第18話 悪夢は動き出す

 真っ先に踏み込んだのはクロヤだった。常人の目では決して捉えられぬ高速の突進は、漆黒に染まる闇夜の疾風と化した。一切の躊躇もなく、軍服姿の男の懐に駆け込み、闇の渦を滾らせた拳を叩きつける。軍服の男は未だその一撃に対して何の備えもしておらず、ただ平然とするのみだ。妨害を受ける事の無かったクロヤの拳は、速度を緩める事の無いまま真っ直ぐにその巨躯に吸い込まれた。

 数瞬の後、拳に込められた闇の波動が盛大に爆発を起こす。


(――――――入った……が)


 轟音と共に粉塵を巻き上げつつ、攻撃は命中した。間違いなくクロヤの一撃は男の鳩尾に直撃している。その衝撃もさることながら、何より穢威波の波動の能力が強力だ。その闇は相手の体を浸食し、内部から滅ぼし尽くす。――――本来であれば、その筈だ。


「……ちっ。やっぱり、そう上手くもいかねぇか」


 煙が晴れると同時、舌打ちと共にクロヤはそう悪態をつく。

 その拳は、確かに直撃していた。だがその衝撃に苦悶の表情を浮かべる筈であった相手は――――まるで。先ほどまでと一切顔色を変えず、ただただ冷たい視線をクロヤに向けている。普通の相手ではないことはある程度予測はしていたが、こうまで手ごたえがないとは。こちらもあくまで試し撃ちだったとはいえ、それにしてもこの結果は不本意だった。

 少しばかり腹が立つ……そう思いながらクロヤは、攻撃を受けたというのに一言も発することなくこちらを見下ろす男に声を掛ける。


「おい、何か言えよデカブツ」

「…………軽いな、貴様の拳は」

「――――……はっ!」


 その挑発に、一転してクロヤは上機嫌となる。何を言うかと思えば、この俺の拳が軽いだと? ……面白い。

 この得体のしれない化け物を前にして、クロヤは不敵に笑って見せた。胸が高揚する。初めて出会ったとすら言える強敵との喧嘩に、クロヤは確かな興奮を覚えていた。


「――――だったら。てめぇの固さと俺の全力、どっちが強ぇか試してみるか?」

「好きにしろ、何度やっても結果は同じだ」


 その一言が引き金だった。

 刹那、クロヤの足元から凄まじい勢いで闇黒のオーラが噴き出し始める。その吹き荒れる衝撃波は地面を削り取り、相対する軍服の男に強烈な圧力を与える。


「言ったな、後悔したって知らねぇぞ」


 言って、クロヤは飛んだ。そして跳躍と同時に男の顔面を鷲掴みにして、更に強く大地を蹴りつける。

 向かうは空中だ。この技を全力で扱おうとするなら、地上ここでは少しばかり威力が大きすぎる。実際戒に向かって放った時には、辺り一面が消し飛んだのだから。


「食らえ、てめぇがこいつに耐えられるならやってみろ!」


 ――――穢威波エイハ騏驥過隙キキカゲキ!!


 クロヤの掌で迸る闇の波濤が、止めどなく吹き出し男を襲う。星々が煌めく夜空が、どす黒い墨に塗りつぶされるようにどこまでも黒く黒く染まっていく。それだけはなく、遥か上空で放たれた衝撃波が地表まで伝わり、夜の静けさに包まれた首都の街並みを震わした。

 凄まじい爆音とともに、黒煙が辺りに充満する。これほどの衝撃を受けて、無事でいられるはずがない。いくら人外の化け物といえども、それは変わらない。誰が見たとしても同じ意見だろう。それはクロヤ自身もそう確信していたし、事実普段であればそうなる筈だった。――――だが、しかし。


「な――――」


 ここにきて、初めてクロヤの顔が驚愕の色に染まった。

 無理もないだろう、何故なら闇黒の波動で滅ぼし尽くされているであろう軍服の男は――――一切の傷を負うことなく健在だったのだから。


「……やはり、こんなものか。貴様の力は」


 その一言と同時に、男の一撃が振り下ろされる。予備動作など存在しないその攻撃にクロヤは反応することが出来ず、ただされるがまま地面に叩きつけられた。その衝撃に一瞬気を失いかけるが、強靭な意思でどうにか意識を繋ぎとめる。


「ぐ……っ、くそ」


 膝をつき肩で息をしながらも、クロヤは顔を上げ相手を睨みつけた。あの技――騏驥過隙ですら掠り傷すらつけることができないという事実。更に先ほどの一撃で見せつけられた奴の力。信じたくはないが、目の前で確かに起きている現実を否定などできない。……認めざるを得ないだろう、この男はクロヤの想像を遥かに超えた実力の持ち主であるということを。 


「……やるじゃねぇか、少しばかり見くびってたぜ。何者だよてめぇ」


 名を問われた男は、顔色一つ変えぬままその問いに答えた。


「我は猟犬、ロットワイラー。我らが主の命を忠実に実行するしもべにして、貴様の命の奪うものだ」


(我らが……主)


 こいつらは先ほど、メトロポリス自体に忠誠を誓っているわけではなくに仕えているだけだと言っていた。――――その何者かを捕らえることができれば、あの化け物どもの正体にも近づけるかもしれない……。その為にはやはり、どれだけ困難であろうとこの男を叩き潰すほかないだろう。

 クロヤは構え直し、ロットワイラーに向き合う。


「……エイハクロヤだ、楽しい喧嘩にしようぜ。ロットワイラー」

「……ふん」


 クロヤは拳を強く握りしめた。その瞳に諦めは感じられず、むしろこの喧嘩はここからが本番であるということを強く宣言しているようだった。

 数瞬の後、両者は再び激しくぶつかり合う。その衝突は幾度も繰り返され、凄まじい轟音と衝撃が夜の首都に響き渡った。






 燃え盛る焦炎が辺りを赤く神々しく照らし出す。夜の闇に包まれる首都の町並みを業火が塗りつぶし、その熱をもって辺り一面を焼き付くしている。


 イザベラの剣技は一級品だ。激しく、だが精細であり、騎士の剣とは正しくこうあるべきであるものを体現している。

 何と比べても文句のつけようのなく、その流麗さは崇高なものであるとさえ言える。


「はぁ……っ、はぁ……」

「あーら、もう終わりなの? つまんないわね、もう少し頑張りなさいよ」


 ――――だが、届かない。どれだけ優れていようとも、所詮それは人の剣。イザベラはここにきて、再び人と怪物の絶対的な差を痛感させられていた。

 剣を振るおうとも掠りもせず、強力な魔術である炎もあと一歩のところで避けられてしまう。軍服の女――――ピンシャーは常に余裕で怪しげな態度を崩すことなく佇んでいる。確実に攻めているのはこちらだというのに、良いように手玉に取られているような敗北感に陥りそうになるのだ。


「さっきまでの威勢はどうしたって言うの? この首都を守るんじゃないのかしら、お嬢ちゃん」

「黙、れ……!!」


 これ以上好きにさせはしないと、イザベラは尚も果敢に剣を振るう。しかしその炎を纏った斬撃の悉くを、ピンシャーは難なく避けてみせた。


「凛とした華麗な女騎士――――そう言ってしまえば聞こえは良いけど、残念ね。この程度で私に挑むなんて無謀と言わざるを得ないわ。口と態度だけは達者みたいだけど、それだけじゃ何も為せやしないわよ。あなたには鎧を着こんで剣を振るうよりも、そこらの町娘の方がよっぽど似合ってるわ」

「……うるさい!」


 ピンシャーの瞳がイザベラを憐れむように細められる。どこまでも自分を軽視するその視線に、イザベラは怒りをぶつけた。


「私は騎士だ。この首都、この国を守る使命を持っている。私だけじゃない、貴様に殺された私の部下も……騎士であることに誇りを持っているんだ。それを侮辱することなんて許しはしない!」

「あら、騎士っていうのはどいつもこいつも自分の宣言したことも実現できないような雑魚のことを言うのかしら。そんな弱々しい肩書に誇りを持つなんて、この国のお人形さんたちは随分と酔狂なのね」


 その言葉で、イザベラの怒りは頂点に達した。剣に纏わせる炎は更に勢いを増し、辺り一面に燃え広がって炎の海を形成する。イザベラの魔術には燃焼源など必要ない。仮に水辺だろうが岩場だろうが、どのような場所であろうとも一切関係なく、その火の手はどこまでも広がり続けていく。

 それはこの街中であっても例外ではなく、瞬時に地表を伝って炎は広がりピンシャーを取り囲んだ。


「へぇ、火事場の馬鹿力ってやつかしら。確かにこれなら私も動けないわね」

「私を……騎士を舐めるな!!」


 イザベラが手を翳すと辺りを覆いつくす炎が蠢き、意思を持ったかのように一斉にピンシャーへと迫る。上下左右どこにも逃げ場などない。ピンシャーは完全に炎の牢獄へと捉えられたのだ。その姿は完全に、燃え盛る火炎地獄に呑まれてしまっている。


「はぁ……気に入らないわね。現実を知らないお嬢ちゃんは綺麗ごとばかりで」


 しかし絶望的な状況に追い込まれたというのにも関わらず、ピンシャーはため息混じりに呆れ顔でそう呟く。周囲を火柱で囲われて身じろぎ一つできない状況にして、澄まし顔であくびなどしてみせていた。

 その余りにも余裕の溢れる姿に一抹の不安が過るも、イザベラの選択は既に決まっている。


「滅びろ、フェアレーター!!」


 捉えた相手を逃がしなどしない。ようやく作り出した隙を無駄にせず、イザベラはピンシャーに止めを刺すべく一気呵成に斬りかかった。






 ……これで何度目の打ち合いだろうか。既に数えきれないほど、互いの拳を幾度も激突させていた。その衝撃に大地は抉れ、突風が巻き起こり、辺りの建造物を残らずなぎ倒しながら……二人の男は止まることなく駆け抜ける。

 だが形勢は五分とは言い難い。その拳をぶつけ合う度、クロヤの顔に浮かぶ疲労は色濃くなっていく。しかし対するロットワイラーは、この戦いが始まったときと何も変わらない。無表情のまま一切口も開かず、ただひたすらにその拳を前に突き出し続けるのみだ。


「どんだけタフなんだよ、こいつは……っ!」


 さすがのクロヤの顔にも焦りが見え始めた。想定しきれなかった未知の敵の実力を前にして、穢威波の首領の絶対的な自信が崩れ去ろうとしている。これまで、穢威波の技をここまで受けて耐えきったものなど存在しなかった。

 いや、耐えきるなどという表現では生温い。これはむしろその逆――――放たれるたび鋭さを増していくロットワイラーの拳撃を、クロヤの方が必死に耐えているのだ。


「まずいな、こりゃあ…………」


 今、クロヤは生まれて初めて喧嘩で劣勢に立たされている。鍛え上げた技はどれ一つとして通用せず、衝突する拳の拮抗は徐々に崩れ始め、ジリジリと確実に追い込まれていた。馬鹿正直に殴り合っていてもこいつには勝てない……ここまでの流れで、そのことだけはこれ以上ないぐらい痛感出来た。

 屈辱感を味わいながらも、クロヤの思考は極めて冷静だった。逃げるのは性に合わない。これが自分だけの喧嘩ならばどれだけ無様を晒そうがしがみついて喰らいつく。だが今のクロヤには騎士団との契約があった。簡単に敗北を喫して死を迎えることど許されないのだ。一つでも多くの情報を持ち帰り、騎士団の連中に伝える責任がある。癪ではあるが、一度退いて体勢を立て直すのも手か――――……そう、クロヤが考えた瞬間だった。


「…………! イザベラ、か?」


 この場所からそう遠くない位置で、炎の柱が赤々と吹き上がるのが見えた。

 その勢いは相当なもので、周囲一帯を火の海と化しているようだった。全てを焼き尽くすべく激しく猛る焔は、それがたとえ人外の怪物相手であろうと違わず飲み込むことだろう――――……。


「……いや、待て。おい、どうなってる?」


 イザベラの炎は全てを焼き尽くす、ああそれは間違いないだろう。あれだけの力があれば、何も心配いらないはずだ。その光景を見た誰もがイザベラの勝利を疑わないだろう。

 ……だがならば何故、あの猛り狂う炎が――――これほど空しく虚ろに見えるのか。今すぐにでも消えてしまいそうな、風前の灯火のように映るのだ。クロヤの直感が警告する。今本当に窮地に立たされているのはどちらなのか、と。

 

「行くのなら、行くがいい」

「!?」


 突如言葉を発したロットワイラーは、構えを解きその口元に薄い笑みを浮かべていた。不気味さすら感じられるその笑みに、更に不安を煽られる。こいつは、一体何のつもりなんだ? 形勢は圧倒的に向こうが有利な筈だ。それなのにみすみす標的を逃がすような真似をするなんて…………。


「既に遅いと思うがな」

「…………何だと」

「確かにピンシャーの言う通り、貴様は鼻が利くようだ。わかるのだろう? 貴様の仲間のあの女――――このままでは、死ぬぞ」


 ――――――――!!

 ロットワイラーの言葉を聞くと同時に、クロヤはその場から駆けだした。やはり間違いない、ロットワイラーは既にわかっていたのだ。イザベラではあの女に勝つことなどできない。彼女が怒りを燃やせば燃やすほど、冷静に周りが見えなくなるのは当然のこと。イザベラは誘いに乗ってしまった、あの女の術中に嵌ってしまったのだ。どれだけ強力な大技でも、対応されてしまえばそれは絶対的な隙に他ならないのだから――――。






 その瞬間、イザベラは自らの勝利を確信して疑わなかった。奴は炎の牢獄に囚われて動くことも叶わないはず。敵は一人きりで、裏をかかれる危険もない。

 唯一気がかりだったのは、ピンシャーのあの態度。動きを封じられ、止めをさされる寸前とはとても思えないほど余裕に満ちた表情。これほどの危機に瀕しても、まだ何か切り札を隠しているかのような――――そう思わずにはいられない表情だった。


「はぁぁぁぁっ!」


 だからこそ、かもしれない。イザベラが勝利を急ぎ、今持てる力の全てを投入して敵を潰しにかかったのは。怒りに支配されたイザベラには状況を冷静に分析する能力など既になかった。間違いなく、騎士としては浅はかで短慮な行動であると言う他ないだろう。

 ――――そしてそれは、最悪の結果を今ここにもたらしていた。


「…………っ!」


 イザベラの表情が驚愕の色に染まる。標的に向かって振るわれるはずだった剣が空を切る。その光景は予想だにもしないもので、思い描いていた勝利とはかけ離れていた。

 突如、燃え上がる炎を掻き分けて現れたのは、一匹の獣であった。白く、美しく、強かで、しなやかな体を持った一匹の犬――――だったものだ。

 その体は腐り落ち、蛆が湧き、体中のありとあらゆる場所に空いた穴から、腐汁が止めどなく流れ落ちている。かつては輝かんばかりの美麗を誇っていたであろう面影とは裏腹に、思わず目を逸らしてしまうような、惨たらしい容姿だった。

 今なお腐り落ちていく魔性の猟犬は、哄笑しながら口を開く。


「アハハハハハハッ! 騎士の誇り、矜持……素晴らしいわね、かっこいいわね。――――けど美しくて立派なもの、輝いているもの……そんなもんは幻想なのよ! どれもこれも皆、やがてこうして……私みたいに腐り落ちるのだから!!」

「…………何なの、これは……っ」

「私が現実を教えてあげるわよ、お嬢ちゃん! たとえそれがお伽噺のお人形さんだったとしても……輝きは所詮幻に過ぎないってことをね!!」


 そこから先は一瞬だった。獣と化したピンシャーの牙が、イザベラの喉元に迫る。あまりの早業に、反応することなど敵わなかった。


「――――いや……っ」


 目前までやってきている確実な死を、イザベラは直視することができない。腐毒の魔犬が呪詛を撒き散らしながら眼前に押し寄せる……そのおぞましい光景に、思わず目を閉じる。


「…………っ」


 ――――だが、襲いかかってくるはずの衝撃はない。それどころか、周囲から物音が一切聞こえなくなった。まさかあの魔犬が幻だったわけでもないだろう。ならば、既に自分はその毒牙にかかってしまったのだろうか。そのことに気づくこともなく、あっさり命を奪われてしまったというのか。

 恐る恐る、固く閉じた瞳を開いた。


「――――え?」


 そこには、クロヤが居た。クロヤが…………魔犬とイザベラの間に立ちふさがって、いる。腹部からは血が止めどなくどくどくと流れ出していて――ピンシャーの牙が、めり込むように深々と突き刺さっていた。


「クロヤ!!」

「ったく……華麗に捌くつもりだったのに。これじゃあ、かっこ……悪い、よなぁ……」


 牙が引き抜かれると同時に、クロヤはその場に崩れ落ちた。イザベラはそれを呆然と見つめるしかない。現実離れした光景に、思考が追い付いていかなかった。どうして、わからない、わかりたくない。


(クロヤが、私の盾に……盾に、なって)


「あら、死んだかしら。お嬢ちゃんのせいよ、可哀想」

「――――っ! 貴様ァ!!」


 ドスッ……と、鈍い音がした。振り上げた剣を握りしめていた拳は、力なく緩んでいく。目頭が熱くなる……口から血が勢いよく零れ落ちる……剣が音を立てて地面に落下する。

 咳込むと同時に、更に大量の血液を吐き出された。


「ゴフッ……」


 イザベラの右肩には、魔犬の鋭く毒々しい爪が突き刺さっていた。ピンシャーが少し力を込めるだけで、肩から腕が容易に切り離されるであろう。現に今尚、徐々にではあるが傷口は深くなり、爪は確実に彼女の体に抉り込んでいく。


「ごめんなさいね、わたしはあなたみたいな夢見がちな女の子が大嫌いなのよ。だから――――」

「そこまでにしておけ、ピンシャー」


 止めを刺そうとするピンシャーを、いつの間にか傍らで待機していたロットワイラーが制止した。残虐な行為に酔いしれ、恍惚の表情を浮かべていたピンシャーは、不満そうにロットワイラーを睨みつける。腐食の進行する瞳は白く濁っていて、不気味な様相を呈している。


「何でよ、邪魔しないで。これだけが私の楽しみなんだから……それとも、あなたが代わりになってくれるのかしら? ロットワイラー」

「違う、これからリンドのところに向かうことを忘れるな。『鎧の英雄』も間違いなく現れるだろう。肝心の奴との戦い、これ以上成体の姿を保って消耗した後では分が悪い。貴様は我らが主に無様を晒すつもりなのか?」

「……ちぇっ、わかったわよ。私たちの手で、『鎧の英雄』の真価を見極めなきゃいけないんだから。無理は禁物ってことね」

 

 爪を引き抜き、ピンシャーは獲物を蹴り飛ばした。

 イザベラは為すが為されるまま、地面を転げて力なく倒れる。


「――――――――」

「――――……」


 ああ、意識が薄れていく――――視界が歪んでいく。倒れ伏し、近づいてくる死の足音を聞きながら、イザベラは軍服の二人をただ見つめた。奴らの会話も段々と遠くなって、正確に聞き取れない。無感動にこちらを見下ろす男の視線、嘲笑に溢れた女の声。

 どれもこれもが、すでにぼやけて消えかかっている。


(鎧の、えいゆう……戒……)


 団長に、ディランに……戒に知らせなくては。奴らの目的は……『鎧の英雄』だ。だったら尚更、こんなところで倒れてはいけない。私にはまだ、このことを報告する義務があるんだから。こんな奴らを野放しにできない、こんなバカげた強さを持った化け物を、放っておけない。


(クロ、ヤ……)


 目の前に無造作に放られ、ピクリとも動かない仲間に視線を送る。その体から流れ落ちる血が少しずつ地面を伝って広がっていく。

 ――――私のせいだ……ああ、私がもっとしっかりしていれば。イザベラは愚かな自分自身を呪わずにはいられなかった。クロヤは強い……もしここにいるのが彼一人だったなら、こんな無様は晒さなかったことだろう。それだというのに私は、仲間を殺された怒りに支配されて敵の挑発に乗ってしまった。薄れゆく意識の中、自責の念がイザベラの胸を覆いつくす。


(ごめん、なさい……)


 イザベラの意識は、そこで途切れた。 







 ――――嘘だ、信じられない。

 突然の報せを受けて、俺はクレアさんの待つ執務室に走っていた。焦りと不安、そしてなにより驚愕が大きい。とにかく仲間たちの安否が気になって、他のことなど何も目に入らない。道行く人々を半ば押し退けながら先を急ぐ。


 イザベラ・リード、エイハクロヤ両名が首都内部でフェアレーターと遭遇、交戦。その後、力及ばず敗北したと――――そう聞いたとき俺はただ呆然と立ち尽くすほかなかった。どちらも重傷を負っていて、現在救護班が必死に治療を試みているらしい。


「くそっ……何をやっているんだよ俺は!」


 二人が戦っている間、俺はのうのうと一人稽古に励んでいた。仲間たちが命を懸けて戦っている間、そんなことも知らずに普段通りの日常を過ごしていたんだ。思えば、イザベラが用事があると言って稽古を休むなんてこと、これまで一度もなかった。どんなに忙しくても、これだけは欠かさず付き合ってくれていたんだ。

 けれどきっと、今回は俺が……。


「俺が勝手に塞ぎこんでいたから……」


 きっとイザベラは、俺のことを心配して任務に同行させなかったのだろう。

自分が情けなくて仕方ない。俺はここ最近、あの女----ベロニカに言われたことが脳裏から離れず苦悩していた。端から見たって、俺が何かに悩んでいることはわかりきっていた筈だ。けど、そんなことどうだって良いんだ。仲間を心配させて、その結果仲間が傷つく。

 俺が不甲斐ないから……。



「失礼します!」


 返事を待たず扉を開け、執務室に足を踏み入れる。すでにそこにはディランもいて、室内には緊迫した空気が漂っていた。


「クレアさん、イザベラとクロヤは……!」


 焦りを隠せない俺を嗜めるように、クレアさんは冷静に言葉を発する。


「無事だ。確かに重傷ではあるが、命に別状はない。一先ず落ち着けよ戒。そう動揺されていては、こちらとしても話を進めづらい」

「けど……っ」


 そんなことを言われても、この一大事に落ち着けって言うほうが無理だろう。同意を求めてディランに目を向けるが、こいつは呆れたように首を振りため息をついた。


「まったく貴方はどんなときでも騒がしいですね。確かに今は緊急事態、対応は急を要するでしょう。だがだからこそ、ここは冷静に一つ一つ物事を整理すべきだ。…………それが、イザベラ様を破ったものを捕らえることにも繋がるはずです」

「ディラン……」


 ――――ああ、目を見ればわかる。こいつだって俺と同じだ、悔しくないわけがない。

 自分の預り知らぬところで大切な仲間が痛め付けられるなんて、耐えられるわけがないんだ。冷静で毅然とした態度を保っているが、それは外側だけだ。その心のうちは奴等への怒りに染まっていることだろう。その感情が痛いほど伝わってきたお陰で、俺自身の頭も急速に冷えていく。

 そうだ、ここは焦るところじゃない。イザベラとクロヤを傷つけた奴等は絶対に許しておけないが、そいつらを追うなら闇雲に動いたところで話にならない。だからこそ今は一つでも多く情報が必要だ。


「――――悪い……ディラン、クレアさん。そうだよな、今俺が暴走したって何も意味がない。ちょっと周りが見えなくなってたよ」


 そう謝って、俺は深く深呼吸した。

 大丈夫だ、冷静に行ける。対処できる。これから俺がそいつらに、イザベラとクロヤ……二人の借りを返してやるんだから。


「話してくれ、二人を傷つけた奴らのことを……!」

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