第117話 バニヤン of view

 「ううぅ…」

 寺院には常に、呻き声が響いている。


 「み、水を……」

 そして、皆、一様に水を欲しがるのだ。


 「水は、今、呑んだでしょう?」

 それをいさめる、職員たち。

 確かに、重篤な患者程、常に水を求め、嘔吐しても、水しか出てこない。

 その上、嘔吐した直後にも関わらず、むせながらも、水を求めてくるのだ。異常すぎる。


 更に重篤になると、水を求め、病気で覚束無おぼつかない体にもかかわらず、無理やり移動しはじめる。

 勿論、体をあちこちにぶつけたり、転んだり、物落としたり、倒したり。

 色々と危険なので、今は寝台の上に、拘束されている状態だ。


 「キュウラさん?!キュウラさん?!」

 職員の叫びにも似た声が聞こえてくる。

 私は、また、死んだのかな。と、思いつつ、開いている窓から外に目をやる。

 …綺麗な月だった。明日辺り、丸月になるかもしれない。


 「み、みっ…」

 私は兄さんの口を掌で塞ぐ。もう聞きたくない。


 「……あ。ご、ごめんなさい。水…。水ですよね」

 私はハッとなり、手を放すと、水差しを取った。

 量的に、最後の一杯と言った所だろうか。

 気が付けば、もう既に、兄さまは水桶一杯分ほどの水を飲み干す形となる訳だ。


 患者は、重篤な者から死んでいく、という訳でもないようで、ついさっき、運ばれて来た、病状の軽い者が死ぬ事もある。

 …兄さまは大丈夫だろうか……。


 それ程、重くないと言うのに、水差しを持つ手が震える。

 何とか、水をコップに移し替えた私は、兄さまの身を支え起こし、片手でコップを手渡した。

 兄さまは、殆ど開いていない目で、何とかコップを受け取ると、ゴクゴクと、一気に飲み干す。


 瞬間。うっ!っと、嘔吐えずく兄さまの目の前に、桶を差し出した。

 ケホッ、ケホッ、と咽る兄さまの背中をさすり、落ち着くのを待つ。


 桶の中に吐き出された物は、全部水だ。水しかない。

 悪い物は全部吐き出したはずなのに、治らない。

 落ち着いた兄さまを寝台に寝かせると、私は水桶を手に取った。


 「…水、汲んできますね」

 兄さまからの反応はない。

 うっすらと開いた、虚空を見つめるような瞳。そのまま帰って来ないのではないかと思うと、怖くて堪らなかった。


 幸い、水は教会の噴水から何時でも汲む事ができる。

 それが唯一の救いだった。


 私は逃げるように、寺院を飛び出すと、教会の噴水に向かう。

 すると、こんな夜遅くだと言うのに、そこには、何人もの人が、水を汲みに来ていた。

 自宅で看病している人も、大勢いるのだろう。


 …と、その中に、私ぐらいの年の男の子が見えた。

 月明かりと、教会の灯す明かりで、何とか顔が見える。

 どうやら、良く会うおばさんの家の息子さんの様だった。


 おばさんか、おじさんが倒れたのだろうか。或いは、その両方が……。

 私は、彼に声を掛けようとしたが、名前が思い出せずに、辞めた。


 そもそも、私は他人にかまっている余裕などない。

 水で一杯になった桶を持ち上げる。

 何故か、先程よりも、気力が湧いていた。


 …きっと、他に頑張っている子を、見たからだろう。

 兄さまほどではないが、あいつも良い奴なのかもしれない。

 水桶を抱えた私は、再び寺院へ向かう。


 今度、声を掛けて、名前ぐらいは覚えてやろうか。

 そんな事を考えながら。

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