085 悪魔4-4


 それは古い礼拝堂だった。


 立ち並ぶ長椅子。その先には牧師が祈りを捧げるための台。上には天窓があったが、それは割れている。そして主の偶像が置かれるべきところには、何もない。


 ここはどこかしら、と花園は思った。


「異界だと」


 いつの間にか近くにいたヨシカゲが呟く。


「その通りだ……イースターエッグよ」


 聞いたことのない声だった。


「誰だ」


 ヨシカゲも知らないのだろう。


 一番前の長椅子に、男が座っていた。


「ふむ、お前が退魔師か。ヘルマントトスが興奮して我輩に献上しようとするのも分かる。偉大な魂よの」


 立ちあがった男の背格好はヘルマントトスとよく似ていた。違うのは黒いマントをつけていないこと。そして髪を全て後ろに撫で付けていること。手に白い手袋をつけていること。そして虚無を見つめるような赤い瞳。


「ああ、まさかあんたが来るとね……」


 リサに抱きかかえられたフランが、絞り出すような声で言う。


「フラン・アイシャーヌか。会うのは半世紀ぶりか、息災であったか?」


「見ての通りさ、悪魔め。今もあんたの子分を一人、倒したところさ」


「そうそう、ヘルマントトスだな。九世紀あまりの間、我輩の手足としてよく働いてくれた。きっと今頃、素晴らしい地獄で業火に焼かれているだろうな」


 新たに現れた悪魔はじっとヨシカゲを見つめる。


「麻倉ヨシカゲよ、素晴らしい魂を持っているな。これほどの魂そうはお目にかかれない。吾輩も十世紀程前に一度見た限りだ。かのファウスト博士にも匹敵する美しい魂よ」


「ファウストだと――?」


「ふむ、フラン・アイシャーヌよ言っていないのか? では業腹だが吾輩自ら名乗るとしよう。なに、これも強大な存在の礎を築いた者の定め。心してきくが良い、退魔師。我が名はメフィストフェレス。かつて神とも取引をした大悪魔、メフィストである。その存在は幾星霜の時を経てもお前たち人間の心に刻まれ、強大な認識を得た者。闇を愛すものである」


 メフィストフェレス。


 ゲーテの『ファウスト』にも書かれた悪魔である。もちろん花園もその名は知っている。古今、あらゆる絵画、小説、昨今では映画やアニメなどでもその名を見ることがある。


「知らんな」


 ヨシカゲはそう言って、刀を抜いた。


「我輩の前で下らん嘘を――つくな」


 メフィストが手をあげ、それをただ降ろす。それだけでヨシカゲは重力に押しつぶされたかのようにその場で地面に叩きつけられた。


「ここは吾輩の異界。何人たりとも我輩には勝てぬ。さて、イースターエッグ共よ。願いはあるか? 今ならばその魂と引き換えにこの我輩が直々に叶えてやろう。言うまでもなくこれは光栄な事だぞ」


 ヨシカゲが重力に逆らい、立ち上がる。


 メフィストは「ほう」と感心したように目を細めた。


「お前たちに叶えてもらう願いなど、ない!」


 ヨシカゲが退魔刀を投げつける。


 退魔刀は車輪のように高速で周りながら、メフィストに突き刺さった。


 これで終わりだ、勝った。花園はそう感じた。


 だが違った。


 メフィストは小さく笑っていた。


「この刀で吾輩は倒せぬよ。なに簡単な事だ。この退魔刀が人々の願いを集めたものならば、吾輩もまたそうだからだ。さあ、願いを言え。イースターエッグにのみ許された魂の咆哮ほうこう。願いの発露を! それを我輩があの気まぐれな神に代わり聞き届けよう!」


 メフィストはリサとフランを交互に見る。花園はまるで眼中にないようだ。


「妾の願いは唯一つ、お主ら悪魔の全滅じゃ」


「ふむ……老いたな、フラン・アイシャーヌよ。かつてのお前ならばそこの麻倉ヨシカゲと同じ事を言っただろうに」


「私もありません」


「ふむ、イースターエッグのお嬢さん。残念だ。そなたの魂は美しい形をしている。できれば手元に置いておきたかったのだがな。まあ良い。今回はそこの女のつまらない魂だけを頂いていくとしよう」


 そこでメフィストは初めて花園の存在を見た。


「待て!」


「なんだ、麻倉ヨシカゲよ」


「悪魔は契約者に破れた時、その対価を払わずに済むのではないのか」


「その通りだ。それはあの忌々しい神が定めし絶対の法則」


「ならば――」


「しかしそれは悪魔を倒した契約者に限る。この場合、ヘルマントトスとの契約を解消できたのは麻倉ヨシカゲ、お前一人だ。そちらの女にはなんの関係もないことだ」


 愕然とする花園。いいや、花園だけではない。この場にいた人間全員が、その非情な現実に打ちのめされていた。


 しかしそんな中、ヨシカゲだけは前に進んだ。


「ならばお前も倒すのみ」


「やめるのじゃ、退魔師! 先程の話を聞いただろう勝てるわけがない」


「ふ、だから老いたというのだ、フラン・アイシャーヌ。だが言う通りでもある。お前に吾輩は倒せぬよ」


 もうダメだった。これ以上はどうしようもない。


 花園は諦めていた。


 そんな彼女に、ヨシカゲは振り返った。


「安心しろ、俺は退魔師だ。約束通りお前の事を守る」


「ほう、どうやって?」


 興味深そうにメフィストが尋ねる。


「そうだなあ、こういうのはどうだ。俺が、あんたと契約する。契約の願いは花園ミナの契約の破棄。これでどうだ」


 さしもの大悪魔メフィストも驚いた表情をみせた。そして、薄く笑った。


「素晴らしい……確かにそれがこの状況を解決するたった一つの方法だろうな。よろしい! 麻倉ヨシカゲ、君の願いを叶えよう!」


 メフィストが指をパチンと鳴らす。


 これで終わりだろうか、と花園は思う。何も変わったような気がしない。だが、これで全て解決したのだ。ヨシカゲの魂を犠牲にして。


「さあ君の願いを承り、今まさに成就された! その対価として、君の魂はその死後、未来永劫我輩のものだ! ああ、楽しみだなあ。お前にはファウスト博士が味わった倍の幸福と、想像もできぬほどの不幸を交互に味あわせてやるぞ。そうすればその魂にも素晴らしい扉が出現するだろうな。ああ、楽しみだ。いいか、麻倉ヨシカゲ! お前は、いつか、必ず死ぬ。メメント・モリだ」


 メフィストは大手を振って喜ぶ。


「ではさらばだ、イースターエッグ共よ!」


 メフィストは甲高い笑いをあげた。


 そしてまるで世界が崩れ去るように、四人は屋敷のエントランスホールに戻っていた。


 全てが終わったのだ、花園はそう思った。


 ヨシカゲが花園の肩に手を乗せる。


「良かったな」



 そして彼が――笑った。



 え? と、花園は思う。


 まあ、とリサが口元に手を当てた。


「珍しいんですよ」と、リサが真面目に言う。


 本当に珍しい事だ。


 少なくとも、花園はヨシカゲの笑顔なんて初めて見たのだから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る