12 七五三掛龍吾
「助けて」
クラスメイトの
助けるべきだろう。…が龍吾の頭の中に呪いの言葉が反芻する。
“人殺し”
何か正しいと思うことをしようとするとその言葉が常について回る。付き纏う。
龍吾が東京に出てきたのは親の転勤に合わせてで、まだ中学生の頃だった。
その頃、龍吾はベビーカーをエスカレーターに乗せてのぼる親がいることを初めて知った。
注意書きがあるから危険だと中学生の龍吾でも理解した。数日経つにつれ、駅にあるエレベーターは場所が改札から遠く、デパートでも待つことが多い。だとしたら手間なんだろうな、と察した。
事件は上京してすぐに起きる。人が少ない夜深く。
長い下りエスカレーターに乗っていると龍吾の後ろから大きく転がる音。
見ればベビーカーがエスカレーターから転がり落ちていた。母親と思しき女はスマホを片手に呆然としている。
音に振り向いて自分への向かってくるベビーカーを見て龍吾は急いで駆け下りた。
そうしなければ自分が危ないと思った。本能だった。
いきなり後ろから何かが落ちてきて慌てて支えるなんてことは無理だ。
事実ベビーカーだったと判断できたのは自分がエスカレーターを駆け下り、ベビーカーが落下しきったあと、ぐったりとした赤ん坊を見たときだった。
「人殺し!」
母親が駆け下りながら叫ぶ。
「人殺し、人殺し、人殺し」
完全に八つ当たりだが、自分のせいでそうなったと認めたくない母親はヒステリックに叫ぶ。
時間帯的に人が少なかったがそれでも人が集まってくる。
一気に青ざめる。
救急車はすぐに呼んでいたが赤ん坊は当たり所が悪かったのかすぐに息を引き取った。警察も出動し、事情聴取に素直に応じる。赤子の死の動揺でうまくろれつが回らずなんて説明したか覚えていないが、監視カメラと照合されて、本当に避けただけだと判明し釈放される。
母親はヒステリックに叫び続け、自分の罪を認めない。「人殺し」母親は言い続けた。
赤ん坊を連れて居酒屋へ飲みに行き、泥酔。そのままエスカレーターに乗って、誤ってベビーカーを落とした。
というのが真実で事実だが、すぐにネットニュースになり、翌朝のニュースには監視カメラの映像も流れた。
プライバシーは守られモザイクはかけられていたが、本人にはそれが本人だと分かる。
ネットニュースでもニュースでも意見は分かれた。
ベビーカーを止めるべきだった。自分の安全のためにも避けて正解だった。
そもそもが危険とされているエスカレーターにベビーカーを乗せた母親が悪い。赤ん坊を連れて居酒屋に行き、そこで泥酔してしまったのも。さらに言えば赤ん坊がいる状況で飲ませた居酒屋も悪い。
母親と居酒屋はすでにSNSが炎上していたが、そうなった以上龍吾のSNSが特定されるのも早かった。
避けたことに対する非難。それに対する擁護。それが龍吾のSNSで繰り広げられた。
翌日は日曜日だったが、月曜日に学校に行くのが怖かった。非難するアカウントのなかに何人か同じクラスの人を見かけた。
その当時の龍吾に対するクラスメイトの印象は「いい人」だった。
ほかの人がやりたくないことを率先してやり、宿題を見せたり、ゲームを貸したり。
龍吾としてはただ嫌われたくなかっただけだ。その「いい人」が「善人」だろうが「都合のいい人」だろうが龍吾には関係ない。
嫌われないようにと行動したつもりだった。
だとしたら、落ちてきたベビーカーを避ける行為は?
現にクラスメイトと思しき人から非難を受けている。SNSを通じて拡散されているかもしれない。
怖くてもう見れなかった。
翌日、学校に行くと「人殺し」と机に書いてあった。赤子殺しの母親が罪を着せるために叫んだ言葉が、一番傷つけると分かっていてそれを書いたのだろう。
仲が良かったはずの友達が視線を合わせないどころかにやにや笑っていた。
何も声には出さなかったが落胆した。いじめの始まりだった。
所詮そういう関係で、善悪真偽など関係なく面白いことをするのだ。
不幸中の幸いというべきか龍吾は進路をまだ決めてなかった。
だから新東京特区の、この五連高校に滑り込むように入学した。
同じ学校の人は数人存在したが、同じクラスはいなかった。龍吾への関心がなかったのも幸いした。
高校では平穏無事に過ごせた。
それでも「人殺し」の呪縛はついて回り、善良なことだと分かっていも、何か最悪のことが起こらないかと躊躇って、行動が遅れることがある。
その呪いが美維人の足をだったものが噛みついている今も龍吾を縛りつけていた。
助けるべきか、否か。龍吾が見返りを求めない、自らを犠牲にする善人ならたぶんすぐに動けていた。
龍吾はいい人でいようとする半面、本能では落ちてきたベビーカーを避けてしまうような保身に走る人間だった。
自分はやはり犠牲にはできない。もちろんすべての人間が聖人君主ではない。
翻って逃げようとした。
“人殺し”
幻聴が聞こえた。逃げようとする龍吾を咎めるように。
ああ、そうだった。龍吾は嘆いて美維人の足に噛みついているだったものを蹴飛ばした。
呪いの言葉が聞こえるときはいつも善良なことに目をそらそうとするときだ。
この言葉のせいで龍吾は善良なことから逃れられなくなった。
だから龍吾は助けた。
「ありがとう」
「歩ける? 無理なら僕が背負うよ」
そうしなければ呪いの言葉が聞こえてくる。「人殺し、人殺し」と。
美維人を背負うと幻聴は消える。
だったものが少なそうな正面玄関へと進んでいく。正面玄関は先生への訪問者が使う玄関で、庭園と正門を挟んで道路に面している。対して龍吾たちが使っている通称生徒用玄関は下駄箱が立ち並び、グラウンドや自転車通学者用の車庫につながっている。
「なあ」
美維人が意識を朦朧とさせながら呟く。
「謝らないといけないことがあるんだ」
「なに、この前貸した漫画をなくしたとか?」
「違う。お前にずっと黙っていて、それで謝らないといけないことがある」
「なに?」
「お前って数年前、ベビーカーを避けてさ、人殺しって言われたことがあるだろ?」
「……」
どうして美維人が知っているのか。もしかしたらふとしたことでネットニュースを見かけたのかもしれない。
「それでさ、」
「聞きたくない!」
掘り返したくない過去に龍吾は怒鳴る。
「いいから聞けよ! 頼む、聞いてくれ!」
美維人の懇願にどこか必死めいたものを感じて龍吾は黙る。
「謝らなくちゃならないのはそのことなんだ」
「は?」
「俺の母親なんだ。お前に罪を押しつけようとしたのは」
そう言われて頭が真っ白になる。忘れたかった記憶の断片がよみがえり、確かにあの女性の苗字は萩尾だと思い出す。
「死んだのは俺の弟。バカな母親が不倫した挙句、親父の子どもだって言い張って産んだ……俺の弟なんだ」
美維人の声は掠れていた。実際に見てはいないが泣いているのだろう。
「だから謝らなくっちゃいけない」
「お前は悪くない、だろ」
「そうかな。テレビとかで息子が覚せい剤を持っていたとかで親が謝ってるのあるだろ。あれとおんなじだ。俺は間違ったことをした母親の子どもだ。代わりに謝らなくっちゃダメだろ」
「……」
それは屁理屈だろう、と思ったが龍吾は美維人の気が晴れるならと黙っていた。
「あいつがどうなったか知りたいか?」
あいつというのは美維人の母親のことだろう。
「知りたくはないよ」
不幸になれ、と恨んだこともあったが“人殺し”呼ばわりされたことに対する過去は相手が不幸になっていたところで何も変わらない。
龍吾とてその言葉を分岐点に人生という道のベクトルが不幸に傾き、たぶんきっとあったはずだろう未来の行き先が何個は閉ざされた。
おそらく美維人の母親も不幸になったのだろう。と龍吾は勝手に結論づけていた。
というよりあの分岐点でどちらも不幸になったのだと信じたかった。
美維人の母親だけがあの分岐点のあとに幸せになっていると思いたくなかったし、たとえなっていたとしても知りたくなかった。
それはどうしようもなくみじめだからだ。
けれど何より、美維人が懺悔の場においてこの問いかけをした時点で、美維人の母親があのあとどうなったかはわかりきったことだった。
「そうか」
美維人はそれを察して龍吾の答えに納得した。
しばらく美維人は沈黙していたので龍吾は背負いながらも玄関を目指した。ちらほらとだったもの以外の生徒を見かけるが、全員が逃げるのに必死でむしろこうしてけが人を担いでいる龍吾のほうが珍しいほどだった。
だったものにしがみつかれ、それを振り払うために友達を犠牲にして逃げたり、いじめられっ子がだったものと化したいじめっ子にここぞとばかりに報復したり、地獄のなかを歩いているようだった。
「なあ、もうここに置いていってくれ」
「ふざけるな。だったら、なんで助けてなんて言ったんだ」
とはいえ龍吾もそれを言ってしまう気持ちはわかる。神様なんて信じねぇと言ったクラスメイトが赤点回避のために「助けて、神様」と祈ったとき、なんだそれと龍吾は思ったが、たぶん美維人もそんな感じだったのだろう。
「分かるんだよ。俺はもう俺じゃなくなる。そんな感じがあるんだ。説明しにくいけど、ゾンビみたいなのになっちまう感覚が。俺が俺じゃなくなる俺だった何か、だったものになる、そんな感じがあるんだ」
だから置いて行ってくれ、美維人は懇願した。言いながら体を動かし負ぶわれていることに抵抗する。
その姿は危なっかしくしぶしぶ龍吾は美維人を下して、誰もいない教室に入る。ここにはだったものもおらずやり過ごせると考えたのだ。
「お前は逃げろ」
泣きながら美維人は告げる。
「黙ってよ。だいだい助けてと言ったのはキミだ。キミを助けなければ僕はきっと今頃は外に出れていた」
泣き言に龍吾は怒鳴ってしまう。
「だったら、初めから」
「人殺し、なんて言われたくなかった」
さえぎるように発せられた龍吾の言葉に「捨てればよかった」と続くはずの言葉が詰まる。
人殺しという言葉の呪縛が龍吾を縛りつけ、美維人を助け、そしてひとりで逃げることを拒ませた。
挙句、助けようとしたていたのに、助けた本人はもう見捨てろという。
短時間の心の動きに振り回されて龍吾は頭がどうにかなってしまいそうだった。
感情をそのままに美維人を殴りつけて、龍吾は空き教室を飛び出した。
周囲の状況も何もかも知ったことではなかった。
ただただそこから逃げ出していた。
「俺もあいつらのようになるのか」
ひとり残された美維人は徘徊していただったものの姿を思い出して恐怖する。
手がぶるぶると震えて押さえても止まらなくなった。
その時だった、荒い息遣いが聞こえた。
見ればそこには逃げたはずの龍吾がいた。
「なんで?」
美維人が涙目で答えた。
「助けに来た。もう人殺しにはなりたくないから」
龍吾も涙目で答えた。見捨てることのできない呪いと見捨てた場合の結末に対して生まれる悔恨に苛まれながらも下した決断だった。
背負おうとする龍吾を振り払って美維人は言う。
「その気持ちだけでもう十分だよ」
「関係ない、これは僕の身勝手だ」
龍吾は嫌がる美維人を背負う。しばらく抵抗していたが危ないと判断したのか美維人はおとなしくなる。
だったものを避けるように隠れながら慎重に龍吾は美維人を背負いながら進む。
歩はどうしても遅くなった。
「なあ、俺はどうなるのかな?」
だったものになる感覚を常に感じながら覚えながら美維人は言った。
龍吾は何も言えなかった。
「俺は俺のままで死にたい」
美維人は駄々をこねるようにそう言ってゆっくりと眠るように静かになった。
「僕は人殺しにはならない」
龍吾は短くそう言った。
「キミの願いは叶えられない」
動かなくなった美維人を龍吾は教室の後ろに備わっている掃除道具一式が入っている鉄製の細長いロッカーへと入れた。
だったものから戻る可能性も考慮すると龍吾の取れる手段は少ない。
しばらくするとうめき声がロッカーの中から聞こえてきた。
やはりというべきか美維人はだったものになってしまったのだ。
もしならなかったら病院に連れていき手当てすればよかったが、なってしまった以上ここに置いていくしかない。
治療法を見つけてやると大仰なことを思ったわけではない。それでも何か手がかりぐらいは掴みたい。
龍吾はそう思ってその場を去った。
なんとか龍吾は玄関までたどり着き外に出る。
するとマイクロバスが道路へと飛び出していく光景が目に飛び込んできた。
バスには三井先生と女生徒数十人の姿が見える。
前の席に座っている生徒の顔は不安げだった。
龍吾は少し慌てて走り出したが止めれそうにもないと分かって立ち止まる。
美維人を助けてなければ間に合ったかもしれない、一瞬考えた邪念を首をぶんぶんと振って否定する。
バスに乗り込めなかったこと、それが幸か不幸か、この時点ではまだ分からない。
た。
校舎のあたりから何人かの生徒たちが出てきていた。
ひとりじゃない、そう思えて龍吾は勇気づけられた。
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