020 夢の箱庭5


 目を覚ますと空はすっかり茜色だった。


 俺の顔を覗きこむようにネメアが見ている。フウカはどうやら帰ったようだ。家の中に人の気配が一つもなかったからだ。


「あなた、おはよう」


「もう、夕方か?」


「そうよ」


 不思議なものだ。この町は日中晴れることは殆どないのに、夕刻だけは空が開けて焼け付くような橙色を映し出す。だが、それも一瞬だ。瞬きの瞬間には夜に変わる。それがこの町の特殊な習性だった。


 ネメアが部屋の灯りをつける。と、同時に外は幕を閉じるように、夜の帳をおろした。


「あー、まったく。損した気分だ」


「なにが?」


「せっかくの休日を寝過ごしたんだからさ」


 ネメアはそうね、と頷いた。


 机の上にはティーカップとコップが二つ置いてあった。


「コーヒーでも飲むかと思って」


「ああ、たのむよ。とびきり甘いホワイトコーヒーをな」


「うふふ、そうだと思ったわ」


 ネメアがティーカップから注いだ液体は、白いミルクだった。分かってんじゃん、と俺はネメアにぎこちない笑顔を浮かべた。


 二人して、砂糖とシロップの入ったホットミルクを飲む。


 ネメアは俺のベッドに座った。俺も、半身を起こしてネメアを迎え入れた。


「夜ご飯、どうします?」


「コンビニにでも行くか?」


「ダメですよ、あなたったらお菓子ばっかり買うじゃないですか」


「良いだろ、俺の金だ」


「虫歯になりますよ」


「ならないんだよ」


「糖尿病に――」


「それもならない」


 みんなしてワンパターンな批判ばかりする。俺は不死者なのだから、そんな病気になるわけがないのだ。


 俺たちはしばし無言になった。


 どういう訳か、どちらとも次の言葉が繋げられなかったのだ。


 何だか恋人同士が大切な話を切り出す直前、一瞬会話をなくすようだった。それはおかしい事だ。なぜなら俺達は家族――あるいはただの同居人であるべきだったからだ。


 けっして恋人ではないのだ。


 不自然な無言に耐えられなくなったのか、ネメアが笑いだした。


「どうだった、今日は楽しかったか?」


 それで、俺も言葉を発することができた。


「ええ、ずいぶんと。あなたの事も色々きいたわ、フウカちゃんに」


「他人が言う俺の事は全てまやかしだ」


「そうかしら? それはあなたがそう思っているだけじゃなくて?」


「他人は俺の事を、タフで仕事に勤勉で心の冷たい皮肉屋だと思っている」


「それはあなたがそう思われないだけなんじゃなくって?」


「ちがう、他人がそう思っているんだ」


「少なくともわたしはそう思わないわ」


「じゃあ、どう思う」


「他人との距離感をつかめない、独りぼっちの甘党退魔師さんよ」


「そういう側面もある」


 ネメアは俺をからかうようにクスクスと笑った。


 でも、本当の俺はなにもないのだ。まっさらな、からっぽの、空虚な器なのだ。だから、俺はただの人の皮をかぶっただけの化け物なのだ。


「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたの事、好きよ」


「好き?」


 俺は理解できずに、オウム返しだ。


「日本語、上手だな」


 皮肉のつもりで言ってみる。


「育ちはこっちなのよ。だからニホン語ペラペデース」


「じゃあ好きってなんだよ、ライクなら気に入ってるとか、言い方ってもんがあるだろ」


「ラブだって言ったら?」


「そうだな、珍しい言葉を聞いたって標本にして保存しておくよ」


「あら、わたしを綺麗なまま保ってくれるの? それはそれで良いわね」


 俺は違和感をもってネメアを見つめる。


「お前、吸血鬼は後天的か」


「ご明察」


 純粋な吸血鬼ならば歳をとる事はない。だが、後天的に吸血鬼によって血を半分以上吸われ、人間と吸血鬼が混ざりあった存在は、人間の老化より緩慢に歳をとるのだ。


 そういった、言ってしまえば半吸血鬼の中には、老いを極端に恐れる者がいる。まさかネメアがそうだとは思わないが。


「いつからだ?」


「私が十五の時だから、もう十年になるわ」


「十年なら、だいたい二歳分か?」


「ええ、二十五には見えないでしょ?」


 半吸血鬼の歳のとり方は、だいたい五年に一歳だ。つまり彼女は十七歳くらいの年齢というわけだ。そうだと思ったのだ。


「どうしてだ?」


 俺達は初めて立ち入った話をしていた。


 夜になりかけた夕方の時間とは、不思議とこういうナイーブな話をしてしまうものだ。だから、俺は気にもしなかった彼女のことを少しだけ、知りたいと思ったのだ。


「さあ、どうしてわたしが吸血鬼に噛まれたのか分からないわ。わたしは当時高校生になったばかりで、この世界にこんな不思議なことがあるなんて知らなかったの。ある日、学校の帰り道だったわ、あの男にいきなり首元を噛まれて、そのままわたしは気を失って。気を失うときにね、すごい争うような雰囲気がしたの。それで、気がつけばどこか別の場所にいたわ」


「それが、吸血鬼の根城か?」


「ええ、そうよ。西日本のどこかだとは思うけど」


「どうして分かる?」


「お正月のお餅が毎年丸かったからよ」


 日本にもいたるところに吸血鬼の根城と呼ばれるような場所がある。有名なのは東京都新宿区にある、かつての公営住宅跡地だ。この腑卵町の隣町にも昔はあったらしいが、父の代で壊滅した。


「その根城はどうなったんだ?」


「まだあるんじゃないかしら」


「逃げてきたのか?」


「ええ」


「どうして?」


「だってわたし、吸血鬼になりたくてなったわけじゃないのよ」


「そうか、それで町長と会ったのか?」


「そうよ。わたしが黙って根城から逃げて、たまたま視察中のあの町長さんと会ったの」


「あいつの才能はただ一つだ。俺向けの厄介事を持ってくる」


「そうね。あの人はわたしに、この町に来ることを強く勧めたわ。もう宗教の勧誘かってくらいしつこかったわね。あなたの元にいれば安全だ、って」


「だから、お前はここに来たわけか」


「そうよ」


 だが、俺は一つだけ分からないことがあった。どうして彼女は吸血鬼の根城から逃げたのだ? たしかになりたくてなった吸血鬼ではないにしても、住めば都と言うではないか。そう悪い思いはしなかっただろう。


 とくに女性の吸血鬼は貴重だ。種の保存には男性よりも女性が重宝される。それは自然界でも同様の、生物のオキテだ。ならば彼女もまた――この美貌もある――大切に扱われていたことは容易に想像できた。


「どうしてお前は逃げた?」


 俺は単刀直入に聞いた。


 ネメアは答えに一瞬まようと、しかしまるで自分を納得させるように頷いた。


「あのね、わたし、死ぬの」


 そう言ったネメアの目には、ありありとした諦めの色が浮かんでいた。



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