第9話 夜の嵐の中で
魔術師は突然背後に現れる。敵を前にした時、奴らはたいてい後ろから安全に攻撃しようとする。この六、七年一人で化物を相手にしてきた俺の経験則だ。やつらは馬鹿げた能力と技能、感覚を持っているくせに妙に臆病なんだ。
最初の一撃はさっきヤヒビキが刺されたときと同じ、瞬間移動で心臓をねらったバックスタブだった。あえて後ろに飛んで、現れた魔術師の背後を取ることに成功したので、羽交い締めを試みた。
失敗、抜け出される。
「
『おい愚、善意の一般人!そいつは本物の化物だからさっさと日常に戻れ!』
「いやいや、無理無理」
再び対峙する。改めて観察しても、コートのせいで何も情報が得られない。しかし、さっきまで無表情だったのに、手応えがありそうだとわかった途端なんて顔をするのかこの
『……知らんからな』
昴の五人は気絶した三人の少女を担ぐと、こちらを警戒したままジリジリと後退し始めた。
「お姫様が連れて行かれるけど、良いのか?」
「ストーカーから遠ざけられるならいいのよ」
「別にエロい目で視ていたわけじゃないんだけどなぁ」
ぽりぽり頬を掻いていたら俺の立っている場所から、三十センチ左の床がひび割れ陥没した。
魔術師の眉根がこわばる。こわいこわい。スバルの姉さんとか、ボスとか……おっかない美人が困ってる姿って俺にとっては鬼門なんだよ。
「なんで外れるの?」
「企業秘密です」
「……わかったわ」
何がわかったのか、嫌な予感しかしないけど、それを問う暇は許されず。俺は瞬きしていなかったのに、きれいな顔がすぐ目の前にあらわれていた。空間転移だ。反射的に取り出そうとしている最中のナイフは当然間に合わず、構えようとする俺の腕の下をくぐり抜けて、ゴムを弾いたみたいに蹴り足が跳んでいった。すんでのところで避けれて視界いっぱいには絹みたいな肌色が広がっている。肌に透ける静脈の本数をゆっくり数える暇なんてなかった。手にしたナイフは惜しげもなく晒された太もも裏の大動脈を狙って走る。、しかし傷を置き土産にして、体を横に逃がすことは叶わなかった。
「やるね」
エアハンマーというか斥力槌というか、そんな感じの不可視のちからに横腹を殴られた俺は、コンクリートの壁に叩きつけられて、血反吐を吐いている。しびれるような痛さが内蔵に広がっていく。これはだめかもしれんね。
「でも、所詮は落ちこぼれということなのね。とっても残念」
血が目に入ってしみる。真っ赤な視界の向こうには、
「……答えをまちがったのかしら?」
もう一発も横の壁を殴る。更に罅が大きくなる。
「不思議」
二発同時に跳んできたので両手で払いあげる。壁から砂がパラパラと降ってきた。
「なんで防げるの?」
「き、企業秘密……」
実際はどうなってるのか俺もさっぱりわからん。でもハッタリって大事だ。こういうときは不敵に笑っておくに限る。師匠曰く、笑う門には福来たる、死にたくなければ笑え、だ。
「ふーん、ならこっちね」
「がっ!」
先もそうだったが、この化物は、体術にも通じてるみたいなんだよなぁ。脳みそがどこまでも飛んでいくような、途方もない浮遊感。鋭い前蹴りが顔面に刺さり、目玉が飛び出るかと思った。痛みも何もかも置き去りにして逃れられそうな気がしたが、気のせいだった。すぐに痛みに絡みつかれて俺はフガフガ吠える。顔が痛みを通り越して焼けている気がする。ずっと火に炙られているみたいだ。
それでも視ることを体に叩き込まれたせいか。目が覚めるような痛みの向こうに、月がでていた。
『寝ぼけるのも大概にしろ、自分が誰だか忘れてるんじゃないだろうな』
「ふが」
綺麗な満月を隠してしまったのが、黒いヘルメットなのか、意識が落ちてしまったせいなのかは憶えていない。
手の届かない高さの窓に引かれたカーテンの隙間から日差しが漏れて微かに明るい白い部屋。目が冷めたときは、てっきり独房に放り込まれたのかと思った。けが人を寝かせるには不適切な黒いベッドに、便器、鏡と洗面台だけで机などはない狭い部屋。五歩も歩けないそんな小部屋だ。
月光の中を小さな糸くずが泳いでいる。目覚めてから一週間、俺は一切外の様子を見ていない。かろうじて食事が運び込まれるときに開く戸の向こうには鉄板の壁しか見えなかった。ここが病室だと判明したのは、食事を運びに来た兵士に俺が今置かれている状況を尋ねたときだった。
その兵士は警戒しながら言った。
ーーあなたはその怪我が治るまで、絶対安静の命令が出ています。
「最近の病室ってのは、人の精神衛生を損なうように意図して作られているのか?」
顔に巻かれた包帯を鏡で見ながら解いていく。完全に潰れたと思っていた顔はすっかりもとに戻っていた。違いがあるとすれば、右目が濁っているのと、その下に僅かな一文字に走る傷跡があるくらい。海外仕込みの整形技術にバンザイ三唱。かなり痛かったからてっきり怪物顔になっているかと覚悟していたのに、蓋を開けたら親にもらった顔が出てきてけっこう複雑な気分だ。
ベッドに取ってつけたように吊るしてあった無線機のボタンを押してコールする。
一体いつ俺はこの部屋から出られるのか、それとも一生出られないのか、尋ねておきたい。
しばらくベッドに座って、治ったばかりの顔をいじって待つ。電子音のあとにドアが開いた。
「あ、ひとつ、訊きたいことが……」
そして、首に何かが巻き付いた。
「おはよう愚兄。こちらにはもっと訊かねばならないことがある」
そのまま引きずり倒される。受け身も取れずに床に伏した俺を、黒髪を赤紐で編んだ、非常にグラマラスな軍服の女が、冷めた目で俺を見下していた。笑っているのに目は怒っているのだ。これが般若かと、角を見た気がした。
「や、お久しぶりです姉さん……、話す前にお願いが、この首輪……外してくれませんかね?」
俺の要望はすげなく無視され、俺は立つことも許されず
俺が自分の足で歩くのを諦めたのは曲がり角を五回ほど折れたとき。不等間隔に釣ってあるあんまり眩しくないLED照明を眺めながら、尻が擦れて熱くなるのを受け入れた。スバルの姉さんは俺に厳しすぎやしないだろうか。
そして俺は、股間が寂しい貫頭衣のまま廊下を引きずられ、しばらくして入り口に警備兵が立つ薄暗い会議室に放り込まれた。床に赤いカーペットが敷き詰められていたからあまり痛くはなかった。
「立て」
「はいはい……っとと」
部屋を見回して確認できたのは、U字の卓についた十五人の老人たち。爺も婆も、硬そうな軍服を着ているか袖や裾が邪魔そうな文官服を着ているかぐらいの違いしかわからないほど、老いている。まさに長老といった感じだった。全員、落ち窪んだ眼窩の底で俺を見ていた。手術用の貫頭衣を着たまんまの姿をそんなにまじまじ見られると、流石に恥ずかしいのでやめていただきたい。
最上座には誰も座っていない。その場所に座るべき人物は、椅子の背後のスクリーンの中で玉座にだらしなくもたれかかっていた。見かけ年齢は後ろで俺の
一番目は、あの塔の最上階に引きこもっているから、この十年顔を見ていない。一体今頃何をしているのか。
「陛下。遠野・昴・ミツギを連行しました」
『ご苦労。さて落ちこぼれよ、調子はどうかな?』
「あー……、うっ!」
答えに迷っていたら後ろから頭を押さえつけられた。
「申し訳ありません陛下!
『よいよい、気にするなスバル姫。あの化物の息子である落ちこぼれに、いちいち不敬を咎めていたらキリがないわ。なあ、落ちこぼれ?』
「あ、ども」
初めて会ったあの夜から相変わらず、俺はこの人の前に出るとうまく話せなくなる。理由は多分、この女天皇・エミがあの人によく似ているからだろう。いや、俺は昔から頻繁に会わない人間とはうまく話せないから、特別でもないか。苦手なのははっきりしている。
気性の荒い妹弟子兼義姉の貴重な堪忍袋の緒がまたすり減ったような気がするなぁ。
『して、落ちこぼれ、怪我はもう良いのか?』
「えっ…と、おかげさまで、万全じゃないですけども」
『仕事は続けられそうか?』
「それは……やれないこともない、かもしれないです」
『はっきりしないな、遠慮はいらんよ、落ちこぼれ。手負いのお前を下手にけしかけて、ぽっくり死なれても困るからね』
じゃあ、無理です。こんな
「答えろ」
俺の本音は後ろからの視線が、圧迫感があってやっと、言葉になりそうだ。
「……目をやられたみたいなので、しばらくは無理かもしれないです」
言えたことにホッとする。
『そうか、わかった。もう下がって良い。お前の処遇は検討した後、知らせよう。……スバル姫よ』
「はっ」
『落ちこぼれを病室に戻しておやり、今度は引きずり回してはいけないよ。いくら気のおけない幼馴染でも、今はけが人なのだから』
「は……い」
スバルの姉さんの歯切れの悪い返事で、黙ったままだった老人たちの間になんだかほっこりした笑いが広がった。何が面白い?
「行くぞ愚兄。陛下、失礼します」
またスバルの姉さんに頭を押さえつけられる前に、礼をして会議室を出る。
こちらに逃亡の意思はないのに、未だに首輪と
「これ、そろそろ外してくれませんかね?」
「あ、すまない」
「あと、着替えと、当分暇そうなんで適当な漫画とエロ本、持ってきてもらえますか?」
「ああ、わかーーって私は!」
「俺の妹弟子でしょ。頼みましたよ~」
閉まるドア。激しく殴りつける音が響いた。
『暇と孤独で死ね!』
そんな、捨て台詞をのこして、スバルの姉さんはぷんすか帰っていったみたい。めでたしめでたし。
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