第100話 エボニと日常

「チュー。チュー。チチィ!」

 母さんのお腹の下にもぐる僕。


 もう、エボニは甘えんぼさんなんだから。と、母さんは、鼻先で僕を突いてきた。

 他の兄弟達も、チュチュチュと笑っている。


 良いじゃないか、別に母さんに甘えたって。

 それに、兄弟たちは僕の事を馬鹿にするけど、彼のお気に入りである僕が居なければ、ご飯ももらえないかもしれないんだぞ!


 僕はにらみを利かすが、彼らはその意味を全く理解していないのか、笑い続ける。


「チュゥ~」

 僕は思わずため息を吐く。


 兄弟たちは本当に馬鹿なのだ。

 同じ所をくるくるくるくるしても、何も疑問に思わない。

 この透明な壁に囲まれた空間を、不思議に思わないのだ。


 それに、色々な事をすぐに忘れる。

 いや、そもそも覚えていないのかもしれない。


 この間のご飯の時間も、同じ色のボタンを押せば、いくらでもご飯が貰えたのに、兄弟たちは好き勝手、動き回るばかりで、ボタンすら押さなかった。


 …まぁ良いか。

 痛む頭を押さえながら、僕は秘密の抜け穴に向かう。

 未だに笑っている兄弟たちを尻目に、木の影まで歩いてきた。


 先程も言った通り、この世界は、透明な壁によって囲われている。

 外にいる、大きな彼が手を伸ばしてくれない限り、ここを出る事は出来ない。


 いや、出来なかった。


 いつも、何か面白い事は無いかと、探し回っていた僕は、ある日、この木の下から、風を感じた。


 匂いを嗅いでみれば、こことは違う空気。

 これは、どこかにつながっているかもしれないと、地面を掘ってみる事にした。


 そして、この通り、秘密の抜け穴を見つけたのである。


 皆が壁の中をぐるぐるしている間に、僕はこっそりと抜け出して、別の世界へと足を踏み入れる。

 そこは薄暗かったけれど、見た事の無い物がたくさんあり、ご飯も沢山あった。


 突けば転がる物や、ガチャガチャと、奇妙な音が鳴るものもある。

 かじ甲斐がいのある棒なんかも見つけた。


 壁の中には無い物。

 その全てが、僕には魅力的に映った。


 特に僕を誘惑して止まないのは、入れ物に入った液体である。

 甘くて、美味しくて、一杯飲むと、頭がくらくらして…。

 とても幸せな気分になれるのだ。


 僕がいつも通り、それをんでいると、背後に気配を感じた。


 アイツだ。

 僕は振り向かずに、入れ物から飛び降りると、気配から距離をとる。


「やっぱり、お前か…」

 振り向いてみれば、長く細い舌をちょろちょろ出す、彼女が目に入った。

 彼女はこれまた細長く、にょろにょろとした体をくねらせ、暗闇の中から全貌を現す。

 いつみても、奇怪きかいな移動の仕方だった。


 彼女の名前はラッカ。

 その黒い肌と、静かな移動法のせいで、暗闇では毎回気付くのが遅れてしまう。


りずに、また顔を出したかえ?エボニ」

 そう言うと、彼女は何処までが首か分からない、長い上半身を持ち上げ、僕を見下ろす。


「あ、当たり前だ!ここは僕の秘密の場所だからな!」

 僕は長い尻尾と後ろ足を上手く使い、三点で立ち上がる。

 そうする事で、少しでも自分を大きく見せているのだが…。

 それでも奴の大きさには全く歯が立たない。


「カッカッカ!良く言うな、小童よ!毎度毎度、尻尾を巻いて逃げている奴が、言うセリフとは思えんわ!」

 彼女が、その凶悪な顔を近づけてくる。

 それだけで、僕は怯んでしまった。


 体勢を崩した僕を追い込むように、彼女は大きな口を開け、シャー!と、鋭い牙を見せつける。

 たまらず、僕は、今日も逃げ出してしまった。


 どうしても、あの姿には慣れないのだ。

 彼女に直接何かをされた訳でもないのに、毛が逆立って、動けなくなってしまう。


 開いた口を見た時なんて最悪だ。

 次の瞬間には、自分が飲み込まれてしまう姿が、容易に想像できてしまうのである。


「クソ!」

 そんな捨て台詞を吐きながら、家に戻る。

 すると、大きな彼が、上からこちらを覗き込んでいた。


「あ、いたいた。木の後ろに隠れていたのか…」

 そう言うと、彼は僕に手を伸ばす。

 僕は、その暖かい手に上り、彼の肩まで駆け上がった。


「今日も元気だな…」

 彼は少し、呆れた声でそう言うと、僕を逆の手に乗せ、机の上に下ろした。


 これから、いつもの検査、というやつが始まるのだろう。

 定期的に行われるので、もう慣れた。


「ええっと…。ここにあったはず…」

 何か道具を探している彼の背を見ながら僕は思う。

 もっと、整理整頓すれば良いのに。と。


 彼はとても頭が良い。僕に言葉を教えてくれたのも彼だ。

 他にも色々な事を教えてくれて、沢山の事を知っている。


 何故か、家族たちは彼の事を嫌うけど、僕は彼が好きだ。

 ちょっと変なところもあるけど、別に悪い奴ではない。

 いつも、ご飯を届けてくれるのも彼だしね!


「あぁ、あった、あった」

 彼は良く分からない道具を僕に押し当てたり、水晶と言われる透明な石を通して、僕を見つめたりしている。


「やはり、二世代目にもなると、魔力が安定している…。老化も明らかに遅いし、知能指数も高くなっている…。いや、しかし、同世代間でもかなりの差が…」

 彼が難しい話をし始めた。

 こうなると、面倒くさい。


「チチィ!」

 僕は家に戻してくれ!と声を上げる。


「あぁ、悪かったね。今、帰すよ」

 彼の伸ばしてきた手に再び飛び乗る。


 その間も彼は「やはり、魔材が大量に…」「となると、勇者計画が…」など、良く分からない事を一人、呟いていた。


「チチ!」

 良く分かんないけど、頑張れよ!

 目的地に着いた僕は、はげましの声を掛けて、彼の手から飛び降りる。


 兄弟たちが、心配するように僕に近づいてきた。

 馬鹿な兄弟達ではあるが、こいつらも悪い奴じゃないのだ。


 そして、この透明な壁に囲まれた、この退屈な世界も、なんだかんだ言って、落ち着く。


 家族に囲まれて、暇なときはふらっと、別の世界に出かける。

 彼に色々な事を教わって、ご飯を貰った後には、お母さんの傍でぐっすり眠るのだ。


 僕はこの日常を心底気に入っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る