018 夢の箱庭3



 屋敷に帰ると、朝と同じようにネメアが出迎えてくれた。


「おかえりなさい」


 彼女が着ている服は、俺が貸してやった母のものではなく、昨日きたときに彼女が着ていたカーディガンに戻っていた。


「お前、おかしな吸血鬼だな」


 俺はうんざりして、そう言った。


 本当は俺が学校に行っている間に、いなくなってくれれば一番良かったのだ。だけどネメアのやつはすっかりこの屋敷の住人だとでもいうような顔をして、俺を出迎えたのだ。


「夜ご飯、なんにしますか?」


「『サライエボ』に行く」


 俺はそれだけ言うと、さっさと自分の部屋に戻る。と、どういうわけかネメアもついてきた。


「どこですか、それ? スーパーマーケットの名前?」


「行きつけの喫茶店。キミ、いつまでそこにいるの? 着替えるんだけど」


「あ、すいません」


 謝るのはたいへん礼儀正しくて良いのだが、一向に部屋を出ていこうとしない。


 ネメアはジロジロと俺の部屋を観察している。見て何か面白いものでもあるだろうか? 小型の冷蔵庫がある事と、本棚に本が入っていること以外は、ネメアを昨晩泊めた部屋と間取りから置いてある家具まで変わらないはずなのだが。


 この屋敷にはまるでクローン羊のように同じ部屋が無数にあるのだ。


 俺はしょうがないので、ネメアの前で着替えることにする。すると、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめて、自分の手で自分の顔をかくした。小さくて白い、綺麗な手だった。


「なあ、ネメア」


 俺は着替えながら言う。


「はい、なんでしょうか」


 ネメアは自分の顔をかくしたままで答える。だが、よく見れば指と指の隙間が少しだけ開いている。


「甘いもの、好きか?」


「嫌いじゃないです」


「俺も、好きだ。たぶんこの世界にあるもので唯一、俺が執着を持っているものだ」


 着替え終わると、俺は冷蔵庫から朝の残りのアーモン入りチョコレートを取り出す。それをネメアに一粒わけてやる。


 ネメア「ありがとう」

 俺「嬉しそうだな」

 ネメア「はい、だってあなたから初めてもらったものですから。なんだか食べるのがもったいないわ」


 また、あなただ。何だかそう呼ばれるとむず痒く感じる。


「そうだ、ネメアも一緒に行くか『サライエボ』」


「良いんですか?」


「良いも何も、なあ」


 甘いものが嫌いじゃないというのならば、『サライエボ』のパンケーキは一度食べておくべきだ。フウカのつくるあれは絶品だ。焼き加減が良いのか、それとも卵やバターの分量が良いのか、とにかく美味い。上からメープルシロップとコーラをかけると更に美味い。


「じゃあ行きたいです。あ……でも」


「でも?」


「わたし、お金を持ってないんです」


「じゃあ、やるよ」


「え、わるいですよ」


「気にするな。俺にはそもそも必要ないものだ。それにな、俺はアレが嫌いなんだ。だからお前も『お』なんてつけないで、呼び捨てろよ。金で良いんだよ、あんなもんは」


 ネメアはクスクスと笑う。それはなんだか聞いている者の耳をくすぐるような、優しい笑い方だった。俺は時々、綺麗な女性を記憶の中の母親と比べた。ネメアの笑い方は俺の母親のそれとよく似ていた。


「分かりました、そこまで言うならありがたく貰っておきますね」


「俺があげたもので、二つ目だな」


「本当ですね、なんだか使うのがもったいないわ」


 俺は、ネメアの表情を真似して笑ってみた。やっぱりどこか、ぎこちなかった。それでもいつもより上手くできた自信があった。


 俺はひとしきり、練習のような微笑みと大笑いの真似ごと「わっはっは」を繰り返すと、最終的にはいつ通りの真顔になった。


「じゃあ、行こうか」


「どうやって行くの?」


「歩いて」


 他になにが、という意味をこめて俺は聞く。


 確かにこの家のガレージには古いオープンカーが一台あったが、俺はまだ免許をとれる年齢ではない。ネメアはどうだろうか、もしかしたら免許くらい持っているかもしれないが、だが吸血鬼がオープンカー。自殺行為も良いところで似合わない。


「どうせ近い。歩いて五分くらいだ」


「そうなんですか」


 二人で外に出ると、いつの間にか空は暗くなっていた。このところめっきり陽が落ちるのも早くなった。秋の夜はつるべ落としとはよく言ったもので、夕方というものが抜け落ちたようにすっぽりと夜になったのだ。瞬きの一瞬だ。


 ネメアはこの時間こそが自分の本領と、大威張りで歩いている。


 まだ町に慣れていないくせに、俺より前を歩こうとするものだから、時々道を間違える。


「おい、こっちだぞ」


 俺が注意して、躾の悪い犬のようにネメアを誘導するのだ。


『サライエボ』につくと、ネメアは店内へ続く階段を見て、楽しそうに笑った。


「隠れ家的名店ですね」


「そう、そこが良いところ。そして、そこが欠点でもある」


「どういう意味ですか?」


「隠れ家的だから静かでいい雰囲気なんだよ。でも、隠れすぎて客があんまり来ない。そのうち潰れるよ、この店」


「そうなんですか」


 とは言うものの、今は他の客もいるようだ。『サライエボ』の一階は駐車場になっており、三台までなら車が停まる。いつもフウカの母親の軽四自動車が停まっているため、実質てきには二台までだが。今はその二台分がうまっていた。


 よく考えれば今日は金曜日だった。


 この喫茶店は夜になればアルコールも出す。週末のこの時間なら近所の人がそれを呑みにやってくるのだ。半分だけバーのような雰囲気になる。


 俺はもちろん未成年で飲酒はできないのだがネメアはどうなのだろうか。


 アーチ状の天井をした狭い階段をのぼり、入り口のドアを開ける。カランコロンという聞き慣れた鈴の音が聞こえる。


「いらっしゃーい」


 酒焼けした、かすれた女性の声がした。フウカの母親だ。


「あら、退魔師さん。ちょっと待ってて、フウカを呼ぶから」


 俺は開いていた近場のボックス席に、ネメアと入る。


「パンケーキがオススメ」


「そうなの?」


「コーヒーは微妙だ。インスタントだし」


「え、喫茶店なんですよね、ここ」


「まあな。だけどコーラだってメロンソーダだってジンジャーエールだって、その店で作ってるわけじゃないだろ。だからコーヒーがインスタントでも何も問題はない。そう思わないか?」


「どうでしょうか」


「あとアルコールもある。呑むか?」


「それより、血が呑みたいですよ。ねえ、あなた」


「いやだよ。だって俺、低血圧だから」


「あら、残念」


 吸血鬼が俺の血をのむなんて吐き気がする。一生体験したくない。


 そんな話をしていると、フウカが店の奥から出てきた。パタパタと可愛らしい音をたてて歩いてくる。その顔はどこか嬉しそうだ。が、俺と、そして向かいに座るネメアを見てフウカの顔が凍りついたように、固まった。


「い、いらっしゃいませ、ヨシカゲさん」


「よお、フウカ。俺、パンケーキとコーラ。こっちは……」


「あ、じゃあわたしも同じものを」


「だ、そうだ」


 フウカは俺とネメアを交互に見ている。その目が白黒して、ぱちぱちと古い活動写真のカットのように動く。


「あ、あの……そちらの人は?」


「人に見えるか?」


「あ、いいえ。あの……」


 フウカは小さな声になって、困ったような目をした。腑卵町が異常な町といえど、実際に怪異に触れたことのある住人は四割程度だ。そして、触れた者たちは決まって口をつぐむ。それは自分が体験した恐ろしい異常事態を一刻でも早く忘れ去ろうとする人間の防衛本能だ。怪異というのは、人間の脳にそういうふうに働きかける。


「まあ、どう見ても化物だよな。ネメアって言うんだ。本名かは知らん」


「失礼ね、ほんとうの名前よ。吸血鬼は偽名を名乗れないって、聞いたことない?」


「え?」


 フウカが、驚いたように口に手を当てた。


 その様子を見てネメアは嬉しそうにケラケラ笑った。


「ここだけの話、わたし吸血鬼なの。すごいでしょう?」


「まあ、吸血鬼なんてそう見るもんじゃねえな。それよりフウカ、早くパンケーキ作ってくれよ」


「ちょっと、せっかくわたしが自己紹介してるんだから」


「あのな、俺もフウカもキミのことなんてどうでもいいんだよ。とにかく早く甘いものを」


「いや、私はネメアさんのこと気になります」


「そうかぁ? ただの吸血鬼だろ。一山いくらの」


「あら、あなたったら。そんな悪態ばっかりついて」


「『あなた』! なんですか、その言い方!」


「ほっとけ、こいつが勝手に言ってるだけだ」


「ふふふ」


「ヨシカゲさん、説明をしてください!」


「説明もなにも、こいつが勝手に家にあがりこんできた。あの町長のやつが連れてな」


 俺は店内を見回す。時々、この喫茶店に町長がくることがあるのだ。今日はいないようだが。


「家に、あがりこんできた!」


「そうだよ、少しの間だって言うから泊めてるんだ」


 それが何かおかしい事なのだろうか?


「それより、はやくパンケーキを」


 フウカは分かりましたと、今にも倒れそうな様子で厨房に向かって歩いていく。


 そのフウカが厨房へ姿を消すと、ネメアが露骨にため息をついた。


「別にわたしの事を愛してくれて、他の女の子に辛くあたるのなら悪くないけどね」


「なんの話だ?」


「あなたの場合、本当に分かってないでしょ? 何も考えてないの?」


「考えても他人の気持ちなんて分からねえからな」


「そんな事ないわよ、現にわたしはフウカちゃんの気持ちが分かったわ」


「それは分かった訳じゃない。分かった気になっているだけだ」


 もう一度、ネメアはため息をついた。


「鈍感って言うよりは……酷い人間よ、あなたは」


「そうか」


 それから、パンケーキが来た。


 ネメアはそれを美味しい美味しいと食べた。


 俺はどうも、ネメアの言葉が気になっていた。いつもなら甘いだけのパンケーキの味が、どうも喉に引っかかった。酷い人間? 俺には何もないと思っていたが、酷い……。そういうものだけは、残っているのだろうか。


 分からなかった。


「ねえ、なにそれ?」


 無意識にいつもの通りの行動をとっていた俺は、ネメアの言葉に手を止めた。


「なにって、なにが?」


「それよ、そのグロテスクな食べ方」


「グロテスク……?」


「その食べ方よ」


 俺はなんの事だか分からない。俺の目の前にはパンケーキ。それにはバターとメープルシロップ。そしてとっておきのコーラがかかっている。


 なにもおかしくないし、ましてグロテスクな訳がない。


「その食べ方、もう見慣れてますから変だとも思いませんけど」


 フウカがもう一度、奥から戻ってきた。その手にはもう一つパンケーキが。自分の分だろう。彼女は俺の隣に腰を下ろした。


 新しい相席人を、ネメアは「いらっしゃい」と歓迎した。


「このコーラか?」


 確かにあまり見ない食べ方だろうが、グロテスクは言い過ぎだろ。


 俺は不満そうな顔をした。――こういう自己流のやり方を批判された時、人はそのように感じるのだろう?


「柔らかすぎるし、ベトベトだし、甘すぎるでしょう?」


「そもそもパンケーキは柔らかいし、ベトベトだし、甘くてなんぼだろ。なあ、フウカ」


「適度に、ですよ。ヨシカゲさんの食べ方じゃあやり過ぎです」


「なんだ、俺が悪いのか?」


 総スカンってやつか?


 女というのは怖い。すぐに結託しやがる。それとも俺の食べ方が本当におかしいのだろうか。


「そもそも、せっかく温かいパンケーキが冷たいコーラと合わさったら、変な温度になるでしょ」


「それは大丈夫」


「元々ヨシカゲさん用に常温で置いてあります」


「入念な男だよ、俺は。どうだ、食べてみるか?」


 一口サイズに切り分けたパンケーキを、ネメアの顔の前に突き出した。


 それをネメアはマジマジと見つめて、そして舌なめずり。口の周りを赤くて長い、湿った舌が一周した。


「良いの?」


 むしろ、女性であるフウカが息を呑んだ。俺はどこか傍観するように、どちらかと言えばパンケーキの行方だけに興味があったのだが。


 ネメアは、俺が突き出したパンケーキを、食べた。


「うん、美味しい」


「だろう?」


「だって、あなたとの間接キスだもの」


「そうか」


 何を言っているのか分からなかった。


「ほら、フウカも食べてみるか? お前も食べたことないだろ」


「え、あ……はい」


 ネメアのため息が聞こえた。


「まったく、あなたって人は……」


「俺は平等な男だよ」


「あ、美味しいです」フウカも食べて、笑顔になった。「たぶん、ヨシカゲさんと間接キスだからです」


「そうか」


 なんの事だか分からなかった。




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