暗黒街
まるで肥溜めの中にいるのかと錯覚するほどの刺激臭。降りしきる酸性雨、海や川はヘドロで汚染され、空気は視認できるほど黒ずんでいる。この国の人々は家の外に出るのも命懸けだ。彼らの敵は、何も薄汚れた空気や雨だけではないのだから。
暗黒街と呼ばれるこの場所には、味方など一人もいない。食糧も、水も、生活に必要なありとあらゆるもの全てが不足している状況で、生きていくためには
ゆえにこの地で生まれ育ち、この国に支配される者全てが理解している。他人を信用してはならない……自分以外の一切を敵と見なし、奪って奪って奪いつくせ。愛情、友愛、哀憐、厚情……何もかもが不要。他者を思いやり……労わる心など、此処では足枷でしかないのだから。
だからこそ、この光景は異様だろう。場所は深夜の大通り。誰がいつ自分を狙ってくるかわからないこの状況で、丸腰の女が一人で出歩いているなんて。背は高く、髪は長い金髪で、黒いパンツスーツにロングのトレンチコートという装い。この世界では見慣れない、誰がどう見ても美しく……そして目立つ格好だ。
自殺願望でもあるのか、頭がどうかしているとしか言えない。国を支配する側である帝国軍人ですら、町に出るときは武装したうえで必ず数人での行動を義務付けられているというのに。
よって当然、女を狙う者は既に何人も存在した。だが彼らの多くは物陰から女の様子を窺うばかりで、襲い掛かる様子はない。
「……ったく、どいつもこいつも根性がない」
女は退屈そうにそう漏らし、更に先へ進んでいく。これより先は一般人は立ち入ることが許されていない、この帝国の中枢部……帝国軍総本部だ。先端技術が決して外部に流出しないよう、何重ものセキュリティで秘匿されている。
当然警備兵も只者ではなく、この国独自の方法で強化された兵士たちだ。本来であれば一般人が近づいただけで、射殺……ないしは即刻逮捕という対応をとるのだが。
「あいつに用がある」
「……はっ、お通りください」
女が手を上げ合図をすると、兵たちはその場を退き扉を開ける。その様子にはどこか怯えが混じっていて、この女の特異性がより浮き立った。
軍本部内のとある一角。女は憂鬱そうな表情で、扉の横に備え付けられたパネルを操作する。これから会わねばならない者を、女は心底嫌悪していた。できることならば顔など見たくないし、重ねて言えば声すら聞きたくない。
「私だ。さっさと開けろ」
内部と通信が繋がり、女は短くそう言い捨てた。通信相手の返事など聞く気なんかない。とにかくさっさと用を済ませて、一刻も早くこの場を立ち去りたいのだ。
ロックが解除されると同時に、足を踏み込む。扉の先はかなり広いフロアとなっていて、この場の主が相当高い身分であることが窺い知れた。
「……」
部屋の中にはそう漏らす軍服姿の男が一人。これだけ広い空間だというのに、この男の他に人の姿は見えない。
「――――また一人、俺たちの同胞がこの世を去った。彼もまた、高みへ上り詰める存在ではなかったということかな……」
男は椅子に腰かけ本を読みながら、そう嘆いた。
「はっ、何が高みだ。お前たち化け物が減るのは良いことじゃないか」
「……やあベロニカ。無事にたどり着けたようだな。と言っても、既に君を襲おうなんて考える身の程知らず、この町にはいないか」
ベロニカ、と呼ばれた女はそんな冗談などには耳を貸さず、男を睨みつける。
「そんなことはどうでも良いんだよ、人を喰らう害虫が。くだらない妄想に浸ってる暇があるならさっさと要件を言え。私は一分一秒でも早くこんな場所から離れたいんだ」
「……まったく君は、どうしてそう口が汚いんだ?君だって、俺たちと同郷の仲間じゃないか。それに奴らは「人」じゃない。この世に溢れる歪な人形どもを、俺たちが有効活用してやってるだけだろう。
高みへ上り詰めるための餌としてね」
……ああ、確かに彼らは本当の意味での「人」ではないかもしれない。だがそれでも生きている。この世界で、必死に命を繋いでいる。
「……たとえそうだとしても、間近で見せられれば気分も悪くなる。反吐が出るんだよ、お前らのその価値観は」
だから「人間」をただの餌として扱う怪物どものことが、ベロニカは大嫌いだった。ただただ単純に気に喰わない。こいつらに比べたら、暗黒街の腰抜けどもの方が遥かに好感が持てる。奴らは生きるために必死なだけ。死なないために自分より格上の存在には手を出さない……好みではないが、理にかなっているし当然のことだとベロニカは思うのだ。
そんなベロニカを、軍服の男は嘲笑する。
「くくっ……君は優しいな、ベロニカ。ああ、微笑ましい限りだよ。だったら、人形どもの側につくかい? ……でもそれじゃあ君は目的を果たせないんじゃないか?」
「わかってるさ、だから仕事はしてやると言っている。これは単純に好き嫌いの問題だよ。わかったらさっさと要件を言え」
苦笑しながらも、男はようやく本題に入る気になったようだ。
「ああ、わかったわかった。君は正直者だ、思ったことは口にしないと気が済まないんだろう。……人形どもにさえ心優しい、そんな聖女のような心を持つ君に仕事だ。今度はイデアールに向かってもらう」
「……イデアール……ね。あそこは好きじゃないよ」
「君はどちらかと言うと現実主義者だからな。魔術だとかマナだとか、ああいうのは苦手だろうが……わかってるだろうな?」
そう言って、ベロニカを見つめる軍服の男。
「君の好みであろうとなかろうと、仕事だけはしっかりやってもらう。それが俺たちの契約のはずだろ?」
柔和な態度はそのままだが、先ほどまでと違って男の目には確かな圧が込められていた。
だがそんな男の威圧にも、ベロニカは臆することなく反論する。
「はっ……そうは言うが、肝心のお前がその契約を果たしてないじゃないか。私がどれだけ外れた
「生憎、まだ君の探し人の行方は掴めていなくてね。それに、君は無用な殺しが多すぎる。俺たちはただでさえ数が少ないんだ。君が連れ帰る数より、君が減らしてくる数の方が多い現状で……見返りが得られるとでも思っているのか?」
「気に喰わなかったらぶち殺す。当然だろ? 私の目の前で人を喰わせるのが悪い」
所詮、互いに利用し利用されるだけの契約だ。信頼など皆無で、お互いの価値観が交わることなど到底ない。どちらも引かず、話は平行線のまま。
「……まあ良いさ。とにかく、君は今まで通り外れた奴らを連れ帰ってくれれば良い。それぞれの目的にとって、それが一番良い選択じゃないか?」
「お前らの行動が私の美学に反しないうちは付き合ってやると言っている」
「だが彼らが生きていくためにはどうしても人を喰らわねばならない。まだ成体になれずにいる連中では、その食べるという本能を押し殺すのは難しい」
「そんなことは私には関係ない」
怪物の事情など知ったことではないし、私の好みじゃなければ始末するだけ。ベロニカは常にそう考えている。そして、その考えを変えるつもりもない。
軍服の男はそんなベロニカに呆れてはいるが、そこにさえ目を瞑れば優秀な彼女を切り捨てるつもりはなかった。
「ハァ……相変わらず君は我が強いというか、我が儘だな。だが、素直に協力したほうが良いんじゃないか? ……彼に辿り着くには、俺たちが必要だろ?」
「ああそうだな。だが、私はお前たちに協力するつもりは微塵もない。全てはただ奴を探すため…この方法が一番手っ取り早い。必要だからやるだけだ」
そうかい、と笑って軍服の男は再び本に目を戻した。手をひらひらと振って、話は終わりだと合図する。
自分から呼びつけておいて、勝手な奴だ……だが、これでようやく解放される。
そう思ってこの場を立ち去ろうとするが――――。
「…そういえば」
何かを思い出したように、軍服の男はベロニカを呼び止めた。
「まだ何か用か」
「まあまあ、そう邪険にするなよ。君に一つ、耳寄りな情報があることを思い出してね」
そう言って、軍服の男はベロニカに向き直った。
その様子は、どこか面白がっているような……彼女をからかっているかのような。
「イデアールに『鎧』の戦士が現れたらしいぞ」
「何?」
だが、しかしそれは……。
「幼生はともかく、成体以上のフェアレーターに真っ向から対抗できるのは君か、『鎧』の使い手ぐらいのものだ。復讐を果たしたければ、今度こそ『鎧』の戦士と組んで俺たちとやり合うってのも一つの手だろ。……前のは君の好みではなかったようだし?」
「何故そんなことを」
「確かに君は優秀だし、失うには惜しい存在だよ。だが結局のところ俺たちは別の生き物で、現状はあくまで利害の一致による協力関係だ。いずれ必ず決裂する。それに俺に何かあれば、さすがの彼も姿を現すだろう……彼にとって俺みたいなやつは、良い実験材料だろうから」
「……」
優秀だからできれば手放したくない、というのはおそらく本心だろう。だが、失うのが惜しいというほどでは断じてないとベロニカは思う。
これは男の言う通り、あくまで利害の一致による契約。だから味方であるうちは利用するが、敵に回るというならそれはそれでも構わないのだろう。いやむしろこの男の性格上、敵は多い方が面白いとでも考えている可能性も充分ある。どう転んでも、この男に痛手はないというわけだ。
「まあ実際見てから判断すると良い。新たな『鎧』の戦士が、君の希望となるかどうかをね」
「……そうかよ」
現れた鎧の戦士……そいつは、私の救いとなってくれるのか。……前のやつは期待はずれだった。
もしそいつが英雄の名に違わぬ気概の持ち主なら、そのときは今度こそ私は――――。
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