第5話 生きている

「おー、腫れたわねぇ」

「誰のせいだと?」

ミサキは笑って私の前をずんずん歩いていく。私は、おでこに貼ったガーゼをすこしつついてみた。ぽこりと腫れたおでこは大して傷まなかった。

頭上でカンカンと金属を鎚が叩く音が響く朝に少女の乾いた笑い声が混じる。笑い事ではないのだけれど、ミサキの悪びれなさに私はたじたじだ。ミサキにだけは手の早いアニシラがいたら、後頭部をスコーンと叩く音が聞こえただろうけれど、私にあんな真似はできない。

そこかしこで何かを解体する音が聞こえる。まるで祭りの余韻が一つの音楽になったみたいに、一体となってリズムを刻む通学路は、新しい始まりを予感させた。私は去年も同じ気持ちになっていた。そのことを知っていることが、足を弾ませた。

「ねえ、ミサキちゃん。やっぱり昨日のは気のせいだったのかな?」

気分がいいと足取りとともに口も軽くなる。

「さあ?私にはわからないわよ。シエルと私は比べ物にならないからね!」

「ええー」

「シエルは臆病すぎるのよ。人生は長いんだから、敵意一つにビクビクしてたら心臓がいくつあっても足りないわ」

「う、うん。そうかもね」

ミサキは自由気ままに跳ねている前髪をかきあげて、横に並んだ私の目を覗き込んでくる。私より身長が低いから、ミサキが目を合わせようとするとたいていこんなふうに、つきになる。この仕草がとにかく鋭い。ミサキの性格が如実に現れる仕草だ。

「わかってる?」

「はい、ごめんなさい」

自信がなくて不安だらけの私はつい謝ってしまうのでした。

「よろしい!」

ミサキは春風みたいに微笑んで私の右腕にからみついてきて、どきっとする。思わず身を引いたら更に密着されて、私は混乱した。ここはもっと密着しに行くのが礼儀なのではないだろうか。

「でね、ちょっとお願いがあるの。聞いてくれるかしら?」

「な、なに」

「教室についたら、ちょっとノートを写させてほぁ!」

パコーンと、机上の空論だった快音が夢の実現を果たす。『カンカン、トントン、パコーン!』と図ったみたいなタイミングだった。

「またですか?」

「痛いわね!」

いつの間にか、私達よりもちょっと豪華に改造された制服を着たアニシラが後ろにいた。

「おはようございますシエル。早いですね」

その手にはアニシラの髪の色によく似た金色のメガホン。今日の授業にはあれを使うようなものがあっただろうか。いや、そんな授業があるはずがない。

「アニシラさん、それ何に使うの?」

「もちろん、このお馬鹿さんの頭を叩いて治すために、昨日の帰りドンキで買ってきました。どうですか?なかなかいいでしょう」

「あ、えっと、そうであることもないかもしれないね」

別にミサキは頭が悪いわけではないと私は思う。たしかに試験があるたびに担任に呼び出されてはいる。けれどミサキは彼女を取り巻く子、仲間たちの矢面に立って立派にリーダーをしているような女の子だ。『多少の敵意におびえていたらやってられない』と本人が豪語するだけの経験を積んでいることは事実で、傲岸不遜な振る舞いも多くの学生達がそれを許している。

人呼んで『レッドクイーン』とはミサキのこと、らしい。

「はっ!私にただ無意味な喧嘩を売るために無駄金を払うなんて、本当にご苦労さま!それよりも、ねえシエル……、宿題、見せてくれるわよね?」

「え、えっと……」

友達を助けるために宿題をみせるくらい良いじゃないか、とは思う。普通の教科の宿題ならば私は別に見せても構わない。

私は甘える猫みたいにすり寄るミサキに気圧されながらアニシラを見た。もし、ミサキが特別教科のノートを見せろと言っているなら、私は彼女に脅されていることになってしまう。だから、私よりも付き合いの長いアニシラに無言の助けを求めたのだが、彼女は肩をすくめて我関せずを表明した。どうして?

私の心臓は激しく鼓動し、乾いていた肌に汗をにじませ始める。

私は今からミサキが移したがっているノートの教科を尋ねる。もしも、それが特別教科『神秘学』や『超感覚必修』であったなら、もうミサキと友達ではいられなくなってしまう。

「ねえ、ミサキちゃん。見せてほしいノートってどの教科なの?」

「え?数学。やだなぁシエル。のノート見せてほしいなんて言うはずないじゃない!」

「よかったぁ。ちょっとドキドキした……。そうだよね。私たち友達だものね」

私はホッとした。そして、次の瞬間冷水に打たれた。

「二人共、早く行こう」

私はアニシラとミサキの手を取って、先を急ぐ。昨日も感じた不快感。恨みを濃厚に含んだ視線が私を捉えた。これは気のせいではない。

昨日は住んでいるマンションのロビーに入ったら視線を感じなくなった。きっと、セキュリティの厳重な場所にはあの視線の主は入り込めないのだろう。私達が通う学園は警備が厳重で、一般人が入り込むことはない。私を付け狙うストーカーなど絶対に入れない。だから、学園の敷地に入ってしまえば、ひとまず安心できる。

二人に話すのはそれからで良いじゃないか。

「どうしたのですか、シエル?」

「怖いから、逃げなきゃ」

「またなの?」



空が見えるようになった道を駆け抜けて、私達は鋼鉄のパイプで幾何学模様を描いた頑丈そうな門をくぐり、学園の敷地に入った。

「どう、ですか?」

「うん、何も、感じなく、なったよ……ありがとう」

「なに、シエルは体が強くないから仕方ないとしてよ。相変わらずあんたは体力がないわね。そのうち豚になるわよ」

「ほお……って……おいて……ください」

「そ、じゃあ。行きましょ、シエル。アニシラを待っていたらノートを写す時間がなくなっちゃう。ささ!」

途中から一番体力のあるミサキに引きずられながら走っていた私とアニシラは、そんなにすぐには動けなかった。肺が痛い。走った距離はせいぜい一キロちょっとだというのに、ケロッとしているミサキと比べたらなんて貧弱なのだろう。

ミサキは私のことを『病弱だから仕方がない』と言ったけれど、実際はただ体力がないだけ。もやしっ子だからね、私は。

だから、襟を掴んで引きずるのは勘弁してください。

「苦しい……」

「え?なにか言った?」

「自分で、歩けるから、離して」

手を離してもらって、肺いっぱいに空気を吸い込む。花壇に植えられた天竺葵という花から青い匂いがして、すこし疲れが取れたきがした。生まれてこの方このコンクリートジャングルの街を離れたことがないせいか、私はちょっとした自然でも触れると調子が良くなる。たまに都会ぐらしは性に合わないのかもしれない、と思っても私にこの街を離れることはできないから、私はこの程度で満足だ。

ロータリーになっている正面玄関の脇を抜け、すこし奥まったところに生徒用の玄関はある。

ミサキが入って行くとロビーの端でたむろしていた見知らぬ生徒から挨拶が飛んでくる。にわかに活気づいた玄関ロビーをミサキの横を歩く私は少し小さくなりながら通り過ぎようとした。私のことを快く思っていないかつての友達だったらしい学生はまだまだいるはずだ。気まずいから、目に見えない彼らに見つからないようにしたいと思う。

「何してるの、シエル?」

「ミサキちゃんガード……」

なるべく、生徒の集団が近づいてきたらミサキを挟んで線対称になるように歩いていると、がちっと手を握られて、ミサキに縫い留められた。

「鬱陶しいから横にいてくれるかしら!私の友達なら、堂々としていなさいよ」

私が横に並んでいるのをみて、幾人かの生徒がミサキに声をかけるのを一瞬ためらったのが感じられる。やっぱり、私は大事なことを忘れたまま、透明人間にしてしまった彼らのまえに立っているのだ。一体私が何をしたのか、とは言えない。私はきっと彼らのくれた友情とか絆を毎年溝に捨ててきたのだから。

一組の恋人たちが、ミサキに手を振って体育館の方へと去っていく。振り返ったミサキがため息をついた。

「どうでもいいやつに絡まれると、ほんとにノートを写す時間がなくなっちゃうじゃない」

ムッとする。けれど言葉にはならない。

この様子では、私がミサキを盾にしているのか、ミサキが私を虫除けに使っているのか判然としないと思った。

「ミサキちゃんは本当に友達が多いね」

「なに、羨ましくなった?」

「憧れるよ、本当に」

「私みたいになろうとするのは、正直シエルにはおすすめしないわ。本気でね」

教室に入ると、休みの前に数回離しただけのまだどんな人なのかもわからない級友たちに次々と挨拶される。

「おはようございます。御崎さん。本日はお日柄ぁっ!」

中でも極めつけに改まった挨拶をミサキに述べようとしたいかにも体育会系の男の子が今、地面に額を縫い付けられていた。彼は私達の前に立つや、まるでヤクザ映画に出てくる舎弟のように九十度の敬礼をしようとして、その頭をミサキにはたき落とされてしまったのだ。軽くひび割れた床に頭蓋を突きつけたまま、腰は九十度を保って両足で突っ張り不安定な体を支えている。せっかく鍛えた体の使い方を間違えていると思った。

「邪魔よ。私の前に立って良いのは、私が認めた人だけだとこの前教えたじゃない。もう忘れたのかしら、この猿は……だとしたら救いようがないわね」

「す、すいませんでした!」

彼は跳ね起きるともう一回頭を下げて、教室から走り出ていった。あんな仕打ちを受けたのに、とても晴れやかに笑って、去っていった。私は彼の名前を知らないけれど、彼の性癖はわかった。顔がいいのにもったいなくも、彼は被虐趣味らしい。

「あれ、だれ?」

「昨日話したやつよ。さ、ノートを貸して頂戴。あんまり時間がないみたいよ」

「あ、はい。……彼の名前、なんだっけ?」

「……さあ?憶えてない」

ミサキが嘘をついているのを感じた。

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