第10話 藻掻く

 私は人に乱暴に扱われた経験というのが、ない。

「アニシラ様。お加減はいかがですか」

 だから、正直今日の初体験は一生記憶に残って、忘れられないだろう。体のあちこちにできた青あざをなでながら、私はあのときの衝撃を思い出した。善悪で問えば、紛れもない悪。悪意。知識しては知っていたけれど、全く実感がなかった。殴られる前の私は、あまりにも無防備だったのだと気付かされた。

「……ちょうどいいですよ」

「違います。怪我のことです」

 でも、私は空で守られている。今回のことはちょっとした不幸だ。

 洗い場で泡だらけになっている彼女の背中を眺める。泡の流れ落ちた締まった腰には横一文字の大きな傷跡があった。学園に潜入する代価として、母から借り受けた戦場の星の背中には、その名が背負う信頼を折りかねない亀裂がある。

「あなたにつけてもらった軟膏のおかげで、ほとんど痛みはありません」

 名高きスバル姫が、私の隣に身を沈めた。小さなキズは、彼女の体の前面、いたるところに見られる。化粧を落とした凛とした顔にも、湯に浮く豊かな胸にも、締まった腹や、浮き出た鎖骨、なめらかな脛、丸い肩、細い首にさえも、小さな傷はある。でも、大きな傷跡は、背骨を断つように残るそれだけだった。

 彼女は強い。そんな強者に守護された私が無防備なのは当たり前じゃないか?

「それはよかった。でも、山隆骨膏さんりゅうこっこうはお父様しか作れない秘薬であまり数がありませんから、あまり命にかかわる怪我をしないようにお願いします」

「……はい。あんなのは二度とごめんです」

「アニシラ様に戦いは似合いませんよ」

 私は香りの強い香草湯にたゆたう。そうしていると不思議と頭の中にわだかまった不安がお湯に溶け出していく気がした。

「そうでしょうか」

 スバル姫はうなずき、目を閉じたまま言葉を続ける。

「戦わなければ奪われるのは当然です」

「そうですね」

「でも、貴女はほんとうに争いとは無縁、というか、暴力に共感ができない人、奪われることになれきってしまった可愛そうな人なのだと、私は思っています」

「ひどい評価です」

「すみません。でも、だからこそ私は貴女を守ることに誇りをかける。……それを踏まえた上で、悩みがあるのならお聞きいたしますが」

「ずるくないですか。そんなこと言われたら正直に話しづらいじゃないですか……」

「これくらい言っておかないと、また無茶をされそうだと思ったので」

 前髪が張り付いた額を天上からの水滴に打たれた。

「……今日の事件の後、あなたたちが施そうとした手当を蹴って、自分の足で帰っていった友人の背中を見て、私はかっこいいと思いました。……ミサキは合理的には正しくなかったけれど、彼女は自分に正直に、強く生きているのだと、その背中がかたっていたように思えて、わたし、胸が苦しくなったんです。私は、……置いていかれているのではないか。そう、そんな不安があるんです。無性に、このままではいけない気がしてくるんです」

「……アニシラ様って、まだ兄のことが好きですか?」

「あの……いまの話に関係ありますかそれ?」

「はい、大有りです」

「わかりません」

 私は答えられないまま、風呂から上がり、髪もろくに乾かさないままさっさと自室へに帰ってクッションソファに埋まった。

「……もう十年も顔を見ていないし」

 彼のことを思い出す。

 今のスバル姫とはちょっと感じの違う黒髪に、青白い肌。当時の私と変わらなかった細い肢体が、濡れた衣服から浮き彫りになっていた。

 私の腕の中で目を覚ました彼は、とても儚げで、まるで氷でできた天使のように可愛らしかった。そう、当時大好きだった物語にそっくりなシチュエーションが手伝って、当時の私は彼に一目惚れをしたのだ。

 おかしなことに、あの衝撃は今だに忘れられない。十年も経つのに。いま、彼はどんな男の子になっているだろう。



 今日は快晴だ。でも、大きな船体が波をかき分けて進むほどに雲行きが怪しくなっていった。

 私は今、怪我を理由に学園をズル休みしている。このことに文句を言うのはミサキだけだ。間違いない。

 私はずっと船窓によりかかって、波に上下する景色を見ていた。地平線を眺めていると、ある場所を堺に空が霞んで地平線が見えなくなる。あの日もずっと外を見ていた。四歳の私には、初めて見る城の外の世界が興味深かったのだ。

 私が彼を見つけたのは幸運だったのか、それとも不幸中の幸いだったのか、今になっても理解らない。彼を見つけなければ今頃は、ずっと予備の予備の更に予備という、世間知らずのお人形になっていたというのに、自信を持てないのは何故だろう。

 雷雲と豪雨の隙間をすり抜け、船は進んでいた。塔の主が敷くこの結界を抜けたら、私達だけが知る世界。

 だ。

 私達が乗ってきた客船よりも、十倍の大きさの船の中。いや、船というよりこれは島と言ってしまったほうが良いのだろうか。とにかく大きな海上構造物の中枢部にある、母の城に劣らない装飾を施された絢爛豪華な船室で私は対面する。

「お久しぶりです。ミス・アニシラ。一段とお美しくなられて、思わず見惚れてしまいました」

「いえいえ、アシモフ艦長。私など奥方に比べれば野に根を張るシロツメクサのような小娘にすぎません。若輩の身ですが、本日は精一杯、陛下の身代を務めさせていただきますので、お手柔らかにお願いします」

「そう固くならないでください。私達はビジネスパートナーですからね。取って食うような真似はしませんよ」

 テーブルの向こうの柔らかなビロード張りのソファに、ひょうたんのような体を沈めたアシモフ・クライムマン艦長は笑う。その横に並んで座っているアシモフの妻、エリナーゼが揺れるアシモフの腹に肘を入れていた。こんな辺境まで夫婦揃って出てくるだけ会って、やり取りに遠慮がないようだ。アシモフはこづかれても気にしていないのか笑っている。

「一応、私にも気になる人がいるので手篭めにされては困ります……」

「これは失敬。さて、前置きはこれくらいにして、レポートは先程拝見させていただ来ました。……これと言って大きな変化はなかった、と」

「はい」

 私がそっけない返事を返すと、アシモフは少し考えて膝を叩いた。

「わかりました。ところでアニシラ様、すこし小腹が空きませんかな?」

 アシモフの腹に乗った餅が揺れる。前回よりも一回り大きくなったように見えるのは錯覚だろうか?

 初めてアシモフに会ったときは、今とは真逆の体型だったのだが、それが見る影もない。太った男性が苦手だというわけではないけど、なんというか、これは心配になる肥満だ。

「そういえば、船旅は久しぶりだったので、緊張して朝食が食べれなかったんです」

「……ではお茶と、軽食も用意しますね。また学園の話を聞かせてください」

「はい。あまりおもしろい話ではありませんが、よろこんで」

 それからしばらく、私はサンドイッチをつまみながら学園の近況を語った。すべて、レポートには記すほどの出来事ではない小話だが、クライムマン夫妻の子供たちの話なども交えながら談笑する。そうしていると、私の護衛官が時刻を知らせに来た。ここに来るといつも時間がすぎるのが早いと思う。

「名残惜しいですが、そろそろお暇させていただこうと思います」

「もうそんな時間ですか。では、までお送りしましょう」

 外縁に幾つか突き出た一番大きな岸壁に私の乗ってきた『やまと』は繋留されている。やまとに乗り込む直前、エリナーゼに呼び止められた。

「これを、ミスタースバルのお弟子さんに渡していただける?」

 黒い紙袋を渡された。なぜかしっかりと口を閉じてある。中身は、手紙だろうか……いや、あの筆不精のスバルお爺さまがまさか。

「え、ええ良いですけど?」

「お願いしますね」



 一日だけでも体が洋上になれていたのか陸に上がってもしばらく揺れているような気がした。おかげで、学園を一日余計に休むはめになった。

 ……そんな、困ります……そんなの入りません……揺らさないで……もう、死んじゃう……。

「アニシラ様、朝です。そろそろ起きてください」

「……え?」

 窓から、とても明るい光が差し込んで、部屋は電気なしでも明るい。スズメが庭でさえずっている。黒髪の侍女が、ベッドに乗り込んできていた。

 このベットはキングサイズだから、もしベッドの中央に私が寝ていて起こそうとするなら、そうしなければ手がとどかないのは当然だ。しかし、そもそも私は侍女から起こされるほどの時間まで寝れたことがない。寝覚めは余計なほど良い体質で、同時に神経質だった。以前、暗殺の名手であるスバル姫が忍び寄ろうとしたのにも気がついて目覚めた実績がある。

「また、腕を上げたんですね。……恐ろしい人です」

「寝ぼけてないで起きてください。遅刻しますよ?」

「え?」

「ほら」

 スバル姫は、遠い南国に住むお父上から頂いた懐中時計を取り出して、私に見せつけた。ローマ字で装飾された文字盤は9時半を示している。これは、遅刻する、ではない。完全に遅刻だ。

「なんでもっと早く起こしてくれなかったのですか!」

「いえ、まさかまだ起きていないとは、露程も思っていませんでした」

 私は、ふかふか過ぎて手足を取られる高級ベッドから、転がり出て、洗面所へと走った。

 ばたばたと慌てふためいて結局、間に合わないなら、急いでも無駄だと私は諦める。制服に着替えた頃にはそろそろ午前の授業も折り返しの時間になっていた。この時間の教科は超感覚開発の実習だから、途中出席しても意味がない。むしろ、F組でこの教科を実施する意義さえ怪しいと私は思っているから簡単に諦められる。

 ゆっくりと朝食をとり、スバル姫ので市街地まで車を走らせた。

「あ、アニシラ様、これを持っていってください」

 車から降りる直前、スバル姫が少し重たいトートバッグを私に押し付けてきた。中身を確かめると、丁寧にラッピングされた小箱が幾つか入っている。

「地方のお土産として言いはれそうな海外の品を幾つか見繕っておきました。休んでいたあいだのノートを見せてもらう対価として役に立つかと」

「え、わざわざありがとうございます。そんなの考えてなかった……」

「袖の下は、どんな時でも有効ですから」

 スバル姫は笑顔で言う。でも、それって褒められたことじゃないような?

「……ありがたく、使わせてもらいます」

 普段とは少し雰囲気の違う通学路を、なんとなくせかせかと十分ほど歩く。すこし上がってしまった息を整えつつ。閉鎖された校門の詰め所の戸を叩いた。

「はいはい。どちら様?」

 鉄の扉は開かず、中からおじいさんの声がする。遅刻するなんて初めてなので、詰め所にお年寄りの警備員がいることを初めて知った。いつも私達が横目に視るのは、屈強で軍にいても違和感のないような警備員だった。

「遅れまして申し訳ありません。……二年F組の田中ですが」

「あ、ちょっと待ってくださいね。二年の、二年の……あった。今開けますよ」

 青銅色の扉が電子音とともにスライドして開く。重々しく、鋲の打たれた古めかしい見た目なので、そんな開き方をするとは思ってもいなかった。

「失礼します」

 初めて立ち入る詰め所の中は、思ったよりも広かった。仮眠用だろうか、パイプの二段ベッドも置いてあり、冷蔵庫などの家電に加え、小さいながらも台所がある。我が家の厨房よりもすこし小さいくらいか。

「はい、これに名前を書いて、これ、反省文の紙ね。あとで担任に出してください」

「あ、はい。ありがとうございます」

「……じゃあ、向こうの扉から中に入れるから。あ、いまC組は合同授業を屋外で行っているから、頭上には気をつけなさい」

「え?はい。ありがとうございました」

 入ってきた方の真正面にある木製の扉を押し開けると、そこは塀の向こう側、見慣れた花壇と植木のレンガ道だった。

 無事に学園に入れてホッとした。だからこそ、あの忠告が本当になるなんて、私は微塵もおもっていなかったのかもしれない。

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