第14話 メグルと俺

 湖に近づくにつれ、生き物が腐ったような腐臭が漂ってきた。


 ただ事ではない雰囲気に、僕は改めて周囲を観察する。

 そういえば何故、この湖のほとりには木が生えていないのだろう。


 小石で埋め尽くされているわけでも、地面が緩いわけでもない。

 にもかかわらず、一定の浮草やイネ科の植物しか見当たらないのは不自然だろう。


 自然と言うのであれば、湖の畔まで森が侵出しているべきだ。

 しかし、湖から10mほどは殆ど一定植物しか見受けられない。

 土壌の問題と言うよりはあの腐臭漂う湖に問題がありそうだが…。


 湖に近寄るにつれ、酷くなる腐臭。その正体は、当然と言うべきか、生き物の死体だった。

 鳥やネズミ、大型のものでは熊の様なものまで見える。


 そこまでは普通だった。

 だが、全長3メートルほどもあるアリの死骸はどうだろうか。

 あるいはムカデのような体をしつつ、クワガタような頭をして、トンボのようなはねがその側面に何枚も生えている、全長10m以上あるであろう生物の部分死体。


 明らかに常軌じょうきいっしている。

 当然こんな生き物が人間界にいるわけがない。いるわけがないにも関わらず、僕はこの生き物たちになつかしさを感じた。


 この生き物たちは魔界の生物だ。それも”俺“が住んでいた地域の魔物。

 魔力なしでは生きて行けず、魔力を遮断しゃだんする魔断壁のこちら側には出て来ようともしない生物たち。


 きっと今回の豪雨で死体が流されてきたのだろう。この毒沼の玄関まで。




……?


…………あ。


危なかった?



 …そうだ、この辺りの草で簡易マスクを作ろう。

 こいつらは葉の裏で呼吸し、有毒な成分をそこでそぎ取っている。

 表面を口に当てて呼吸すれば多少息苦しいが、沼の瘴気しょうきを吸わずに済むのだ。


 いや、今は必要ないか。毒性が弱まっているようだし。


 ここは普段、毒沼の湿地帯だったようだ。

 今回の雨で増水し、湖のようになっている為、ここまで近づく事ができるが、普段は近寄ることすらできない危険地帯。


 姉さんたちはこの期間を狙って湖に来たのか。

 この魔物の死体から魔力をむさぼるために。


 姉さんたちは思い思いに魔物の死体をまさぐっていく。

 そしてその中から魔素の濃い部位を見つけると、腐っているにもかかわらず、ぱくりと飲み込んだ。


 あぁ、そうか。こうやって姉さんは大きくなったんだ。

 そしてこの白い毛や、ハウンドの黒い毛、マロウさんのいびつな左腕が生まれた。


 他生物から摂取せっしゅした魔力は突然変異を誘発する。

 魔力の少ない人間界生まれのマロウさん達は、少し魔物の魔力を喰らっただけで体に異変が訪れるだろう。

 つまり、この豪雨で運ばれてきた死体を下流域で見つけ摂取してしまったのだ。


 なんで僕はそんな事にも気が付かなかったんだろう。

 そうすれば初めにマロウさんを怖がることも、セッタ姉さんに驚くこともなかったのに。


 いや、魔法を使えば生活がもっと簡単に豊かになったではないか。

 思い出せなかった自分が悔しい。



 思い出す?いや、これは僕の記憶ではないのだから思い出すというのはおかしいのかも知れない。

 思い出すというよりは…。侵食しんしょくされている?


 …いや、そんなはずはない。

 大丈夫だ。僕は僕で…名前は思い出せないけど…。お父さんがいて、お母さんが居て…。

 あれ?二人はどうしたんだっけ?


 あ、あぁ…だめ。駄目だダメだダメ!思い出すな!今はまだその時じゃない!


 その時じゃないって?え?”君”は誰?


 “俺”は”俺”だよ。いずれ分かるさ、…嫌でもね。


 そう言うと彼は僕の中から消えていった。

 いや、深くにもぐっていっただけだろう。

 彼が僕の中から消える事はない。



 そこでようやく分かった。この”記憶”は思い出してはいけないのだと。

 思い出せば思い出すほどに僕は僕でなくなってしまう。

 そしてそれを止める事は僕にはできないだろう。


 いつか、きっと彼に飲み込まれる日がやってくる。

 そして彼の心の奥のぐちゃぐちゃが、黒い何かが見えてしまった。

 その時にマロウさん達を傷つけてしまうのだけはごめんだ。


 今はまだ難しい。でも今回思い出した記憶だけでもなんとかやっていけそうだ。

 この記憶を頼りに独り立ちして、ひっそりと誰も知らないところで暮らそう。


 正気をたもっている内は独り立ちしても、マロウさんにあいに行こう。


 そんな軽い慰めで、零れそうな涙を抑える。


 姉さんから降りた僕も血みどろになりながら、魔物の死体をあさり始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る