第2話 歪んだこの世界に生まれて
この国の五月五日は子供の日で、世間様にとっては子供の成長を祈願する日らしいが、俺にとってそんなめでたい日でもなく、ちょっと仕事がしやすい日、程度の祝日だった。というのも、高層ビル群の関東圏ではビルとビルの間に張られたワイヤーロープに吊るされた鯉のぼりが隙間なく空を覆ってしまうという、特殊な空間が出来上がり、普段は警戒心の強い獲物に心理的な隙ができやすくなるのだ。なので、今日は掻き入れどきである。
俺は手帳を開いてチェックボックスに鴉を飛ばした。
自動的に獲物の顔写真に赤いバッテンがついて、クラウド上に保存された彼女に関連する情報が半永久にロックされた。
昼はお天道様の光を鯉のぼりの鱗が反射して、世間は万華鏡のようになる。古いビルの屋上では上に鯉のぼりの蓋ができるので、路地裏と変わらないほど薄暗い。地上のアーケード街などでは足りない明かりを提灯で補ったりするが、人気のない屋上にはそんな洒落た計らいはなく。でかい熱交換器のファンが轟々と排気を吐く横に、ふつうに生きていたらこの風景の中でいい絵になったかもしれないほどの美人が顔と各関節を潰されて、風車みたいな不格好で死んでいた。
これは俺がやった。別にアートとかそういう趣味趣向ではなく、仕事で仕方なくやった。俺は芸術のセンスがないのは自覚しているが、これをオーダーしたやつのセンスはいったいどうなっているのだろうか?
彼女の名前は最初にちらっと確認しただけなので思い出せないが、家族構成は釣るときに重要なので記憶している。確か、二児の母で、夫は中規模のスーパーマーケットの店長をしている。家族には自分の職業をごまかしていたらしい。どんな恨みを買えば、こんな殺され方を望まれるのか。魔術師というのは、本当に危篤な職業だと俺は思った。
実行犯に願われても何の徳もなさそうだが、せっかくの子供の日なので彼女の子供たちの幸せを祈って、俺は黙祷を捧げる。
さて、さて、一通り祈ったところで、次のお仕事が待っている。今日は掻き入れどきだ。
薄暗い屋上から、煌々と玉虫色に彩られた地上に降りてくると、景観にも負けず劣らずな陽気な喧騒が俺の耳朶を叩いた。
「いらっしゃいませー! コイ焼きはいかがですかー! あんにカスタード、ソフトソーダもあるよー! いらっしゃいませー」
ゆらゆらと人波に揺れる色セロハンの短冊のの向こうが祭りに湧く音だった。
「にいちゃんもう一回! もう一回だけ!」
少年は兄に何をねだっているのだろうか。やっぱり屋台のくじ引きだろうか。
「おかぁあさーんっ……おがぁあさーん……」
迷子の女の子が泣き叫ぶ声まで、今はよく聞こえた。喉を詰められるようなわずかな苦しさを感じる。この感覚が消えない間は、まだ人間であるとは俺の師匠の言葉だが、あの殺しの鬼の語る人道的な発言に果たして信憑性はあるのだろうか。
いろんなことから目を背けることができる程度に大人になった俺は、次の仕事先へと足を向けなければならない。働かざるもの食えずに死ぬ。若輩者でもわかる、世の常だ。
今日は掻き入れどきだ。仕事はテキパキ終わらせて、帰ってさっさとビールをつまみにビデオでも見よう。
そして、寝よう。
そうしよう。
俺は、短冊のベールを潜って人混みに紛れていく。
なんとか夕方には仕事が片付いた。
ふつうの暗殺ではないので、一つ一つを確実にこなすことに苦労するが、要は殺してしまえばそこで終わりなのがこの仕事の良いところであると俺は思う。師匠は全く正反対の考えで、何度あの人はヒットマンなんてやっているのだろうかと、怒りを覚えたこともあったな。
彼も今は南東の島国で若妻と隠居生活だ。まったくいいご身分だよな。いつか自由の身になったらからかいに行ってやろう。
俺はフラフラと、西日が燐光になって注ぐ鯉の群れの下を寝ぐらへ黙々と歩く。どこまでも続く祭りの余韻を含んだ空気と鼻の奥に染み付いた血生臭さが混ざって頭痛がして、このカクテルに酔いながら見るこの街の景色は、この目に醜く映った。
早く帰って酔いつぶれて眠りたいという欲求に、体は重たさが拍車をかける。
最後の仕事で、かなりドジを踏んでしまった。
つくづく不満に思っているのだが、俺が仕事で使っている凶器は、どんな奇跡が起きても目標にしている獲物を一発で無力化できるほどの威力がない。それを可能にする暗器は思いつく限り一つしかないし、ムカつくことに俺にはそれを扱う適正がないから使えない。ふつうの人間があの化け物を単純に無力化しようとすれば、ビルを破壊できる量の爆薬が必要で、一人を殺すのにそんな兵器をばかすか撃っていたらこの街は簡単に滅んでしまうだろう。そんな無茶をあの手この手で人一人の技量に圧縮してしまい、結果を出していたのが俺の師匠である。すごいことをしたみたいだが、一言で言うと騙しのテクニックなので全然他人に自慢できない。で、その技術を俺は血のにじむ訓練の結果十七という若さで会得したのだが、どう頑張っても殺しにしか使えないので、日常生活で全く役に立たないのであった。
しかし、一人殺すのに施設破壊兵器が必要な化け物を一日に六人だ。掻き入れどきとはいえ、張り切りすぎたかもしれない。それに普通に考えて、兵器が必要な怪獣相手に裁縫ばりを使ってだまし討ちにだまし討ちを重ねた戦いを六回も繰り返したら人間は無傷ではいられない。
今、俺の右太腿には直径五センチの貫通創ができている。応急処置は済ませてあり、それに貸与された貴重な海外製の軍用止血キットを二つも消費してしまって、それを補充する出費に頭が痛いことこの上ない。命あっての物種とか、耳にタコができるほど師匠に言われたが、生きていくのもタダじゃないのだから。
早く眠りたいので最短距離を歩いていたら、曲がった先に思わぬ障害物があった。
真っ白い頭だった。思いのほか硬かったそれに俺は鼻の下を突き上げられて天を仰ぐ。
これが天誅か。
やっぱり人殺しは良くないことなんだとこの瞬間に俺は悟った。
隠居した師匠の言っていたことは正しかったのだ。天網恢々疎にして漏らさず、道を歩けば急所をに頭突きをもらって死ぬ。
こんなところで死んでたまるかと悪魔な俺が怒鳴っていたお陰か、倒れた拍子に後頭部を強打する事だけは免れる。
「……いってぇ」
心臓が先程までとは違ったリズムで早鐘を打つ。
起き上がるとそこには跳ねまくった癖毛の白頭を抱えて蹲る少女が一人と、それを心配する赤毛を派手に巻いたつり目な少女が一人、そして、こちらを心配する善良そうな金髪美少女がいた。
全員祭りの帰りなのか、これから祭りに向かうのか、浴衣姿だった。
眩しい青春の一枚はしっかりと俺の目に焼き付く。たぶん、少女たちと俺は同い年くらい。でも、こんなにも違う。
いや、ここは美少女とバッティングしたことを逆に喜ぶべきか。でも暗殺者がそんなことで幸福になっていいのだろうか?
「お怪我はありませんか?」
俺はどっと湧いてきた汗を拭った。どこを見ればいいのかわからず視線を彷徨わせてそっぽを向き、何を言っていいのかわからずわたわた手を惑わせて、結局何も成さない。
慌てて立ち上がって貧血で立ちくらみする体をさっさと歩かせた。俺は、この機会を無かったことにしたいと心の底から思った。
心配して屈みこんでくるグラマラス浴衣美少女と他二人から、逃げるためにこの足はせかせかうごいた。
お師匠様はよくおっしゃっていました。逃げるが勝ち、だと。
「あの!」
呼び声に振り返ると頭を下げた白髪頭の少女が途切れがちに言った。
「ごめん……なさい」
「こ、こちらこそ!」
俺は逃げ帰る。だって、人に優しくされたのなんて、何年振りだろう。鬼師匠がたまに晩酌のツマミをくれるくらいしか、最近の記憶にはない。
眩しい、映画でも見ているみたいだ。思えばあの場所からドロップアウトしてから、碌に映画も見ていないじゃないか、俺。
せかせかと早歩きするしか、今の俺にはできない。
暗くなってやっと寝ぐらに帰り着いた。履き古したブーツを脱いで、流し台で水をかぶり、ありもしない血液を必死に送り出す心臓を宥めた。増血剤と大量のスポーツドリンクを摂取して、寝床に寝転がると、直ぐに眠りがやってきた。
そして、俺は久し振りに夢を見た。
「……さてどこかな」
何をしているんんだ俺は……。
まだ祭りの熱気が続く朝、俺はビルの屋上に張られたフェンスの外側に腰掛けて、自分に問うてみた。虚しいかな、答える必要もない。
仕事をサボって探しているのは、昨日の女の子三人組の一人だった。あの白髪頭には見覚えはなかったが、いま思い出して見れば懐かしい顔だった。
可愛い顔して、俺を裏切ったから悪女と言ってもいい。
俺が望みもしなかった汚れ仕事で汗と血と涙を流しているうちに次代の神さまは、青春を謳歌していて、なんだかんだ祭りで遊ぶ同級生なんか作って、きっと昨夜は腕や足を虫に刺されたくらいで愚痴を言っていたのだろう。太ももに光の五寸釘を打ち込まれた俺とは雲泥の差だ。いやいや、こんなことを気にしても一銭の得にもならないことはわかっている。でもままならないかな、頭ではわかっているのに、体が言うことをきかない。
見つけてどうする?
俺にはあいつにかける言葉なんてない。だから、さっさと仕事を片付けて、スバルの姉さんの覚えをよくした方が身のためだろう?
「……見つけた」
昨日出会った三人組が昨日と全く同じ道を、三人ともまた浴衣を着て歩いていた。なぜか目を凝らして見える浴衣の柄まで記憶しているものと一緒だった。
あの真ん中を歩いている白髪頭の小柄なやつが、俺の仇だ。あのたったひと蹴りでへし折れて死にそうな少女に三千メートルを超えるあの塔の屋上から突き落とされた。間違いないよな。
なぜそうなったのか、今の俺には知るすべがない。自分で言うのもなんだが、俺がまだ自慰の仕方も知らない子供で、次代の候補だった頃は、好奇心旺盛で優秀な子供だった。あいつは、俺の後ろをちょこまかと付いてくるRPGのパーティメンバーみたいな頼りないやつだった。俺の記憶に間違いがなければ、塔の中を探検しても、テストの点数でも、枢機卿達からの評判でも、あのシエルに負けたことなんか一度もなかった。
でも、落とされたのは俺の方だった。
不思議だ。
目下の光景も同じくらい不思議だ。
なぜ、次代として選ばれたシエルが、ふつうに街中を歩いているのか。ちっとも理由が推察できない。
だから、熱を出し始めた右足を叩いて活を入れる。俺は、となりのビルへと飛んだ。着地点より高い場所にこの足で移動するのは危ないので、どんどんと下っていく。ビルのヘリに捕まり、露出した通気ダクトを蹴って、雨水を流す鉄パイプを滑りおり、鯉のぼりを吊るしているワイヤーをバネにして速度を殺す。
下に行くと全く人目がないわけではないので、なるべく裏へ裏へとビルを回り込み、俺は錆びたダストボックスの蓋の上に着地。
着地音が派手になって猫が逃げ出していく。
「悪いね」
美少女三人をストーキングすると思うとなんだか犯罪者になった気分だ。
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