019 夢の箱庭4
3
時々、コーヒーの事を考える。
最初に、コーヒーというものは汚濁だ。ドブ川を流れる水よりも汚い。黒くて、苦くて、飲んだら眠れなくなる。最悪の飲料だ。いや、俺はそもそもこいつを飲料とは認めていない。
どうして人類というものはこんな不味いものをありがたがって飲むのだろうか。
とは言うものの、俺がコーヒーを飲めない訳ではない。たとえばミルクを入れて、砂糖を入れて、シロップを入れる。時々ジャムも入れる。そうすればこのクソ不味い液体も、まだマシな味になる。
だが、それでも不味い。
だから、俺はコーヒーのコーヒー抜きを飲む。メニューは簡単、ミルクに砂糖とシロップを入れるだけ。焙煎しない分すぐできる。
「はい、淹れましたよ」
「ああ、ありがとう。うん、やっぱりコーヒーは美味しいな」
と、言ってみる。
ネメアは顔をしかめて、自分の分のコーヒー(しかもブラック!)を一口のむ。
「それ、コーヒーじゃないですよ。ただのホットミルクです。しかもとびきり甘い」
「違うって」
「なにが違うんですか」
「これはな、ホワイトコーヒーだよ」
俺は自慢のホワイトコーヒーを飲み干す。今日入れた角砂糖は四つ。コーヒーカップの底にはキラキラとした宝石のようなものが沈殿している。これがまた美味なのだ。
「あのな、ブラックコーヒーっていうのは砂糖やらミルクを入れないものだろ?」
「まあ、日本ではそうですね。外国だとそれはジャパニーズコーヒーと呼ばれてますよ」
随分と発音の良い、「ジャパニーズコーヒー」だった。
話していて忘れることも多いが、ネメアは日本人ではないのだ。俺は彼女の事をあまり知らないが。別に、気にはなるが知らなくても良い。この町には脛に傷を持つようなやつが大量にいる。それこそこの町じたいがドブ川のようなものだ。
「厳密に言えば、砂糖のみを入れるのがブラックコーヒーです」
「あ、そうなの。でもまあ、日本だとなにも入れないのがブラックコーヒーだ」
「郷に入れば郷に従え、ですね」
「そのとおり。で、俺は考えた。コーヒーから砂糖やミルクやシロップを抜いてもブラックコーヒーなら、コーヒーからコーヒーを抜いてミルクやら砂糖やらシロップだけにしても、それはコーヒーなんじゃないのか?」
「そんなわけないじゃない。そもそもコーヒーの本質は、コーヒーであることよ。それがなくなればただのミルク」
「タコの入ってないたこ焼きだって、たこ焼きだろ?」
「たこ焼きの本質は生地のほうじゃないのかしら」
「そりゃあタダの『焼き』だよ。たこ焼きの本質はタコ。でもそのタコが入ってなくてもたこ焼きだ。だからコーヒーもコーヒーが入ってなくてもコーヒーだ。俺はこれをブラックコーヒーの対極としてホワイトコーヒーと名付けた。まだ特許をとってないからな。そのうち真似されるかもしれない」
「そんなわけないじゃない」
「いや、そのうち『サライエボ』のメニューになるだろうな。げんにフウカにはもうホワイトコーヒーで注文がとおる」
「迷惑な客よ、あなたって」
「そうかい」
この女はいったい、いつまで俺の部屋にいるんだろうか、と思った。
俺の部屋なんてベッドと本棚しかないような殺風景な部屋だ。こんな場所にいても面白いわけない。なのに、ネメアは一向に出ていこうとしない。
俺はフローリングの床に直接座っていた。
その隣に、ネメアが腰を下ろした。長いスカートを自分の足の下に巻き込むようにして座るネメアは、どうやらこの部屋に居座るつもりらしい。自分の分のコーヒーも持ってきた時点でだいたい察していたが。
「何を読んでいたの?」
俺が床に広げていた本を見て、ネメアがきいてきた。
「『純粋理性批判』」
「まあ。難しそうな本ね」
「そうなんだよ。書斎にあったから、興味本位で開いてみたが。まったく意味が分からない」
「元々だれの本なの?」
「カントだ」
「そうじゃなくて」
「ああ、父親だよ。まあ、たぶん書斎の肥やしにしただけだろうな。父親にも意味なんて分からなかったはずさ」
「あら、そうなの」
「睡眠薬代わりにはなるだろうかな」
意味の分からない本をずっと読んでいるうちに、家の呼び鈴がなった。たぶんフウカだな、と俺は思った。今日は休日だ。ときどきフウカが屋敷を掃除しにくる。たぶん、それのはずだ。
「誰かきたわね」
「フウカだろう」
「え、フウカちゃん? どうして」
俺が掃除の事を説明すると、ネメアはちょっと不機嫌そうになった。
「どうして今まで言ってくれなかったの」
「別に言うことじゃないだろ」
「いいえ、言うことだわ」
呼び鈴がまた鳴る。
俺は「出てやれよ」とネメアに言う。
「いやよ、あなたが出れば」
「なんだよ、どうしてそんな不機嫌なんだよ」
「……だって、せっかくの休日で一日中二人っきりだと思ったのに」
「?」
ネメアの声は彼女の口の中だけに篭り、こちらまで届かなかった。
「もう、分かったわよ。出てくるから」
「うん、たのむ」
俺はまたわけの分からない本に目を落とす。
しばらくして、部屋の外からネメアとフウカの話し声が聞こえてきた。
「今日は二階を掃除しようと思ってたんです」
「あら、そうなの。……ごめんなさいね、わたし掃除って苦手で」
「いえ、いいです。昔から私の仕事ですから」
なんだか二人の会話には、マウントの取り合いのようなそこはかとない静かなせめぎあいがある。
「手伝おうかしら?」
「人手が多いと助かります」
「あの人も誘ってみる?」
あの人、というのは俺の事だろう。だから部屋の中から「嫌だよ!」と言っておいた。
「あら、やだ。聞き耳?」
「別に聞き耳を立てていたわけじゃない。キミたちの声が大きすぎるだけだ」
まったく、本を読むのに邪魔だ。
「でもヨシカゲさんの部屋も掃除しないと」
別にそんなに汚くはないと思うのだが。
ネメアが部屋のドアを開けて、中に押し入ってきた。その後ろには少し遠慮がちにフウカの姿もある。俺は忌々しく本を閉じると「返してくる」と、部屋を出ようとした。
「まあまあ、待ってよ。あ・な・た」
背中に悪寒を感じる。
「やめろよ、ぞっとしない」
「照れてるのね」
「おい、フウカ。こいつ、頭おかしいんじゃねえのか?」
「さあ、そんな事はないと思いますけど」
「とにかくね、あなた。わたしたち、今からこの部屋の掃除をしようかと思うの」
「はあ」
「そしたらね、どっちが上手に掃除をできているか判定してほしいのよ」
なんだよそれ、と俺は驚く。というか、フウカも初耳だったようで「えっ」と声をだした。
「良いじゃないの、そうやって勝負形式にしたほうが盛り上がるわ」
「いったどこを基準にして盛り上がりをつくるんだ? いつもの掃除がフラットな状態なら、お前がいるだけで俺は盛り下がってるわけだが」
「そういう辛辣なもの言いも、愛ゆえよね」
「冗談、俺がいつキミを愛した」
そもそも、ネメアと出会って一週間ほどだ。そんな短期間で愛が芽生えるものだろうか。もしも出会って一週間で愛しているなんて言う男がいれば、そいつは愛と性欲を取り違える愚か者だ。
「そもそも勝負形式って、優劣をどう判定するんだよ」
「それはもちろん、あなたの主観よ」
「主観ほどいい加減な判定基準もないと思うが」
「あら、多くの客観をすりあわせてつくる基準の方が納得できないわ。少なくとも主観よりはね」
「残念だが、俺にはそこまで確固たる自分の意見なんてものはない」
ネメアの考えを支持するのは、自分というものに絶対の自信を持っている人間だけだろう。ということは、ネメアはそういう存在だということだ。確かに彼女はここにきた次の日から、まるで唯我独尊というような感じで振る舞っている。ようするにワガママだ。
「良いじゃない、お願い!」
「お願いって……なあフウカ、それで良いか?」
「私はかまいませんよ」
「はあ……じゃあ、好きにしろ」
俺は一度書斎に行ってくると部屋を出た。それで、書斎で今度は読みやすそうな本を選ぶ。星新一か阿刀田高でまよったあげく、手ごろなライトノベルを手に取った。別に何かを読みたかったわけではないのだ。ただ横断歩道で信号待ちしているときに目の前を流れていく車を眺めるみたいに本を眺めていたかっただけだ。
部屋に戻るとネメアが窓を拭いていた。フウカは掃除機をかけている。
時間はたいして経っていないのに、さすがに二人係だ。先ほどより随分と綺麗になっているように見えた。
二人の女性は先ほどまでの雰囲気と打って変わり、楽しそうにお喋りをしながら掃除をしている。
「いくつなの?」
ネメアが窓を拭きながら、背中越しにフウカに聞いた。
「十四です。今年で中学三年生なんです。ネメアさんは?」
「あててみて」
「二十歳くらいですか?」
「おしい、そこから片手分ってところね」
そうか、ネメアは二十五歳なのか。「ババアじゃねえか」
「何か言ったかしら?」
「いや、なにも言ってないぞ」
おっと、思ったことが口から出ていたようだ。
というか、ネメアとフウカはだいたい一回り歳が違うのか。そりゃあ大人と子供に見えるわけだ。フウカだって同年代の少女たちと比べればずいぶんと大人びて見えるが、ネメアはもっと大人びている。
「あの、どうしてこの町へ?」
「わたし、吸血鬼って言ったでしょ。この町は晴れ間が少ないから都合がいいのよ」
「それだけの理由ですか?」
「ええ、そうよ」
フウカはまだ何かを聞きたいようだったが、それで押し黙った。
もちろん、俺にもネメアの言葉が嘘であることは分かっていた。ネメアには別の理由があるのだろう。その理由がなんなのかは分からないが、自分から言うつもりはないようだ。
――おいおい、な。
と、俺に言った町長の言葉が思い出された。
その言葉の意味を探るように暮らして、もう一週間が経った。俺がネメアについてわかったことは、この若女房気取りの吸血鬼は意外と甲斐甲斐しいということ。掃除はこの屋敷があまりに広ぎるため手付かずの場所が多々見受けられるが、炊事洗濯は完璧だ。朝が弱いのは玉にキズだが、夜は深夜まで話し相手になってくれる。独りの夜を長く過ごしてきた俺からしたら、退屈しのぎには良い相手だった。
俺は自分がネメアの存在を次第に認めていっている事に気がついていた。
それに対して恐怖はない。元々、父と母がいた時分は幼子だったのだ。家族、というものがどういうものかは上手く理解できず、しかしおそらくこういうものだろうと想像した。
だがたぶん、俺くらいの歳ならば、家族よりも恋人を求めるのではないかとも思った。
「ちょっと、あなた。そこ邪魔よ」
「あ? おお、すまん」
どうやら次はベッドの上を掃除するつもりらしい。俺は素直にどいた。
すると、どういう訳か二人の女性から驚いたように見られた。四つの目が、俺を覗いている。そうされると、まるで俺が空っぽであると告発されているように感じる。
「な、なんだよ」
「いや……ねえ」
「はい、あんまり素直なもので」
「いつもなら悪態の一つでもつくものだけど」
「そういう事もあるんですね。それとも、ネメアさんだからですか?」
「あーはいはい、分かったよ。ったく、キミたち二人は俺の事を何だと思ってんのか。俺だってな、時には素直になることもある。真面目に生きようと考えることもあれば、このまま死んでしまいたいと思うこともある」
まあ、そんな事は不死者の俺には無理なのだが。
「なんにせよ、あんまり言ってくれるな。少し、傷つく」
「はいはい、じゃあ掃除しますから」
「早くしてくれよ。疲れたから横になりたいんだ」
俺は窓際まで移動して、外を眺める。
空は今にも泣き出しそうな子供のように灰色だった。いつもそうだ。この町で晴天なんて拝めるわけがない。いつだって、曇天だ。
秋の気配は静かに鳴りを潜め、ひっそりと冬が近づいてくるような気がした。
だが、それは錯覚だ。今はまだ十月だ。雪が降るには、まだ早い。
「あ、そっち持ってくださいネメアさん」
「こう?」
「はい、それで。えい、えい」
「布団って掃除機で吸うものなの?」
「この町じゃ、普通ですよ。天日干しが滅多にできないですから」
「へえ、そうなの」
この町じゃあ常識だが、どうやら他の場所では違うらしい。
「はい、じゃあこの部屋の掃除は終わりです」
「次に行きましょう」
「ああ、終わった。じゃあ、おやすみ」
俺はベッドに横になり、本を開く。二人の女性はクスクスと楽しそうに笑いながら部屋を出ていった。そしてしばらくして、外から掃除機の音だけが響いている。
俺は休日の昼下がりに口づけするように目を閉じた。
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