぜると、彼はゆっくりと目を閉じた。


__ファウスタニカ王国、ラヴィー宮殿


『緑の国の王女の涙には、万能の治癒能力がある』


治癒の涙を持つ王女、クラリス=ラヴァイオリがその能力に目覚めたのは、彼女がまだ五つの時であった。

クラリスはその日、稽古を抜け出して城下まで遊びに出かけた。王女の顔を見た事のある民衆はほとんどいなかったので、誰も彼女が城の者だとは気が付かなかった。

街のはずれ、彼女は倒れている少年を見つけた。服や肌はぼろぼろで、瞳には生気がまるでなかった。そして、彼の持つ青の瞳を見てクラリスは気がついた。お母様が言っていた、彼は迫害の対象であるマカリア人の子供だと。

瀕死の少年の姿が世間知らずの五歳の少女にとって、どれほど悲惨なものであっただろう。それは身分や人種の壁を越えて、彼女の涙を零れさせた。雫が少年の頬に触れた瞬間、なんとその身体はみるみる回復した。少年は何が起きたか分からないといった様子で、クラリスを見た。クラリスも何が起きたか分からないといった様子で少年を見た。そして二人は同時にぷっと吹き出した。少年はティリーと名乗った。クラリスは名を告げなかった。二人は暗くなるまで互いのことを話した。そして、元気になった少年ティリーは笑顔で走り去って行った。


治癒の涙の物語には続きがある。


城を抜け出したクラリスは教育係のエルダにこっぴどく叱られた。再び彼女の頬を涙が伝うと、何を思ったのか彼女は説教をすっぽかして、病弱な兄、アーノルドの部屋へ駆け出した。風邪で寝込んでいる兄の頬に、拭った涙を擦り付けた。すると、兄の顔色はみるみる良くなり、クラリスは自分の能力を確信した。クラリスを追いかけ、一部始終を見ていたエルダは国王にその能力を伝えた。その噂はたちまち宮中から民衆へと伝わり、信仰心はより強固な絶対王政を作り上げた。


クラリスの父___ファウスタニカ王国国王のメルキオールは、誰にでも寛容で心深き人であった。その心に入りこみ、転覆を狙う悪徳大臣たちにとって、クラリスの治癒能力は宝石箱のようなそれだった。彼らはクラリスを無理やりに泣かせては、その涙を民衆に売り払い、国家への信仰心を揺るがした。それを知った国王メルキオールは、大臣たちを次々に処刑した。有能な大臣でさえ、愛娘のためにその手にかけた。国家体制は崩れ、ファウスタニカ王国は一時混乱に陥った。一連の激動に責任を感じたクラリスは、閉ざされた城の塔へ閉じこもりがちになった。人とのふれあいを避けるうちに、彼女は悲しみにより涙を流すことはなくなっていった…………


「美しい物語のままなら良かったのに」


十九になったクラリスは、窓から城下を眺めていた。綺麗なままの世界を見つめていた澄んだ緑色の瞳は、曇り空と同じように淀んでいた。あのあと、エルダに隠れて何度か城下に足を運んだが、ティリーを見ることは二度となかった。

子供でもなければ分かることだ、彼はもうきっと……。

けれど、あの時のように彼女の目から涙が零れることはなかった。


不意に部屋にノック音が響き渡る。クラリスが唯一笑顔を見せる、親友が顔を覗かせた。

「失礼致します、姫様。ドレスのご準備が出来ましたのでどうぞこちらへ」

「ミミ!」

ミミ=カラット。

下級貴族カラット家の一人娘。クラリスと同い年であり、古くからの友人である。幼少期は遊び相手として雇われていたが、現在はメイド見習いとしてクラリスの傍で働いている。

ミミはクラリスの隣に歩み寄り、同じように窓から外を眺めた。

「今日は城下がやけに賑わっておりますね」

「ええ。実はこの後、お父様が民衆の前でお話されるそうなの」

そして__彼女は今日、民衆の前に初めて王女として顔を見せるのだった。なぜ国王が溺愛する娘を民衆の前に出すのか__クラリスはなんとなくその理由に気がついていた。


着替えを終えると兄のアーノルドが待っていた。彼は緊張するとシャツの襟を引っ張る癖がある。

「クラリス、急ぐぞ、お父様がお待ちだ」

クラリスは微笑んでそれに応じる。

「はい、お兄様」


バルコニーに立つと、王子王女見たさに集まった民衆の歓声が二人の耳をつんざいた。アーノルドとクラリスは、たしかに誰もが振り返るほどの美しさであったのだ。

右を見ても左を見ても緑、緑、緑の瞳。マカリアの民がファウスタニカに征服されたのはほんの百年前の歴史であった。その末裔は『魔力をもってファウスタニカを脅かす』とされ、一方的な迫害を受けてきた。


「静粛に!」

大臣が声高らかに告げた。

「我らが国王、メルキオール様の御成ー!」

メルキオールは拍手で迎え入れられた。そして、民衆を見渡すと、彼はゆっくりと口を開いた。

「皆の者、よく聞け。今日はファウスタニカにとって大きく意義ある一日となるだろう」

民衆は国王の言葉に真剣に耳を傾けた。

国王はこう宣言した。

「次期国王を我が娘、クラリス=ラヴァイオリとする!」

民衆は驚いた様子だった。なぜ後継者は兄であるアーノルドではないのか。アーノルド本人も状況を飲み込めない様子で、その場にへたへたと座り込んでしまった。彼の世話役や家庭教師たちも青ざめた顔で国王に目を向けた。

ざわめく人々に向け、国王が曇り空へ一度手をかざすと、民衆からは拍手が湧き上がった。

「なお、戴冠式はクラリスの二十歳の誕生日に執り行う」

クラリスはドレスの裾を上げて一礼すると、平然とした顔でその場に立って居たのだった。


「随分お早いのですね」

部屋に戻るとクラリスは父親に向き直りながら言った。

メルキオールは王冠をクラリスの手に持たせると、溜息をついた。

「クラリス、おまえの二十歳の誕生日まであと半年だ。本当に申し訳ないと思っているよ。私は、体がどこか悪いわけでは決してないのだ。しかし……」

クラリスは、父親が自分には治せぬ病にかかっていることを知っていた。いや、正確には病ではない。占い師は言った。メルキオール王はマカリアの民によって命を蝕まれていると。ファウスタニカの未来のため、彼は五十の誕生日までに命を落とさなくてはならない。それでも国王は、マカリア人への迫害を強化することはなかった。民衆にはマカリアとの歴史など心底どうでもよかったのだ。ただ、痛めつけ、自分を誇るための道具が欲しかっただけ。国王はそれを見抜いていた。だからそれを強制することも、禁止することも、無意味であると知っていた。クラリスは父親のためなら無理やりにでも涙を流すことは出来たはずだ。ファウスタニカを混乱に陥れる為だけに利用された能力。彼女は酷く惨めだった。

「わかりました、お父様。私、クラリスがファウスタニカ繁栄のためお父様の意思を継いで参ります」

クラリスが国王の手の甲にそっと口付けると、父親は優しく娘を抱きしめた。

「ありがとう、クラリス。アーノルドには十分気をつけなさい。あれは意思が弱く、簡単に隙をつかれる」

「けれどお父様。私はかつて、ファウスタニカを混乱へと招き入れてしまいました。民衆は私を崇めるとは思えません。後継者はやはりお兄様であるべきでは」

「クラリス。お前は治癒能力なんて持っていない。あれは全て私が悪いのだ。お前は何も悪くない。ファウスタニカの民は皆新王の誕生を祝福していたではないか。お前は一人の人間として国王にふさわしい」

そうは思えない。クラリスは人前では平然と振舞っていたが、内心ではいつも荒波のような不安に押しつぶされていたのだった。



__ファウスタニカ王国、ソル人街


ファウスタニカに越してきた近平と昌時は、ソル人街の小さな空き家で昌時の余生を二人きりで過ごしていた。官僚であった昌時は少々ファウスタニカの言葉を話すことが出来たが、近平はそれを覚える気は全くなかった。近平はソル人街で働きながら、ファウスタニカの珍しいものを毎日昌時のもとへ届けるのが日課となっていた。


「すまないな、迷惑ばかりかけて」

ベッドの上で、昌時は力なく呟いた。

「何を言っているんだ。昌時には俺の我儘に付き合って貰っているだけだろう」

だから心配するな、と近平はニカリと笑った。昌時の色白い頬が林檎色に染まる。

「俺ほどの幸せ者はこの世にいないだろうな」

鮮やかな砂糖菓子を光に照らしながら、昌時は微笑んだ。

「へへ、その菓子はな、川を渡って峠を越えた商店路で見つけたんだ」

近平は自慢げにそう語った。

「危ないからあまり遠くまで行くなと言っているだろう。お前がいなくなってしまったら、俺はどうすればいいのだ」

昌時は不安そうに近平の服の裾を引いた。近平はその手に自分の指を絡ませて強く握りしめた。

「大丈夫だ、心配するな。俺はその時までずっとずっと昌時のそばにいる」

「近平……」

繋がれた手から徐々に片方の力が抜けてゆく。昌時が眠りについたのを確認すると、近平はそっと寝室をあとにした。


「峠の向こうからも、城は見えないのか…」

靴紐を結び直し、近平は再び夕暮れの街へと消えてゆくのであった。



__アーディール王国、イリュマレート宮殿


「久方ぶりであるな、アーノルド」

ファウスタニカ王国の隣に位置する、アーディール王国。その王位第一継承者であるルキア=ブルクハルトとアーノルド=ラヴァイオリは交友関係を持っていた。

「何の用だ、ルキア。お前なら今の俺の状況が分かっているだろう」

「クラリス姫が次期国王に選ばれたらしいな」

「なっ、お前……!」

「アーノルド。俺はお前がファウスタニカの国王になれぬことをとても残念に思っているのだ。だから、お前が国王になれるよう、取引しないか?」

ルキアは紫色の瞳を光らせた。

「……取引?」

ルキアがチラと目をやると、弟のニールは使用人たちを部屋から追い出した。

ルキアは椅子を立ちアーノルドの傍へ寄ると、耳元でこう囁いた。

「俺が、戴冠式までにクラリスを妃としてアーディールへ迎え入れる」

「……クラリスを?」

「ああ。そうすればお前は間違いなく王位を継ぐことになるだろうな」

ルキアとニールは頭のいい兄弟であった。それとは対照的に、二人の父であるリネット王はだいぶおめでたい人であった。本当に偶然ではあるが、アーディール王国の政権交代もまた、近々行われるであろうと噂されていたのだった。

「しかし……戴冠式まであと半年もないのだぞ?クラリスが応じるとは思えない」

「その場合は、無理やりにでもクラリスを奪い去り、メルキオール王との交渉の条件にしよう。君のお父様は娘のこととなると、平気で人も殺せるのだからな!」

「……」

「アーノルド。お前が姫を差し出せば国王になれるのだぞ?『万能の治癒の涙』。お前だってその兄として辛い思いをしてきたのではないか?」

たしかに、アーノルドはクラリスと同じ能力を持つのではないかと試されたり、取り柄がないと教育係達に嘆かれたりもした。

「妹を、心の底では憎んでいるのだろう?」

ルキアはさらに畳み掛ける。その紫色の瞳で見つめられると、アーノルドは決して逆らうことが出来なくなるのだ。

「たしかに、そうだな。名を残す王たちは、いつでも正しかった訳ではない。……分かった。取引に応じよう」


__ファウスタニカ王国、ラヴィー宮殿


「……ふざけているわ!」

クラリスは手紙を床に叩きつけ、激しく怒りを露にした。

「ファウスタニカが倒れそうになった時は、助けてもくれなかったくせに!私が王になるとわかった途端に結婚!?目当てはファウスタニカの資源だってことぐらい分かっているのよ!」

「姫様、落ち着いてください」

ミミは親友を必死に宥めようとした。

「ルキアとニール、許せない!私は……私は、王になることさえ……っ、そうよ、いっそのこと全てがアーディールのもとへ渡ってしまえば、私は……」

「クラリス」

ミミがクラリスのことを名前で呼ぶのは、いつでも彼女の心に訴えるときであった。ミミは自分より少し背の高いその体を抱きしめた。

「クラリス、誰もあの時のことをあなたのせいだなんて思っていないわ。国王様の判断は正しかった。そして、そのお力をもってして、ファウスタニカはまた栄えた」

「でも……」

「あなたの力が必要なの。求婚に応じる必要はないわ。ファウスタニカを大切に思う心があるならば、きっとあなたは国王様のように愛で溢れたファウスタニカを導いてゆける」

「ミミ……」

「自分を信じて、クラリス。私はいつでもあなたの味方よ」

「……ありがとう」

クラリスは、その日から徐々に宮殿の中で人々との触れ合いを求めはじめた。自分には人並外れた能力など関係ない。クラリス=ラヴァイオリ、一人の人間として、頼りない兄に代わって、この国を導いてみせる。塞ぎ込んでいた十年以上の月日が砂時計をひっくり返したかのように動き始める。クラリスの冷静で芯の強い人柄は、段々と宮廷の中で認められていった。



__ファウスタニカ王国、某所


「っがは!」

近平は、冷たい月の下、路上に倒れ込んだ。


その日、近平はいつもと同じように、昌時に内緒で夜な夜なクラリス姫を探していた。国の中心街へ差し掛かった時、不意に頭に強い衝撃を感じた。何者かが後ろから彼の頭を殴ったのだ。朦朧とする意識の中、彼はある言葉を聞き逃さなかった。何者かは、近平を何度も叩きながら何度も叫んでいた。

「マカリア」

と。

マカリアが何であるか、近平は昌時から飽きるほど聞かされていた。そして、悔しさに奥歯を噛み締めた。すまない、昌時。俺は、お前と最後を共にすることが出来なかった………………。




意識を手放してからどれほど時間が経ったであろうか。不意に頭上から凛とした声が響き渡る。

うっすらと目を開けると美しい女性が近平を覗き込んでいた。

ファウスタニカの言葉で何か言っているが、近平にはよく分からない。しかし、近場では見かけない彼女の高貴な服装、整えられた絹のような金髪、真っ直ぐと相手を見据えた瞳。近平は一目で直感した。そして、探し求めていたその名を、そっと口に出した。


「Claris……」



__ファウスタニカ王国、某所


戴冠式も間近に迫った前々夜、月の光に導かれ、クラリスはそっと宮殿を抜け出した。

その手に収めるファウスタニカの全てを見据える彼女の顔は、もはや半年前とは別人であった。

慌ただしい宮殿を抜け出したところで、クラリスは再び出会った。

傷つき、倒れている男を。

クラリスは心臓をどくりと突かれたような心地を覚えたが、すぐに彼に走り寄った。けれど、やはりあの日のように涙は流れない。

「大丈夫ですか、ごめんなさい、ごめんなさい」

クラリスはそう繰り返した。

すると、男はゆっくりと目を開き、驚いたことに彼女の名を呼んだのだ。

目が合ったその瞬間、クラリスの脳内に、マカリア人の少年ティリーとの記憶が蘇った。ティリーの瞳は、このような憂いを帯びた群青色では無かった、もっと鮮やかな青……。

「遠い遠い東の国の、ソルの人。マカリアの民と勘違いされて、攻撃されてしまったのね」

なんとこの男は、国の端にあるソル人街から自分に会いに来たというのか。このソル人のただならぬ様子を感じたクラリスは、馬車に乗り込み夜の街を駆けて行ったのだった。



__ファウスタニカ王国、ソル人街


近平が目を覚ますと、そこはいつもの寝室であった。

周りにはソル人街の仲間、そして昨日見た女性が座っていた。

「っ!昌時は、昌時はいるか!?」

「落ち着くのだ、近平。昌時は眠っている」

「そう、か……」

「お前が宮殿近くの道で倒れていたのを、次期国王クラリス様が直々にここまで運んで下さったのだぞ」

「クラリス……やはりあなたが」

近平はまだ悪い体を起こし、クラリスの両手をがっと掴んだ。

「お願いします、クラリス様。どうか、恋人の病気を治して下さい」

お願いします、お願いします、と何度も繰り返す彼の想いを察したかのように、クラリスはこう告げた。

「ごめんなさい。もう私には怪我や病気の民衆を救う力はないのです」

そのことをソルの隣人から耳にするや否や、近平は再びベッドへ倒れ込んだ。

「なんということだ……。万能の治癒の涙を求めて、俺はここまでやってきたというのに……」

近平は柄にもなく目元を袖で覆った。

クラリスは夜明けの迫る中、ただ俯くことしか出来なかった。

すると、突然扉の開く音が聞こえた。


「近平」

「昌時……」


すっかり白くなった昌時はゆっくりと近平のもとへ歩み寄ると、ベッドへ腰を下ろし近平の傷だらけの顔を指で拭った。

「俺には治癒能力なんて必要無い。最後のとき、お前さえ居てくれればいいといつも言っているだろう。……戻ってきてくれて、本当に良かった」

「……俺の目的を、最初から全て分かっていたのか」

「お前のことを、俺が分からないはずないだろう。誰よりも、ずっとそばにいるのに」

「まさ、とき……」

「ありがとう、もういいんだ近平。

____ずっと、愛してる」

昌時はふっと近平の隣に沈んだ。

近平はその身体を抱き寄せると、「俺も愛してる」そう言って瞳を閉じた。

隣人たちが部屋を離れようとしたその時であった。


「____あれ?どうして……」


クラリスは、泣いていた。


クラリスは戸惑った。その涙は、二人を救えぬ罪悪感という悲しみからではなかった。言葉も分からない二人の異国人のおかげで、クラリスは涙色に煌めくものを取り戻した。

クラリスは涙を拭うと、右手で傷だらけの近平の手を、左手で重い病の昌時の手を握った。



近平と昌時はクラリスに縋りつくようにして感謝の言葉を述べた。クラリスは急がなくては、と二人に一礼すると馬車に乗り込んだ。

この恩は一生をかけて必ず返す、といつまでも馬車を見送る二人の姿は、振り返らずともクラリスには鮮明に見えているようだった。


__ファウスタニカ王国、ラヴィー宮殿


戴冠式前日の昼間、ソル人街から戻ったクラリスはもちろん作業に追われることとなった。すっかり老眼鏡の似合うようになったエルダには、クラリス様は昔から放浪癖がおありのようで……、と皮肉混じりに叱られた。こんなやりとりも今日で最後かと思うと、クラリスは可笑しくて、人が話している時になんですかその態度は!、とまた怒られてしまった。


その夜、ラヴィー宮殿の大広間では、ファウスタニカや隣国の上層を招いて前夜祭が開かれていた。豪華絢爛なパーティの最中、クラリスはふと肩を叩かれる。

「やあ、この度はおめでとう。クラリスお姫様」

「……ルキア」

その相手は憎きアーディール王国のルキア王子であった。

「今日は、私を祝いに来たわけでは無いのでしょう?」

「分かっているなら話は早い。単刀直入に言おう。俺と結婚し、二人でより大きく、平和な国をつくっていかないか」

クラリスはキッとルキアを睨みつけた。

「結婚はしないわ。私は、民衆のためにこの国を守っていかなくてはいけないの。アーディールのような利益しか求めない隣国などからね」

「……ほう。それは素晴らしい心がけだな」

「若いからって、女だからってなめないで。せいぜいパーティーを楽しんで。さようなら」

「……」


王女でいられる最後の日だというのに、最悪の気分だ。パーティーの主役は一足先に大広間をあとにした。


「その二人は、国境や重い病を越え、確かな愛で結ばれていたわ!私も、この国を任せられる偉大な方と結ばれたい……」

「ふふ。それは、あなたにとっての『確かな愛』、なのかしら?」

「ええそうよ。それはファウスタニカへの確かな愛だもの」

クラリスは、塔へ親友を招き入れて、ソル人街での出来事を身振り手振り語った。

クラリスが治癒能力を取り戻した、それも戴冠式の前日に。ミミには、それは喜ばしく思って良いことなのか、よく分からなかった。

けれど、『王女』の幸せそうな顔が見られるのも今日までなのかと思うと、ただ隣で頷く事しか出来なかった。


数回のノックのあと不意にアーノルドが顔を覗かせた。手元にはワインと三つのグラス。

「お兄様。どうしてこちらへ?」

「おめでとう、クラリス。ルキアから先に戻ってしまったと聞いてね。お前は忙しくて、最近まともに顔も見ることが出来なかったからな。ワインでも飲みながら話をしないか」

「では、私はこれで……」

「ミミ、もちろん君もだ」

「アーノルド様……」


三人は月明かりの下、静かに乾杯した。クラリスがグラスを傾けたのを確認すると、ミミもワインに口をつけた。

「美味しゅうございます、お兄様」

「それは良かった」

「……お兄様はお飲みにならないのですか?」

アーノルドはシャツの襟をキュッと引きながら答えた。

「ああ。あまり、喉が渇いていないからな」


「……ミミ!ワインに口をつけては駄目!」

「姫、様……」

立ち上がった瞬間、クラリスはミミにもたれ掛かり、遠い暗黒の世界へ放り出された。


__アーディール王国、イリュマレート宮殿


「……素直に従っていれば良いものを。次期国王様は実に愚かだな」

暗い部屋の中、クラリスは柵越しにルキアと向き合っていた。

「さあ選べ。俺の妻になるか、この独房で一生を過ごすかをな!」

「……卑怯者」

「愛と偽善だけで世を治められるとでも思っていたのか?お前の態度次第では友人の命さえどうなるか分からないぞ」

「っ!ミミに何をしたの!?」

「案ずるな、まだ何もしていない。まだ、な」

「……」

「それにしても、兄妹揃って大変お粗末な脳をお持ちのようだ」

「兄にワインを持たせたのはあなたね」

「ああ。甘い誘いをかけた途端、奴は実の妹さえ差し出したのだ。メルキオール様はどれほど失望なさることだろうな!」

ガシャンと柵を蹴り上げ、高らかに笑いながらルキアは去っていった。

クラリスはガクンと崩れ落ちた。お父様や、ファウスタニカの民に申し訳が立たない。迂闊だった。全てが私の落ち度だ。けれど、あの男の手には絶対に落ちない。ファウスタニカのためなら、私は命だって差し出せる……!

クラリスが柵を握りしめ、頭を預けるように項垂れていたその時だった。

チャリン、と金属のようなものが冷たい床に落ちる音がした。柵の向こうに、一人の看守の男が立っていた。


「……ティリー?」

「君は、あの時の……」

「ティリー!」

「そんな、まさか……。どうして君はこんな所に」

「お願いがあるの。他の独房のどこかに、私の親友が閉じ込められているの。その子を早く脱出させて」

「分かった。でもその前に……」

ティリーは鍵を拾うと、手早く南京錠を外した。

「まずは、君からだ」


クラリス、ミミ、ティリーの三人は、夜明けの迫るアーディールの街を懸命に走っていた。幸いなことにイリュマレート宮殿は国境とそれほど遠くない位置にあった。ミミにはメルキオールへ無事を伝えるよう頼み、二人はファウスタニカとの国境で立ち止まった。


「君はあの時、宮殿で暮らしていると言っていたけれど、まさか王女様だったなんて。あの度は、大変なご無礼を」

ティリーが頭を下げると、クラリスでいいわ、と笑いながら応じた。

「本当にありがとう、ティリー。私は、ルキアに捕まって、親友も助けられない最低な王女様なのよ」

「いいや。君があの時僕を助けていなければ、僕は君を助けられなかった。全て君がしたことなんだよ」

ティリーは、初めて優しく接してくれた少女との再会に、夢見心地で俯くことしか出来なかった。クラリスもまた、宮殿の外で初めて好意を持ったティリーの無事に、頭が追いつかないようだった。

「アーディールへ亡命していたのね。ここでの暮らしはどう?」

ティリーは困ったように笑った。

「マカリア人にとっては、幸せかもね。でもファウスタニカほどではないけれど、小さな差別はあるよ。看守なんて、誰もやりたがらないしね」

「……もし戻れるならば、ファウスタニカへ戻りたい?」

クラリスは自分でも分からないほど不安そうに聞いた。

「……そうだな。クラリスみたいな心優しい女王様が治める国なら、きっと今度は幸せになれるって思うよ」

少し寂しそうな彼女に、ティリーは今度はあの日のように微笑んで答えた。


「私は必ず、ファウスタニカ人とマカリア人とが共に暮らせる国をつくりあげて見せるわ」

クラリスはティリーの手を引くとその国境を共に越え、たんっと着地して彼の鮮やかな青の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「今日は私の戴冠式なの。ねえ、私に力を貸してくれる?」



その後、ファウスタニカの女王クラリスは、『仮面の女王』としてファウスタニカ王国の最盛期を作り上げた。

治癒の涙はファウスタニカへ災いをもたらすと考えた彼女は、人前に立つ時必ず鉄の仮面を被り、人々にその涙を見せることは決してなかった。そんな彼女が仮面を外すのは二人の人物の前だけであった。親友のミミと、夫のティリーである。

マカリア人がラヴィー朝の血筋に入ることは、前代未聞であった。クラリスとティリーの結婚について宮廷内外から批判が殺到し、彼女は一度国王の座から外されかけた。しかしその時、アーディール王国との間で戦争が勃発し、そこで多くのマカリア人が活躍した。結果はファウスタニカ王国の圧勝に終わった。それから徐々にマカリア人達は地位を認められるようになった。また、勝利には真面目で働き者のソル人達も一役買ったのだと言う。


一方のアーディール王国では、新王ルキアの相次ぐ戦争の失敗や独裁的な政治が反感を呼び、ルキア、ニール兄弟は処刑、リネット朝は二代で断絶した。


超人的な能力に頼ることなく確固たる意志で国をまとめあげたクラリスの想いは、今でもファウスタニカのあちこちで美しい花を咲かせていることだろう。

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