058 赤と黒8
二人は空港の入り口の前で待った。
見える景色は寂しい。
小さなレンターカーの店。ビルもなく、仰ぎ見えるは山ばかり。そしてなにより天気は曇り空。今すぐにでも雨が降り出しそうなくらいだった。
暇そうなタクシーの運転手があくびをした。眠い目をこすってのびをしている。
「誰もいませんね」
「どうかしら」
ヒルダの言葉の通り、それからしばらくすると人が増えてきた。
これからどこかへ行く現地人。どこかからやって来た観光客。どの人も期待に輝いた目をして笑っている。タクシーの運転手はさきほどまでと打って変わって営業スマイルを浮かべている。
しかしそんな中、一人だけ異彩を放つ男がいる。
まったくの無表情。何一つ楽しいことなどないという絶望に満ちた顔。しかしその服装を見れば人は少しだけ納得する。真新しい法衣、おそらく先日のヒルダとの戦闘で服もズタボロになったからだろう。
男がこちらに向かってくるたび、持っている錫杖がシャラシャラと心地よい音を鳴らす。
「……やはり、待っていたか」
武僧・罪澄だ。
「もちろんよ。それが私の仕事ですもの」
ヒルダの言葉に罪澄は薄笑いを浮かべた。まるっきりヒルダのことを馬鹿にしているような笑いだった。
「人を殺すのが仕事か。呆れたものだ」
「なんとでも言いなさい。ああ、それと報告書に書かなくちゃいけないから一応聞いておくわ。どうしてJFCを抜け出したの?」
「知れたことよ。仕事が嫌になったのさ。ただそれだけだ」
罪澄は抱えていた荷物をその場に置き錫杖を構える。戦闘態勢だ。
対してのヒルダは一見して無防備なまでに自然体だ。しかしこれがヒルダのスタイルなのだとリサも知っていた。
それは罪澄も知っているのだろう。
「来ないならこっちから行くわよ」
罪澄は何も言わない。しかしその口は何かをつぶやいている。
ヒルダが消える。その後には美しい影だけが残っているようにも見える。
錫杖ががなりたてるような音をならした。
罪澄がヒルダの一撃を止めたのだ。
やるわね、とでもいうような雰囲気を出してヒルダはまた消える。リサにとってヒルダの存在を知らしめるのは動き回っているその影だけだ。もしくはその美しさの残像とでも言うべきか。
周りの人間がこの戦闘に気付いて騒ぎ出した。
だがヒルダたちは周りの目など意に介さない。それでリサは自分が呼ばれた意味に気がついた。
――そうか、私がこの人たちの記憶を操作するんだわ。
つまりリサはヒルダが全力で戦うためのサポーターなのだ。
たしかに二人の戦闘を見ていれば、リサの格闘技など付け焼き刃の生兵法だ。それならば大人しく他人の記憶を消していたほうが良い。
リサは手近にいる人間の記憶を消しにかかる。これだけの人数相手ではかなり骨が折れる作業だ。集中しなければ――。
と、思ったそれが油断だった。
この瞬間は今もなお戦闘中なのだ。リサはそのことを失念していた。それはヒルダへの信頼感――この人が負けるはずはない――というものからくる油断。それが過信であったとは言わない。しかし、しかしなお、やはり戦闘から目を離すべきではなかった。
一瞬の隙をつき、罪澄が法衣から独鈷杵を取り出す。それをリサめがけて投擲した。
それと同時にヒルダの鋭い爪が罪澄の肩口をとらえる。
独鈷杵と爪、二つは交差するようにそれぞれの狙いを穿つ。
「ルージュ!」
ヒルダが叫んだ。叫びつつも、罪澄の肩口をえぐり取り、相手に致命傷をくらわす。
ヒルダの目から、独鈷杵はたしかにリサの顔面に突き刺さったように見えただろう。
しかし、
「大丈夫です、ノワール」
その独鈷杵が、リサに直撃しなかったのはまったくの偶然だった。
おそらく罪澄が独鈷杵を投げるよりも少しだけ早く、ヒルダの爪は罪澄の肩に届いていたのだろう。そのおかげで独鈷杵の狙いが外れたのだ。
しかしリサは頬を少しだけ切った。頬からは血が一直線の筋となって流れている。
「平気?」
ヒルダが跳ぶようにして駆け寄る。
「ええ、頬が切れたくらいなんともありません」
リサは自分の頬を手のひらで拭った。血はかすれて手を汚す。その血をリサは美しいとは思わなかった。しかし、ゴスロリには似合うかもしれないと思うことにした。
「貴女、覚悟なさい。女の子の顔を傷つけた罪は万死にあたいするわ」
「ふ、覚悟などもうできているさ……空骸が死んだときからな!」
罪澄は笑いだした。
気が触れたのだろうか。いや違う。その手には三鈷杵が握られていた。
「我が法力、天に届かんっ!」
罪澄が三鈷杵を上空に投げつける。それはやがて見えなくなった。
いったい何が起こるのか。
そう思った瞬間、厚い雲がかき分けるように晴れだした。
「拝み屋め……」
ヒルダが忌々しそうに言う。
「弟の残した三鈷杵があれば俺にだって天候を変えるくらいできるさ! さあ、月光姫。お前の負けだぞ!」
それはリサにとっても久しぶりに見た晴天だった。
陽は苛烈に照っている。
空は青く、雲ひとつない。
どこまでも、どこまでも蒼穹だ。
その空を睨みつけ、ヒルダはため息を付いた。
「しょうがないわね、本気を出すわ。ルージュ、後処理は任せたわ」
「ノワール、すぐに空港の中に逃げないと!」
「逃げる? どうして私が」
「だって吸血鬼は太陽に弱いんじゃ!」
「それは凡百の吸血鬼よ。私を誰と思って?」
言うやいなや、
ヒルダが、
自らのお面を、
剥ぎ取った。
「え……」
リサは自分が呆けた声を出してしまったことを自覚したが、しかし口が塞がらない。
そんなことをする暇があれば、いっときでも長くヒルダの尊顔を見ていたかった。
「私の美しさには、太陽すらも嫉妬する」
リサにはその美しさを表現する言葉などない。
ただ美しく、そこにあるだけで全ての行為が無意味と思えるようなものだった。このまま息をするのも辞めてしまいたい。いいや、生死すらも超越している。ただただ、その美に魅入っていたい。この永遠がやがて過去になるとしても、今はそれだけで良い。
ヒルダの影が消えた。
それはまるで、太陽が彼女を直視することをやめたようだった。
陽光はヒルダに降り注がない。彼女の周りだけ、時空すらもネジ曲がっている。その異界ともいえる空間の中で、ただ確かな美。
周囲にいた全員が言葉を失った。敵である罪澄さえも。
あるいは時間すらも止まっているのかもしれない。
その動かない時間の中で、ヒルダだけが優雅に、華麗に、まばゆいくらいの微笑をたたえて歩き出す。
誰も反応できない。それどころか自分が生きていることすら不遜に思える。ほんの少しの美意識がある人間ならば思うだろう。こんな人に自分の醜い姿を見られるのはたまらない。だが同時にも思う。自分のさらに醜い死体を見られるなんて、死んでも死にきれない。だから誰もが時を止める。何もできない。してはいけない。
ヒルダが手を振り上げる。
罪澄は何もできない。
「地獄で自慢しなさい。私の素顔が見られた事を」
その腕が振り下ろされた瞬間、罪状は縦割りに真っ二つにされていた。
断面は真に直線だ。そして血は吹き出ない。まるで標本のように、生前と人間が左右に別れたのだ。
死した罪澄は恍惚の表情を浮かべていた。それは世界で一番素晴らしい死に方だった。
ヒルダは振り返り、言う。
「さあ、ルージュ。記憶を消しなさい」
その声は神々しいエコーすらかかっている。
リサは何も答えられない。だが、決死の思いで首を横に降った。
こんな素晴らしい人の記憶を消せだなんて、リサにはできなかった。
やれやれ、とでもいうようにヒルダはお面をまたつけた。それでもヒルダ美しさは周りにいる全員の脳裏に焼き付いている。
ここから先はすべて余生である。このヒルダという美しい女性の記憶を愛で、反芻し、焦がれる。それらを繰り返すだけの人生。そしてその記憶がすりきれ、いつしかヒルダの顔がほんの少しでも思い出せなくなった時、その時にここにいる者たちは自ら死を選ぶ。
それはもはや呪いだった。
「ねえルージュ。お願いだからこの人たちの記憶を消して。そうしないとこの人たちは全員廃人よ。貴女もね」
「い、嫌です。私にはそんなことできません」
なんて、なんて残酷なのだろうか。
自分はこのために呼ばれたのだ。ヒルダの戦いの痕跡を消すためではなく、ヒルダが全力を出してしまったときの保険として。
しかしそれはリサにとって断腸よりも辛い思いなのだ。
「嫌です」
と、リサはもう一度言った。
だがヒルダが声を荒らげた。
「ルージュ! いいえ、リサちゃん。聞きなさい! 貴女には好きな人がいるのでしょう。なら私なんかに拘泥していてはダメ! 貴女は美しいわ、私と同じくらいにね! だからお願い、みんな記憶を消してちょうだい」
――好きな人。
そのとき思い浮かんだのはヨシカゲの顔だ。
リサは頷き、自分の頭に右手を当てる。思わず涙がこぼれだした。感情がいやいやをする。だが、それでもリサは――自らの好きな人のためにもこの記憶を消さねばならなかった。
「ええ、そうよ。偉いわね」
そしてリサは、なにか分からないがとてつもなく大切なものを失ったのだった。
「この仕事が、嫌にならないって言ったら嘘になるわ」
「はい」
「けれど私の仕事だから仕方がないの」
「はい」
「ルージュは私のことを軽蔑する?」
「いいえ。むしろ尊敬します」
「ありがとう、ねえ私たちって友達よね」
「はい」とリサは正直に答えた。「なんせルージュ・ノワールですから」
リサの運転するクルマは腑卵町に入った。
空は夕雲に照らされている。けっきょくあの後、空港にいた人間の記憶を消して回った。最初は虱潰しすら覚悟した作業だった。だが、むしろヒルダのおかげで誰に記憶が入っているのかはっきりしていた。心ここにあらずという人間の記憶を消していけばいいだけだった。
「私達って本当に良いコンビよね。私、こんなに相性の良いパートナーは初めてよ」
「ありがとうございます」
「ねえ、もしも貴女が退魔師に嫌気がさしたら正式にパートナーになりましょうよ」
「それも良いですね」
「でもそんなことってあるかしら?」
「さあ、どうでしょう」
「好きなんでしょう、あの人のこと」
リサはからかわないでください、と照れた。
空は二人好みの曇り空。
けれど夕日に照らされて、茜色だった。
ヒルダが鼻歌を口ずさんだ。それはビートルズサウンド。『Love You To』
――光陰矢の如し、周囲はすべて過去である。俺たちは正式な契約を交わす時間もない。
リサも同じように鼻歌まじりで口ずさむ。
奇麗なハミングだった。リサはその音心地よく思いながらロードスターをトップギアに。
歌の最後の歌詞はこうだ。
――キミが望むのなら、望んだぶんだけ抱きしめてあげよう。
そんなこと、ヨシカゲはしてくれるだろうか。
してくれるわけがない。
けれどリサはそれで良かった。
彼女は今、美しかった。
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