悪魔

059 悪魔 ~プロローグ~


 脚の長い燭台の上で蝋燭の炎が揺れている。暗い地下室。そこには太った若い男。まだ16歳、高校生。今まで彼女ができたことは無いし、おそらくこれからも無いだろう。


 男は自分の手の平にペティナイフを押し当てた。


「ッ!」


 浮かび出た血は流れることもせず、手の上でぷっくりとした泡のようになった。男は慌てて手を振り、少量の血は床に飛んだ。


 見よ、床には幾何学の模様が描かれている。しかしその模様の廻りには到底フリーハンドでは描けぬ完璧な円が。知識のあるものならばひと目で理解わかる。


 ――魔法陣。


「退廃、蠢動、微熱。骸、怪生、モノクローム。午睡、空虚、鉄門扉。血を引く糸の、曼珠沙華。アブ・レブ・ヤーコン。アブ・レブ・コラーンジョ。示すその名は、ヘルマントトス」


 男はまるで祈るように――否、懇願するようにでたらめな呪文を唱える。


 その視線は時折、床の上に開かれた分厚い本に注がれる。悪魔召喚の儀式が書かれたグリモワールである。男はこれを市街地の怪しい古書店で入手した。


 というよりも、その本を無理やり店員の老婆から渡されたのだ。



「お代は結構です」



 左右の目で大きさの違う醜い老婆だった。


 最初はただの不気味な本かと思った。そもそも中は白紙だし、想定はゴワゴワとした皮のようなもので覆われている。それが人の皮を使用した人皮装丁本であることを男は知らない。


 男は次の日、学校の帰りにその本を返品しようと思い、古書店を探した。しかし、陽が暮れるまで探してもついにはその古書店を見つけることはできなかった。


 諦めて男はその本を自分のものとした。


 ある時、白紙だったはずの内容が読めるようになっていた。それによるとこの本は悪魔を呼び出すための本であり、呼び出された悪魔は召喚者の願いを一つ叶えるてくれるという。


 その代償は古今東西の悪魔がそうであるように、召喚者の魂である。


 だが男は構わなかった。死後に自分の魂がどうなろうと知ったことか、彼には今、願いがあった。哀れ、悪魔に囚われた魂がその後どのような運命を辿るのか、男には想像もできない。言い方は悪いが、男にとって死後の魂など臓器移植のようにくれてやれるものだったのだ。


 風もないのに、燭台の炎が一つ消えた。


 そして二つ目の炎も、消える。


 この部屋には五ヶ所に火のついた蝋燭がある。その全てが消えた時、悪魔が顕現する。逸る気持ちを抑えて、男は生唾を飲み込んだ。


 三つ目の炎が消える。


 男の願いは実に俗物的だった。彼は自分の好きな女性の気持ちを惹こうとしていた。だがそれは高校のクラスメイトでも、ましてや会ったことのある人間でもない。相手は――彼の憧れる声優であった。


 あと二つ、炎が消えれば魂と引き換えに自分はあの大好きな声優を手に入れられる。


 あと、あと二つ――。


 だがその瞬間、足音が響いた。


 ぎょっとした。誰だ、と思った。両親は今、家にいない。そういう時を狙ったのだ。家には男ただ一人のはずなのに、誰かが地下室への階段を降りてきている。誰が?


 コツン、コツン、と甲高い足音が聞こえる。まるで自分の存在を男に知らしめているようだ。


 男には一人だけ心当たりがあった。


 この町で、人のことわりを犯した場合、必ずやってくる。まるでおとぎ話のような男がいる。その男はこう呼ばれている。



 ――退魔師。



 はたして、地下に降りてきたのは長身痩躯の男、退魔師。


 どうやっての事を嗅ぎつけたのか、それは謎である。退魔師は地下へ続く石階段の三段目から、ゆっくりと部屋の中を見回した。


「よぉ」


 と、まるで今にも死にそうな声で退魔師が言う。


 それが挨拶だと気がつくのに、たっぷり五秒は必要だった。


「この町で、こういう事をすればどうなるか、知っているか?」


 退魔師が、階段を降りてくる。男は緊張により若干の可呼吸となりながら、なんとか首を縦に振る。


 知っている。退魔師はこの町の防衛装置だ。この町で魔の関係する物事を殲滅する。そして、町民を魔から守る。では自分は? どちらだ、守られる立場か、それとも殲滅される立場か。あきらかに後者に思えた。


 退魔師が蝋燭の炎に手を差し出した。かと思った瞬間、炎を握りつぶした。肉を焼く嫌な臭い。しかし熱くはないのだろうか、退魔師は無表情だ。


 しかしその無表情がやけに美しく見えて、男は同姓でありながらも一瞬見とれてしまった。


「ぼ、僕を殺すのか?」


 退魔師は何も答えない。


「ク、クラスメイトだろう」


 退魔師はなおも無言である。


「な、なんでもする。だから許してくれ!」


「ふむ」退魔師は左手で自分の髪をつまむと、右手を腰の一本差しに伸ばした。「斬るか」


 それは冷酷な死刑宣告だった。


 退魔師が左手を髪から離す。頭のてっぺんだけが、雪を被った山のように白い不思議な髪型だ。それが地毛だというのだから、やはり退魔師とは普通の人間ではない。


 そして相手が普通の人間ではないのなら――男は自分の倫理観だとか罪悪感を八つ当たりのような怒りで塗りつぶした。


「ふざけるな、僕にだって幸せになる権利はあるんだ!」


 男は手元にあった燭台を掴むと、それを槍のようにして退魔師に突き刺した。


 退魔師は避けなかった。慌てる様子すらない。深々と胸に刺さった燭台をまるで興味なさそうに眺めているだけだ。やはりこの退魔師、痛みなど感じないのだ。


 しかし胸からは滝のように血が吹き出している。遅かれ早かれ失血多量で死ぬことは明白である。普通の人間ならば、であるが。


「な、なんで!」


 刺さった燭台は男がどれだけ引いても抜けなかった。


 退魔師が抜刀する。その勢いで燭台が真ん中から切断される。銀の燭台がまるで枝切れのように脆く真っ二つになる。


 そして返す刀で男はバッサリと袈裟懸けに斬られた。


「あがっ――痛い、痛い、痛い!」


 男はその場で倒れてのたうち回る。


 叫び声が地下室に残響し、そして、


「うるさい」


 退魔師が刀を突き刺すと、男は静かになった。


 残った炎は一つだけ。その炎が映す退魔師の影は刺さった燭台のせいもあり化物のように見える。退魔師は燭台を胸から引き抜くと、そこら変に放り投げた。


 甲高い音がして燭台は二三度はね、そしてこちらも動かなくなった。


 地下室を耳が痛くなるほどの静謐さが支配する。退魔師は帰ろうと地下室出ていこうとする。だが、後ろに気配を感じた。人間のものではない。退魔師は振り返る。


 そして、炎が、消えた。


「素晴らしい」


 と、闇の中で声が聞こえた。


 しわがれた声だ。


「なんという超大な魂、なんという高貴さ、汚れなき曇りなき魂。素晴らしい」


 退魔師は刀を構える。


「ああ、そんなに怖がらなくても。わたくし、悪魔です。名はヘルマントトス。どうぞお見知りおきを」


 地下室の中央にまばゆい光球が浮かび上がる。その光の玉が二人の化物を照らした。


 退魔師。


 悪魔。


 互いの視線が絡み合う。退魔師は悪魔の口元にへばりついた笑みを唾棄すべきものであるとし、鼻で笑い返した。


「悪魔か、わるいが消えてもらう」


「おや、なぜ?」


 悪魔は魔法陣の中で踊るようにステップを踏んでいる。紳士的なスーツと帽子を、そしてその手にはリボンの結ばれたステッキが握られている。


「それが俺の仕事だからだ」


 簡潔な答えと共に、退魔師は刀を振り上げた。


「待った!」しかし、悪魔は遮るように大声を出す。「わたくしは現在、この魔法陣から出られません。そしてわたくしがこの中にいるかぎり、わたくしはあなた方に危害を加えることはできない。おわかりですか?」


「だからどうした」


「ですから」悪魔は甲高く笑った。「貴方様がここに入れば、わたくしは貴方様を殺せるのです!」


 それは挑発にほかならない。


 ここに入れば自分はお前を八つ裂きにできるのだぞという。


 退魔師は刀をお突きの構えにとった。


「やれるものならやってみせろ」


 それは本心から出た言葉だ。


「できることならやりたくないのですが」


 悪魔は慇懃無礼に頭を下げる。


「お前はこの町にいらない」


「それよりも、もっと楽しい話をしましょうよ。わたくしは悪魔です。貴方様が願うなら願うだけ、それを叶えて差し上げますよ? さあおっしゃいなさい、貴方様の願いを」


「願いなどない」


「願いがない!」


 悪魔は驚いたように叫ぶと、次に笑った。しかし最後には困ったような顔になった。


「どうやら本気のようですね。どうしたものか……」


 悪魔は狭い魔法陣の中を歩き回ると、名案を思いついたとばかりにポンと手を打った。


「そうです、そこの男の願いを貴方様に。ええ、ええ、そうしましょう。願いがないならば他人のそれを自分のものとすればいいのですよ。大丈夫、たいていの人間の願いなど同じようなものですから!」


 光球が弾けた。


 そしてその光は矢のようになり退魔師の体へと突き刺さる。かに思えたが、そのまま体内へと取り込まれていった。


 暗闇の中で悪魔の声が浮かび上がる。


「さて、これで契約は成立です。対価は魂となっております。いえいえ、何日後などと吝嗇けちな事は言いません。貴方様のような素晴らしい魂は、死んだあとにじっくりと回収させていただきます。それまでどうぞ、願いの叶った世界をお楽しみくださいませ」


 気配は消えた。


 悪魔が去ったのだ。


 退魔師は深い溜息をついた。


 この場でやり合って本当に勝てただろうか?


 その躊躇のせいで、結果として呪われるような形となった。


 だが、もう済んだことだ。退魔師は何も思わない、それをするための感情など端から持ち合わせていないのだ。


 地面に置いてあるグリモワールを斬る。


 斬り裂かれたグリモワールは灰となって消えた。


 そして退魔師は常闇の中、地下から出るための階段を上がっていったのであった。


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