7 三井宗次
「おい行くぞ」
体育教師で野球部の顧問、
宗次はなんの不運か伊井田と同じ生徒指導の担当になっていた。
伊井田はイヤダ、と言われるほど融通がきかない昔ながらの教師で内心全員がうんざりしていた。
若いから新入りだからと逆らえず生徒指導の担当にされてから毎日胃痛の日々だ。
無理やり不審者を取り押さえるさすまたを渡されて大げさな、と思いながらしぶしぶ受け取って、宗次は伊井田の後に続く。
中庭で悲鳴があがり、それを聞き逃さなかった伊井田が自分の出番だと意気揚々と問題解決に立ち上がったのだ。
宗次を子分か何かだと勘違いしているに違いない。
今回のは確かに生徒指導の範疇かもしれないが、ほかにも資料作成など色々と面倒くさいことを押しつけてくる。
パソコンがうまく扱えず、計算ソフトの関数も使えないくせに、昔は必要なかったと何かと昔語りをして使えないことを棚に上げて、宗次に押し付けてくるのだ。
新人いびりというか全教師のなかで校長、教頭の次に偉いと思っているのだ。
このイヤダめ。
胸中で反抗的なことをぼやきながらも従順な犬のようにへこへこと伊井田のあとを宗次はついていく。
中庭には水飲み場がある。そこの水を悪戯して誰かが悲鳴をあげたのだろう。
その程度だ、宗次はだるそうにそんなことを思った。
途中、制服に血をつけた生徒が中庭から宗次たちを横切っていくまでは。
「なんだそれは」
通り過ぎていく生徒の血に気づいて伊井田が怒鳴るが、その生徒は無視して走り去っていく。
「おい、待たんか」
「伊井田先生……そっちは後回しに」
口答えと取られそうだったが、生徒が挨拶などを無視すると礼儀がなってないと怒鳴るイヤダは放っておけば、その生徒を追いかけてしまうだろう。
少し睨まれたが、当初の目的が中庭の悲鳴の原因を思い出したのだろう。
軽く舌打ちを響かせてイヤダは中庭へと向かっていく。
宗次としてはその生徒を構ったわけではなく、中庭の安全を確認して、さっさと解放されたいという気持ちが強かった。
中庭に近づくと悲鳴が広がっていた。
阿鼻叫喚と言うのだろうか。
イヤダの制止する声には誰もが気を留めず、無理やり制服を引っ張って動きを止めても腕を振り切ってイヤダから逃げていく。
「いったい、なんなんだ!」
苛立ちながら中庭に到達するとそこは地獄だった。
血だらけで倒れる生徒、生徒を噛み千切る生徒。
「貸せ!」
イヤダは宗次が持っていたさすまたを奪って、生徒を齧っている生徒を払いのける。
「何が起きた! 状況を説明しろ!」
宗次はもうこの時点で嫌な予感がしていた。というよりも生徒を齧っている生徒はどうみても生気がなかった。
というかその生徒ですら齧られているような…。
「
女子生徒を齧る生徒を払いのけて、伊井田は怒鳴る。
名指ししたのはそれが野球部の生徒だからだろう。
払いのけられた植草と三重野はゆっくりと立って項垂れた姿勢で、胡乱な瞳で伊井田を見た。
頭に血が上っていた伊井田は、事態を把握できていなかった。
中庭の入口で状況を見ていた宗次のほうがまだ冷静だった。
「何がどうなっている?」
まるで目の前の生徒がゾンビだと伊井田が今更に気づいた。
噛みつこうとしてきた植草と三重野の払いのけて、中庭の入口へと引き返そうと歩を早める。
「何を、何をしている!」
中庭の入口。普段は解放されている扉が閉まっていた。
閉めたのは宗次だった。
「そんな奴らを校内に入れたら大変なことになります。まあもう他の入口から入ってるかもですけど」
中庭の入口はあとふたつある。ここを閉めたところで一時しのぎにもならないかもしれない。
「開けろ!」
「いやですよ。ここを開けたら、こっちの校舎にいる生徒が危ない。それよりも後ろ!」
振り向くと植草と三重野だったものがすぐそばまできていた。
「うわー、うわー!」
さすまたを振り回して間一髪でふたりだったものを払いのける。
「ほら、伊井田先生。急いで逃げないと」
「貴様っ! 覚えていろ!」
閉まった扉をさすまたでがん、と叩いて伊井田はほかの入口を目指していた。
「生きていたら覚えておきますよ」
扉を閉めたのはこの校舎にいる生徒たちのためではない。
こういう状況で、いやこういう状況だからこそ今までの鬱憤を晴らせる、宗次はそう思ったのだった。
「うわーーーーーーーーーーーーーーいやだ、いやだああああああああ」
何の拍子にか転んでしまった伊井田にだったものが群がっていく。
「ひひっ」
宗次は薄ら笑って、これからどうしようか考えた。
自分をこき使ってきたものがいない嬉しさが込み上げてくるが、こんな非常には不謹慎だとなぜだか冷静に思った。
気持ちは予想以上に高ぶっている。
とりあえず職員室へとひとり戻った宗次は、伊井田の机からマイクロバスの鍵を取り出した。
このバスは野球部の遠征時の送迎用バスで伊井田が自分の権力をある意味で誇示したものだった。
自分が顧問の部活はこんなものまで買えるぞ、と。部費を大幅にオーバーして、というか部費とは別枠で学校に予算を出させたものだった。
「何があったんですか」
伊井田がおらず、宗次だけ戻ってきたことに気づいたほかの教師が尋ねる。
日和は宗次の同期でどことなく弱弱しく伊井田にもしゃきっとせんかと怒鳴られたことがある。
あなたを怒鳴った伊井田は死にましたよ、僕が殺しましたよ。扉を閉めて自分が死に追いやったのだからその表現は事実だった。
伊井田という悪者を倒した、まるで正義の味方のような気分に宗次はなっていた。
「誰かに頼んで避難させるようにしてください。いやもう遅いのかも」
「ですから何があったんですか」
切羽詰まった宗次の言葉に再度、日和は問いかける。日和のそばにほかの教師も何事かと集まってきていた。
「信じられないかもしれませんが、あれはゾンビです。うちの生徒がゾンビになって、伊井田先生を殺したんです」
「嘘だと思うなら中庭に行ってみてくださいよ。僕はもう行きませんよ。こっちの校舎には入れないように扉に鍵を閉めたから入れませんが、安全だとは言い難い」
「もし、それが本当だとして……」
未だ信じれない日和が仮定として語りだす。「あなたはどうするつもりです?」
「どうもこうも逃げますよ」バスの鍵を見せて告げる。「と生徒を見捨てるつもりはありません。皆さんに逃げ伸びた生徒がいないか、見てきてほしいんです。僕はバスを」
「どうしてキミがバスを?」
近くの教師が不服と言わんばかりに告げた。
「伊井田先生に託されたんです。生徒指導として」
死んでしまってもなお伊井田の名前を出すと引き下がった。
完全に虎の威を借る狐だったが、自分が生き残るためには都合がよかった。
伊井田なら自分が生徒を探して助けるだろう。けれど宗次は自分が生き残る道を選んだ。
生徒を探している途中に殺されるなんてまっぴらごめんだった。
バスの準備ができ次第、誰も彼もを置き去りにして逃げるつもりだった。
「さあ早く」
パンパンと手を叩くと年上の教師もこぞって動き出した。
伊井田の威光がそれほどまでに残ってることもそうだが、伊井田と同じ生徒指導を押し付けたという負い目が他の教師を動かした。
「饗庭先生は僕を手伝ってください」
それは宗次が自分勝手に与えた慈悲だった。さあこっちへと手を差し伸べる。
日和は何かを考えているようだったが
「分かりました。行きましょう」
渋々そう告げて宗次を追い越した。宗次の手は握らなかった。
「あっ、センセェー!」
目ざとく宗次を見つけた
網代は担任だから名前を知っていたが、後ろの女生徒の名前を宗次は知らない。
ただ憂と同じく高校生にしては大人びた顔で、読モか何かのつながりがあるのだろう。
憂はこの緊急時にいち早く察してバスへと退避してきたのだろう。
そういう意味では聡いというかずる賢い。とはいえ伊井田と憂は仲が悪かったはず。そこらへんをどうするつもりだったのか。
「よかった、センセェが来てくれて、イヤダだったら乗せてくんなかったかもだし」
どうやら賭けだったらしい。
伊井田と憂は服装でひと悶着あったが、宗次はそれをなだめたことで網代とは仲がいい。
「そんなことよりさっさと逃げたい……」
宗次と日和がここに来る道すがら助けた一年生が嘆いていた。
日和は生徒たちひとりひとりの名前を憶えているようだったが、宗次には無関心な生徒には無関心のまま。名前を覚えようとしていなかった。
「分かってるよ。さて乗り込んで」
扉を開けると非常時だというのに自分が座りたい席目指して生徒たちがなだれ込んでいく。
「さあ、行きましょう。饗庭先生!」
手を無理やり握ってバスに促そうとすると日和は拒んだ。
「ほかの生徒はどうするんです。それに先生方も……。それに免許だって…」
「もう定員は埋まっています。これ以上は乗れませんよ」
市営のバスのように立って乗ればまだ乗れることはできたが、宗次は窮屈なのは嫌だった。
「免許は…まあ、中型免許でいけるんじゃないですか?」
学校の物とはいえ、実際には伊井田しか運転していない。自分が持っている免許がマイクロバスに対応しているかなんて習ったような気もするが、覚えていないしこんな時に調べる気にもなれない。
「それに…」
それでも頑なに日和は拒む。まるで宗次とともに行動するのをためらうかのように。
「それに三井先生は言いましたよね?」
「何を?」
「中庭の扉に鍵をかけたって」
「ええ。生徒の安全のためにですよ」
「それって本当ですか? 本当に生徒の安全のためだったんですか?」
「何が言いたいんですか? ほかに理由があると疑っているんですか?」
図星を装うように無意識に怒気が強まった。まるでそれは嘘だと告げているかのような印象を見せる。
「ええ。疑っています。扉に鍵をかけたせいで、伊井田先生は死んだのではないのかと」
「~~~ッ!!」
宗次はその指摘に何も言い返せなくなった。
こんな状況で、こんなにも冷静で、そして自分の言葉からそんな推理までしてくる。
「そ、そんなわけない!」
ひねり出して宗次は告げる。「それに饗庭先生も伊井田先生が嫌いだったじゃあないですか!」
「好きではなかっただけです」
「それはどこも違わない! そんな伊井田が死んだんだ。少しの悲しみが万々々が一あったとしても喜びのほうが勝るはずだ。なんで分からない!」
「それは自供と同じですよ。自分が伊井田先生を見殺しにしたっていう」
「違う!」
「では真実は、真実はどうなんですか。あなたは伊井田先生を助けようとしたんですか!」
冷静に詰め寄る日和に宗次は追いつめられ、
「ああ、もういいよ。もういい! お前はいらない。ちょっといいなって思ってたから助けてやったのに。どうにでもなってしまえ」
宗次はひとりバスに乗り込む。扉が閉まっていたおかげか今の会話を聞かれなかったのは幸いだろう。
「あれ、日和センセェはどうするの?」
憂が尋ねてきた。甘えるような猫なで声が、まるで自分に従順なように思えて、妙に安らぐ。
「どうやら残ってほかの生徒の誘導に当たるらしい。僕はキミたちを先に避難させるよう頼まれた」
自分が避難したいだけだが、努めて落ち着いて、あたかも生徒思いの先生であるかのように口調は柔らかく告げて運転席へ座る。
バスの運転は初めてだが、やるしかなかった。
ゆっくりとゆらゆらとバスが動き出す。
動き出したバスの中で学校を見つめる。
バスに乗るまでも、今に至るまでもいつまで経っても放送室からの緊急放送はなかった。
死んだのか、だったものになったのか。それは宗次には知る由もない。
助けを求めた少数の生徒とともに宗次は地獄と化した学校から逃げ出した。
もっとも地獄から抜け出しても地獄だということもまた、宗次は知らない。
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