フランデレン攻防戦:興隆する新星たち

 ギルベルトは息を呑んだ。

 動き出そうとするもときすでに遅し。此処から動き出したところでもはや間に合わない。それほどまでに敵軍はあっさりと本陣にたどり着いていたのだ。音もなく、そして何よりも速く、黒き一団は本陣を強襲した。

「ギルベルト様! どうなさいますか!?」

 此処は迷いどころである。本陣が落ちるのは確定事項だとしても、今から全力で向かえば本陣を襲う一団と交戦することも可能。その上で謎の敵将を討ち取り、何とか痛みわけの形に持ち込めればこの状況では充分。

(だが、それほどの奴が俺がこの期に及んで動かないと思うか? もしこのまま此処を空けて、この場まで攻め入られたら完全に詰み。動くか、動かぬか)

 ギルベルトは短い間での決断を迫られていた。時間はない。行くか、留まるか、二つに一つ。ギルベルトが下す決断は如何に――


     ○


「ぐっ!? まさか本陣が!?」

 グレゴールは打ち合いの最中、本陣がある方向から狼煙が上がったのを目撃した。

「オォィ! 余所見してんじゃねーよ!」

 軽くぐにゃりとしなる矛。そして増すミートポイントでの破壊力。ニーカの戦い方は軽くしなやかに、女性の利点を十全に生かした戦い方。単純な力では男に勝てない。なれば工夫を凝らそう。その結果編み出された戦い方がこれである。

「チィ!?」

 グレゴールの大剣は受けることしか出来ない。超速の連続攻撃。そして変幻自在にうねるニーカの矛。受けているグレゴールも凄いのだ。男ばかりの戦場でこの矛の軌跡を見ることはない。初見でニーカの連続攻撃を捌き切った男は少ない。

「オラオラオラオラァ! この程度かよ木偶の坊!」

 背後に迫る敵軍の姿を肌で感じながら、グレゴールの部隊は横滑りに動く。縦は完全にニーカの部隊によって切られており、動ける方向が其処しかないのだ。

「くそっ! こいつら強い!」

 ただの一兵卒ではない。対峙している黒い者達はみな曲者。グレゴールが率いるトゥンダー家直属の部隊員たちでも良くて互角の争い。

「抜かせねえ。後ろの連中が全滅したらすぐさま挟んでぺちゃんこだァ」

 背後で敗走していた者たちが蹂躙されていく。グレゴールにはどうすることも出来ない。それ以前にこの窮地から脱する手すら考え付かないでいた。

「どうしても抜けんか!」

 ギリギリで敵の攻撃を捌きながら、どうにかこの状況を脱する手を模索する。

「無理だぜ。ヴォルフの作戦が外れたことはねえ。テメエらは全滅だァ」

 グレゴールはあまり思慮深いほうではない。このような実戦の中で思考していること自体、あまり良い状況ではなく、結果――

「なっ!?」

「ほーれ。死ぬ覚悟は出来たかよ?」

 死角にあった木に進行方向を阻まれて、大剣を振るうスペースもなくなった。一瞬のことである。ただの一瞬。しかしそれが致命。

「その首もらったァァア!」

 グレゴールは完全なる窮地。絶体絶命。

「く、首は嫌だ!」

 グレゴールはあまり賢くない。しかしニーカは――

「あ!?」

 もっと馬鹿であった。腹でも足でも腕でも、どの部位でも斬ればニーカの勝利はほぼ確実になっていた。だがニーカは馬鹿である。宣言どおり首を狙いに行った。そしてグレゴールはそれを真に受けて全力でしゃがんだ。すると――

「あーーーーーーーー!」

 髪の毛はごっそり持っていかれてしまったが、グレゴールは矛の一撃を回避することが出来たのだ。そして矛の軌道はそのまま木を半分ほど断ち切り、完全に停止。

「ふ、ひい。い、いぎてる」

 鼻水をたらすグレゴール。大量の汗を流すニーカ。

 矛が、抜けない。

「グレゴール様!」

 部下の言葉で正気を取り戻したグレゴールはそのまま鼻水を拭かずに突貫。それを見たニーカは全力で矛から手を放しバックステップ、距離をとった。

 当然グレゴールは追撃。間は与えない。

「逆にその首もらったァ!」

 グレゴール歓喜の瞬間。勝利よ我が手に――

「ちぇ。矛の練習中だってのに……しゃーねえ」

 ニーカは腰に差してある短めの細いロングソードとさらに短く細いマインゴーシュを手に取った。そのまま左手一本のマインゴーシュでグレゴールの大剣の一撃をいなす。

「な、にい!?」

 その動きは練達者そのもの。ニーカは哂う。

「今後馬に乗って戦うことも増えるからな。長柄の練習してたんだよバーカ。ゆっとくけど俺はこっちが本職だからな。にとーりゅうって奴よ。わかるぅ?」

 グレゴールは顔面蒼白。だがニーカも内心では――

(……でもこれ攻める用じゃないんだよなあ。どっちかってーと護身術だし)

 ニーカは受け待ち。グレゴールは警戒して動かない。戦場は活気に溢れているのに、この場だけが物凄く静まり返っていた。なんという塩試合。時ばかりが過ぎていく。

(……な、何故攻めてこない!? に、逃げてもいいのか?)

(はよ攻めてこいやカス。カウンターで一発首チョンパだぜ)

 しんと静まり返る戦場。

(ど、どうしよう?)

(はよこいや木偶の坊!)

 露骨にイライラするニーカを横目に部下たちは――

(まあ足止めが目的だしこれでいっか)

 と、考え放置していた。


     ○


 アンゼルムは本陣に異変が起きるや否や、無理にでもフォローに向かおうとした。現状かなり苦戦していたが、本陣を守るのが先決と考えたからである。

「そうはさせませんよ」

 しかし阻むは『黒の傭兵団』。防ぐは謎の優男。

「……速いな」

 アンゼルムの百人隊はかなり精鋭揃い。騎士位をこの若さで持っているアンゼルムの強さは彼らにこそある。十代から戦場に出て、中心メンバーはその時からの古参が多い。実戦が彼らを鍛えた。アンゼルムもまた磨かれている。

 だがそれでも速力は圧倒されてしまう。抜き切れないどころか何度も包囲されかけている。

「貴方がた貴族が片手間に兵隊をやっているのとはわけが違う。私たちはスペシャリストでありプロフェッショナルなのですよ」

 だから抜かせない。いくら経験値が高いといっても、所詮それは貴族の中での話。傭兵という戦場を生業としているものたちに比べれば、確かに経験の量的な部分では劣ることもあろう。

「貴族の片手間か……そうかもしれないな」

 アンゼルムは背後の部下たちに手信号を送る。もちろん敵には見えない形で。

「真の英雄は貴族ではなく市井から生まれるのかもしれない。なれば私は影で構わない。光を支え、光のために我が剣を振るう。それが私の生きる意味」

 膨れ上がるアンゼルムの中身。それを見て男は眉をひそめた。

(アンゼルム・フォン・クルーガー。堅実で隙のない男と聞いていたが……本当に目の前の男は同一人物か? これではまるで――)

 一瞬の思考。しかしそこで先んじられてしまう。それもまた戦場である。

「抜かせてもらう!」

 電光石火の早業。一気呵成。アンゼルムを先頭に騎士たちが突貫した。

 速さは充分。敵の虚をついたはず。

「地の利を捨ててまで本陣の救援にこだわるか。忠義ですね。しかし――」

 勢いのついたアンゼルムと精鋭たち。アンゼルムからこぼれるのは黒い炎。それがドロドロとアンゼルム、そして配下の者たちにもまとわりつき、狂ったような勢いを増す。当たれば吹き散る。そんな錯覚を覚えるほど、アンゼルムの雰囲気は常軌を逸していた。

「――悪手です」

 しかし、アンゼルムにとってこの敵は――相手が悪過ぎた。

 男の五体から黒の外見に似合わない、プラチナの輝きが溢れる。それは王の輝き。決して傭兵風情がまとっていい雰囲気ではなかった。

 黒き炎を纏うアンゼルムと白金の輝きに包まれる男。勢いではアンゼルムが勝っていた。そもそも男は動いてすらいない。体格でもまたアンゼルムが勝っている。負ける理由がない。劣っている部分がない。

 初太刀。暗くドロドロとした汚泥のような炎の雰囲気を持つ斬撃。男は悠々とそれを受け止める。アンゼルムが驚きに目を見張るほど、あっさりと勢いの乗った一撃は防がれた。

「くそ!」

 連撃に次ぐ連撃。道をこじ開けようとするアンゼルムの意地。しかしそれらも容易く防がれてしまう。まるでその様は稽古のような光景。

 アンゼルムの勢いが大きく減衰する。それと同時に黒い炎もまた勢力を弱めた。

「一か八か……こういう考えは失敗の元ですよ」

 プラチナの輝きを持つ優男はアンゼルムを完全に封殺してのける。先ほどまで己が能力を隠していた男。これほどの傑物が何故傭兵などに――

 男の光が増す。アンゼルムは目を奪われた。その光に浮かぶもの、王たる証、獅子の御姿に。

「サー・アンゼルム!?」

 輝きに目を奪われ棒立ちになっていたアンゼルム。そこに男が剣を打ち込む。女のような細腕、華奢な身体から繰り出される剣技。

「っお!?」

 それは速く、強く、美しかった。

 アンゼルムはギリギリ剣で受けたが、大きく後ろへ弾き飛ばされ、部下たちに突っ込んでしまう。

「今のを受けますか……やはり出来る。アルカディアは層が厚い」

 男はあえてアンゼルムに追撃をかけない。先ほどから幾度かその兆候は見られた。しかし今回の件ではっきりする。この男は勝利を狙っていない。

「……時間稼ぎのつもりか?」

 アンゼルムの言葉に男はにっこりと微笑む。

「ええ。今日は私たちのボスの舞台です。部下である私がそれに水を差すわけにもいかないでしょう? 私の任務は貴方の立つ場所を奪い陣とすること。じっくり時間をかけて、最小限の犠牲とリスクで貴方を倒します」

 本日中はアンゼルムの相手だと宣言した。最後には勝って場所を取るが、一日じっくりかけて奪うのだと。ボスより目立たぬように。しかしこの男、本当に人の下につくような男なのか。それほど先ほど魅せた雰囲気は秀でていた。

「抜くのは無理だ。守備を固める」

 アンゼルムは抜くことを諦め、守備に徹することを選択する。攻めれば、やられる。それを理解してしまった。

「貴様、何者だ?」

 アンゼルムが退き際に男に問う。

「ただの傭兵ですよ。ただの、ね」

 ただの傭兵と己を称する男は、アルカディアでも有数の名家であるクルーガー家の嫡男を相手取り、ほぼ全てにおいて優勢に事を運んでいる。アンゼルムの百人隊が男を抜くことは不可能に近い。地の利があったとしても抑えることで精一杯だろう。

(……申し訳ございません)

 アンゼルム百人隊は山の上方で完全に封殺されていた。


     ○


「何が、起きているんだ?」

 年若い軍団長。エリート街道をひた走ってきた。その戦績に負けらしい負けはなく、また軍の上層部も大事に育てようときちんと精査して戦場に送り込んだ。温室育ちとはいえそこそこの場数は踏んでいる。だからこそ――

「わけがわからない」

 この状況を理解することが出来なかったのだ。

「うっひょおお。なかなか良い守備じゃん。悪くねえ、悪くねえよアンタ」

 そう言う男はまるで旋風のように戦場を縦横無尽に駆け回る。その顔には自信満々の笑み、負ける事など考えてすらいない。事実本陣は食い荒らされていた。突如襲来した黒き狼たちによって。

「俺様の名は『黒狼』のヴォルフ。そしてこいつらは『|黒の傭兵団(ノワール・ガルー)』。胸に刻んどけ、俺が、俺たちが、お前たちを喰らい尽くす!」

 凄絶に、鮮烈に、戦場に輝きを放つ男。黒き狼を束ねる男。『黒狼』のヴォルフ。

「ふざ、けるな!」

 年若い軍団長にも意地がある。数では勝る自陣を小勢にて落とされかけているのだ。そんなこと、誇りにかけて認められるはずもない。

「ほーう。まずまずのオーラだ。やっぱ持ってる人間は違うねえ」

 雰囲気が跳ね上がる。軍団長の突貫。配下の兵たちはその姿を見て奮い立つ。軍団長の士気が跳ね上がり、兵たちの士気もうなぎ上り。将としてお手本のような男。

「でも――」

 その男、お手本には程遠い。戦い方、戦術は我流。教科書通りに振舞うことなど出来ない。凡夫の世話など真っ平ごめん。将として欠陥に満ち満ちていた。だが唯一つ、唯一つその男が誰よりも秀でている部分がある。

「ウォォォォォオ!」

 それは生命力(バイタリティ)。誰よりも必死に世界を生き抜く力を持っていた。だから強い。だから賢い。だから生み出せる。力も、知識も、人の後に生まれたものなのだから。

「俺の方が、遥かに持っている!」

 軍団長の剣が、その男のかもし出す雰囲気が、その男の身体ごと、一瞬にて叩き切られた。それも二筋の軌跡にて。黒き狼の爪牙が全てを断ち切った。

「おっと名前を聞くの忘れてたな。……まーいいか。どーせすぐ忘れるし」

 黒き狼の犬歯は二本存在する。それはそのままヴォルフの剣、双剣という選択に現れていた。不条理極まりないその剣術もまた、我流ゆえ。

「じゃーな名も知れぬ凡人よ」

 ヴォルフは人に学ばない。何故ならば己こそが一番秀でていると確信しているから。

 ヴォルフは人に頼らない。何故ならば己こそが一番秀でていると確信しているから。

 ヴォルフは人を認めない。何故ならば己こそが一番秀でていると確信しているから。

「これで一気に勝勢。このまま勝ちまで一直線……ってわけにもいかねえのか」

 流れは支配した。だが存外粘る。ニーカが失敗するのは想定内だが、もう一人が此処まで粘られるのは珍しい。そして何よりも――

「アナトール相手に優勢決め込むとは……やるねえ白仮面」

 本来ヴォルフは己があの場にいるつもりであった。軍団長クラスたるアナトールを動かす気などなかったのだ。アナトール自身が己も出るというまでは、ウィリアムの描いた絵図と同じ絵図を描いていた。

「持ち駒の数が勝敗を分けた。悪く思うなよ」

 ウィリアムが動かねばアナトールが必勝の矢になる。動いたとしてもヴォルフが二の矢として敵を射抜く。もはやどうしようもない。現場レベルではどう動いたとしても詰み。それは持ち駒の差であり、ヴォルフという存在を知っていたか否か、ウィリアムという存在を知っていたか否か、それだけである。その差がこの状況を生んだ。

「んでんで……もう一人もいい動きしてんね」

 ヴォルフが目をつけていたもう一人。正直動き出すとは思っていなかった。動かずとも効果的なのだ。普通なら動かない。優秀ならなおさら動かない。そういう状況。

「ふは。おんもしれーわ」

 しかし超優秀ならば、こう動く。


     ○


 グレゴールは焦っていた。周囲を塞ぐは優秀な黒の傭兵たち。背後に迫るは青い軍勢。そして目の前には少し馬鹿だが厄介な敵、黒の傭兵団副団長ニーカ。少数である黒の傭兵団だけに全滅させられることはないが、かといって抜けるわけでもない。そして迫る背後の軍勢がタイムリミットを刻む。

「ちぇ。俺が殺してやろうと思ってたのに……終わりだなおい」

 騒がしくなる背後。軍勢の音が聞こえる。もはやこれまでとグレゴールは目を瞑った。

「……これ見てねーんなら首斬ってもいいのかな?」

 間抜けなことを言うニーカ。グレゴールにそれを突っ込む気力は残っていない。

「にしてもうるせーな。ガタガタうるせーぞオラァ!」

 味方であるはずのネーデルクス側に罵声を浴びせるニーカはやはり馬鹿である。しかし確かに煩いのだ。騒がしい。騒がし過ぎる。

「ニーカ。少し変だ。そもそも……何故馬蹄の音がする?」

「馬蹄……そりゃお前戦場だからに決まってんじゃん」

「……山で馬が使えないから今俺たち徒歩なんじゃねーか」

 ニーカはなるほど、と手を打つ。

「じゃあ聞き間違いだろ。馬がいねーのに馬の足音がするわけね――」

 ニーカは言葉の途中で押し黙りただ一点を注視する。ニーカの持つ野生的な勘が告げる。

「……やべえ。逃げるぞ!」

 仕留めかけていたグレゴールなど脇目も振らず走り出すニーカ。それに一切の疑問を挟まずに追随する部下たち。ほんのタッチの差で青い軍勢がグレゴールのそばにやってきた。

「何が、起きている?」

 グレゴールの眼前に現れた一団は、まるでボロ雑巾のような姿になっていた。先ほどまで綺麗な青であった服装は、泥だらけであり穴だらけ。見るに耐えない光景。

「い、嫌だ。俺は、死にたくな――」

 大きな影がボロボロの一団を跳ね除ける。それは騎馬であった。前脚に踏み潰される者、後ろ脚で蹴飛ばされる者、抗うことも出来ず人が蹂躙されていく。人と馬では文字通り馬力が違う。生き物としての基本スペックに大きな開きがあるのだ。それが迫れば人は逃げるしかない。ましてや筋骨隆々の軍馬。対峙しただけで萎縮してしまうだろう。

「騎兵? そんなバカな。此処は山だぞ。なだらかな部分はあるが、それだってよほど腕に自信がなければ戦場を駆けることなど出来はしない」

 グレゴールの部下が驚きの声を上げる。撤退して姿をくらませたニーカたち。狂奔する青き軍勢。それらを見て窮地を脱したと察したのかグレゴールはどかりと地に座り込む。

「自信があるんだよ。あの男にはな」

 グレゴールはぶすっとしながら髪をかきむしる。軍学校で自分が勝てなかった三人のうちの一人。その中で最優と呼ばれた男。

「何をしているグレゴール。さっさと体勢を立て直して本陣から敵陣への道に蓋をしろ。あの下賎な闖入者を生かして帰すな」

 ギルベルト・フォン・オスヴァルト。公爵家の次男坊にして、アルカディア軍の若手で最優と呼ばれる逸材である。兵法にも通じているが、やはり真骨頂は武。騎乗スキルであったり、剣技であったり、槍や弓にも通じている。それら全てが超一流。剣技は頭二つほど抜けているが――

 今回彼の見せ場はこの馬術であった。

「お前も貴族だろう? 意地の一つ程度見せてみろ」

 グレゴールは顔を歪める。ギルベルトはいつもこうなのだ。彼は貴族に優を求める。優れたるものこそ貴族である。彼はそれを実践しているし、それを他の貴族にも求める。それを当たり前のようにこなし、それを押し付けてくる彼が、グレゴールは嫌いであった。

「お前たちも俺に遅れるな。先ほどから幾分手綱捌きが甘い」

「ハッ! 申し訳ございませんギルベルト様!」

「謝罪はいらぬ。挽回は武で示せ」

「ハッ!」

 ギルベルトの直近の部下。これはオスヴァルト家お抱えの武人たちであった。本来なら一軍を抱えていてもおかしくないほどの腕、経験を積んでいる。その上で彼らはギルベルトの配下たる道を選んでいた。

「征くぞ」

 ただ一言。その一言でその場の雰囲気が変わる。

 ギルベルトの纏い持つ雰囲気は鋭く美しき名剣のそれ。それは敵も味方も自分すらも切り裂く自律の精神が生み出した真なる『貴族』の姿。その心象風景。

「御意!」

 彼らはそれに心を奪われた。実力者でありながら、未だ若く経験も浅いギルベルトに付き従うのは、彼の魅力に惹かれたからに他ならない。

 ギルベルトは迷いなく馬を走らせる。そこが山であることを忘れてしまいそうな完璧なる手綱捌き。一挙手一投足に華がある。

(まずはアンゼルムのところだな。あそこを落とされると戦術的に詰みかねない)

 道なき道を騎馬で駆ける最優たるギルベルト。それを必死で追う部下たち。一瞬でその場から去っていく。

 残されたグレゴールはぶすっとしながらも言われたとおりに動き始める。グレゴールとてわかっているのだ。どれだけ好きになれない相手でも、ギルベルトの言葉こそ金言であることを。

「だが好かん!」

 命を救われたことなどすっかり忘れ、光り輝くギルベルトの姿に嫉妬の念を覚えるグレゴール。しかしそれも仕方がない。彼ら同期の者たちが一番ギルベルトの優れたる姿を見せ付けられてきたのだ。嫉妬も諦観に変わるほどに――


     ○


「ん、だよ! 何であんな奴が……しかも騎馬なんてずりいじゃん!」

 直感で優勢の状況を投げ打ち逃げに徹したニーカ。結果は大正解。それゆえに歯がゆい。

「やべーな。あいつ、ヴォルフやユーウェインクラスじゃ?」

 ぽろりと弱音を吐いた部下を睨みつけるニーカ。部下は顔を伏せる。

「とにかく退こうぜニーカ。あんたが討たれたら俺たちがヴォルフに殺されちまう」

「……俺をあいつの女扱いすんな」

「ニーカの実力は充分理解している。あの二人に並ぶためにも努力してることだって知ってる。俺たちはアンタの部下だからな。だけど、さすがにあんな相手にうろつかれたら自由に動けねえよ。ばったり会ったが最後、まとめて殺されちまうからな」

 ニーカは顔を歪めながらも反論はしない。勝てないことくらいニーカも理解しているのだ。それでも、このような特別扱いはやはり辛い。普通の女の子を捨てたつもりでも、周りは捨てさせてくれない。それが悔しい。

「あいつの相手はヴォルフやユーウェインに任せとこう。もしかしたらアナトールのおっさんが殺してくれるかもしれねーしさ。今俺たちが出来ることはねーよ。体勢を立て直したあの木偶の坊だって少数の俺たちがどうこう出来る相手じゃねーさ」

 ニーカは不服げだが頷いた。不貞腐れている表情は見せないように視線は合わせない。

 いったん退くニーカたち。完全に傾いていた戦場が、少しずつ平衡を取り戻し始める。


     ○


「まずいな。彼は動かないであろうと読んでいたのですが」

 アンゼルムの百人隊と対峙する男は、守勢を貫くアンゼルムの徹底した守備を見た。隙の少ないそれをゆっくり日没までに崩す。楽しみにしていたことであったが、今となってはその余裕が命取り。

「……さすがはアルカディアが誇る剣の一族。『剣聖』、ジークフリート・フォン・オスヴァルトの血を受け継いでいるだけはある。歴代でも秀でた才能を持つという噂は真だったということですか」

 背後に迫るこの戦場では聞こえないはずの馬蹄。そして此処からでも感じ取れる他を隔絶した雰囲気はさすがの一言。前にアンゼルムをおいた状態で挟まれるのは男にとっても致命。選択肢はひとつである。

「参ったな。これはしばらく話のネタにされそうですね」

 自らの油断と慢心が招いた任務失敗。陣を取りきるには猶予が足りない。わざと勝敗を長引かせた男の不手際。楽しもうとした男の過失。

「とはいえ意地を張って退かないのは愚者。此処は退かせてもらいます」

 男はあっさりと部下たちに撤退のサインを送る。誰一人反論することもなく動き始める黒の一団。男の下した決断に意を挟む者等いない。

「追ってくるなら覚悟は必要ですよ」

 撤退の雰囲気を感じ取ったのか、アンゼルムが追撃の構えを見せていた。それを一瞥もせず言葉だけで牽制する。不意をついたつもりであったが、そのような隙など毛ほどもないのだろう。そのことをアンゼルムは悟った。

「一つ聞かせてくれ。貴殿の名は何と言う?」

 先ほど言わぬといったことを今一度問うアンゼルム。男は振り返り一瞬考え込む。

「……アンゼルム・フォン・クルーガー、貴方の奮闘に免じて名を名乗るとしましょう。私の名はユーウェイン。『黒の傭兵団』副団長のユーウェインです。それではまた戦場のどこかで会いましょう。その時は手を抜きませんのでご容赦ください」

 颯爽と去っていく『黒の傭兵団』のユーウェイン。団の中ではナンバースリーの立場だが実力だけならヴォルフと肩を並べる実力者。そして――

「ユーウェイン? ま、まさか!?」

 黒の似合わぬ白金の男。彼の存在が『黒の傭兵団』の躍進を支えている。それだけの力を持つ男であった。


     ○


「やっべえ。ユーウェインのやつまで諦めやがった!」

 ヴォルフは青ざめながら必死に下山していた。本陣は取ったが、少数では維持することは不可能。もったいないが軍団長の首だけで充分と捨てた。

「さーて、お坊ちゃまのギルベルトに遭遇しない、かつ抜けきれるルートで脱出しねえとな」

 此処にきてグレゴールが敗走した兵をまとめ、上手く展開させているのが痛手となる。ギルベルトの獅子奮迅とも呼べる奮闘は他軍の余裕をも取り戻させた。ある程度押し込んだ分、逆に戦場がコンパクトにまとまり、隙が少なくなったのだ。

「……にしてもちょっぴり冷たくねえかよ」

 もちろんこの状況で退かない無能は部下にいらない。ニーカやユーウェインは部下も含めてしっかり状況を把握している。だからこそヴォルフも自分のことだけ考えていられるのだ。どう逃げるか、それだけを。それでもちょっぴりさびしいのが男心であった。

「ギルベルトのお坊ちゃまは騎馬十騎ほどで無双して、他の連中は要の場所をしっかり防衛。なるほど、優秀な部下をお持ちで羨ましい限りだぜ」

 ギルベルトは馬に乗れる優秀な部下十人とその他で隊を分けた。ないと言い切れない作戦であったが、博打は打たない、打てないとヴォルフは思っていたのだ。結果、勝勢が優勢に引き戻された。上手い手である。今度はネーデルクス側が間延びした戦線を、突出した部分だけ丁寧に叩いていく。戦場を俯瞰できなければこんな芸当は出来ない。それが出来るのは一流の証。

「んま、とーぜん俺よりは大したことねーけど、な!」

 あくまで最優は己であると疑わないヴォルフ。山岳を駆け下りていく。これは敗走ではなく後退であり、明日勝つために必要な作戦。もちろん負けではない。むしろトップの首を取った以上、もしかすれば明日はない可能性もある。

「おいヴォルフ。ちょっと急ぎ過ぎじゃないか?」

 一応ヴォルフが選んだ精鋭だけあってしっかりついてきているが、ヴォルフの足はいつも以上に速い。部下に疑問も生まれるというものである。

「いやー。ちーっとばかし嫌な予感ってか見逃しってか……急げって俺の感覚が言ってるんだわ。こーゆうの、俺が外したことあったか?」

 部下たちは首を横に振る。ヴォルフのこう言った勘は外れない。ならば何か――

 ひゅん。ヴォルフの横を何かが通り抜け、背後の部下に突き立つ。

「おいおいマジ、かよ」

 倒れこむ部下を一瞥もせず、ヴォルフの視線はその放物線の先、そこに釘付けとなっていた。木の上に立ち、弓を構える男の名は――

「白仮面、ウィリアム・リウィウス!」

 ウィリアム・リウィウス。血まみれ傷だらけになりながらも、ヴォルフを詰ませる為にこの場に急行していた。アナトールをどうしたのか、それについて考え込みそうになる自分をヴォルフは必死に押さえつけていた。どうやって抜けてきたのか、そんなことはどうでもいいのだ。問題は、

「犬畜生以下の傭兵風情が、よくも俺の顔に泥を塗ってくれたなァ!」

 木から降り立ち剣を構える血濡れの怪物をどう仕留めるか、それだけである。

「ハッ! おんもしれーなやっぱ。戦場ってのはこうでなくっちゃ!」

 ヴォルフもまた二振りの剣を引き抜く。駆け下りるもの、駆け上るもの、白と黒、黒と白が激突する。

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