016 夢の箱庭1
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深夜零時にチャイムが鳴る。
俺はまだ寝ていなかった。ベッドの上で独り、日課の読書にふけっていたところだ。
一度目のチャイムは居留守を決めこんだ。
夜中の来客は珍しい話ではない。毎日あるわけではないが、時々ある。だが、その殆どは面倒な案件なのだ。まったく、深夜の来客というのはコンビニのゴミ箱に家庭ごみを詰め込むような気軽さで厄介事を運んでくる。
だから、聞かなかったことにした。
それでも二度、三度とチャイムが鳴るとさすがの俺も無視を決め込むわけにはいかなくなった。何か急用という事もあるかもしれない。一年に一度くらい、本当にそういう時があるのだ。
退魔刀を腰にさし、自分の部屋から屋敷の玄関に向かう。
独りで住むにはどこまでも広い屋敷だ。昔はそうでなかったのだが。
「はいはい、誰だよこんな時間に」
外に出ると、まず目についたのは白いトヨタ・クラウンアスリートだった。その車には見覚えがある。正直面倒な相手だ。
「よぉ、退魔師。上がっていいか?」
経験上、目の前の三十がらみの男はこちらが断ろうとズケズケと中に入ってくることを知っていた。それでも最後の望みをかけるように、
「ダメだ」
と、言ってみる。
「冗談はよしこちゃん、ってな。大切な話があるんだ」
前半のつまらない言葉と、後半の大切な話という言葉が上手く一致しない。それでも、見慣れた男の後ろに、初見の女性の姿を認めたとき、これは面倒なことになりそうだと感じた。
一応、男は俺の上司、あるいは雇い主だ。意地をはることをやめて中に入れる。
ラウンジから右に少しいくと応接間がある。そこに二人を通す。
「それで、話って?」
俺と男が椅子に座っても、女性は遠慮がちに入り口付近に立っていた。
おそらく日本人ではない。顔立ちの雰囲気からそう感じられた。
珍しい髪色をした女性だった。その髪は石灰をかぶったように白い。俺の髪も天辺だけが白いが、俺の銀髪の透き通った色とはちがい、貧乏くさい鈍った色だった。
服装は秋らしい桃色のカーディガンだ。胸元に蝶々のようなリボンがついている。下は柔らかいプリーツの入ったフレアスカートだった。
「座れよ、立ってても話しにくい」
「お、退魔師もエスコートってもんを覚えたか?」
「うるせえ」
男――一応こいつはこの町の町長だが――はケタケタと笑う。
応接室には二人がけのソファが対面におかれており、その中心に豪奢なテーブルがあった。俺と町長は向かい合わせに座っており、女性は町長の隣に腰を下ろした。
「話というのはだな、退魔師」
町長はもったいぶったように、言葉を途切れさせた。俺は苛立たしげに舌打してし
まう。
「いいか、話というのはだな。この娘を預かって欲しいんだ」
「なんだと?」
意味が分からない。話の意図がよめなかった。
「お前なら気がついているだろう。この娘は完全な人間じゃない」
「そりゃあ、まあ。全部が全部完璧な人間なんていないからな」
俺も、そうだ。
だが町長の言葉がそういう意味ではないことも理解していた。
「その娘、人間と何かのハーフだな」
「厳密には、違う」
ほう、と俺はうなる。俺の五感と第六感を使っても見誤るような何かがこの世にいた。それは珍しいことだ。少しだけ、興味を持った。
だが、その興味もあることに気が付き、急速に薄れた。ちんまりと座る女性から、ほのかな血と瘴気が混じった臭いが漂ってきたのだ。
「おい、町長。あんまり変なやつを町に入れるな」
俺は女性の正体に気がついた。
「そいつ、吸血鬼だろ」
町長が不敵に笑う。その通り、という様子だ。
正体を見破られた女性は、立ち上がり頭を下げた。
「あの、ネメアと言います」
日本人女性にしては堀の深い顔。ここらへんでは見ない白髪、そして特徴的な濁ったバターのような色の目。「ギリシャ人か?」と、俺は聞いた。
こくり、とネメアは頷く。
それにしても日本語が流暢だった。
「お願いします。わたしを、ここに住まわせてください」
「断る」
「たのむよ、退魔師。俺からもさ。そんなに長い間じゃないから」
「どうしてここなんだ。意味が分からない」
「その理由は俺の口からは言えないなあ。彼女からおいおい聞くと良いよ」
「ふざけるな、ここは俺が独りで住む屋敷だ」
「今日までは、な」
「今までも、そしてこれからも、だ」
話は平行線だった。
町長は俺の給料を減俸にすると脅してきたが、俺は別にそれでもいいと断った。すると今度は泣き落としに入られた。この娘の両親は事故で他界して――とかなんとか。それでも断ると人でなしと罵られた。その通り!
「退魔師、ちょっとこの娘の顔を見てみろよ」
「綺麗な顔だな」
ネメアの頬が赤くなった。
「ったく、お前は真顔でそういう事を言う。そうじゃない。可哀想な顔をしているだろ」
「そりゃあ、日にあたれない吸血鬼はどうしても不健康になりやすいからな」
「そういう意味じゃなくて、今にも泣き出しそうだろってことだよ!」
そうだろうか? そうかももな。
確かにネメアは顔をうつむけて、借りてきた猫のように体を小さくしている。
「彼女も今日からこの町の住人だ」
それを言われると弱い俺だ。だが、
「俺は、吸血鬼が嫌いなんだ。この町の住人な以上なにかあれば守ってやる。それと屋敷に住まわせるってのは違う話だろ」
「彼女にとって、この家に住むことが守られるということなんだ」
「わからないな」
「おいおいさ」
何だか上手く丸め込まれてしまった気もする。
市町村の長として、全国でも異例の若さの町長は、その出身家庭の地盤もさることながら純粋な実力で選ばれたというのも頷ける。時々であるが、その優秀さの片鱗を見せる。
俺はやれやれ、と頷いた。
「本当に少しの間だけだぞ」
「ああ、そうだ。少しの間だ」
その言葉に、俺はなんらかの違和感を覚えた。
「よろしくお願いします」
だがネメアの照れくさそうな、それでいて嬉しそうな笑顔にそれまでの違和感がどうでも良くなった。
ふん、と俺は鼻を鳴らす。俺もこれくらい純粋に笑えればな、と思った。
町長はこれで話は終わったとばかりに、立ち上がる。
「帰るのか?」
「わるいな、明日も早いんだ」
「ふん、むしろこんな時間まで仕事してたって言うのが信じれねえよ」
「会食だって仕事のうちさ。そうだ、今度お前も連れて行ってやるよ」
「どうせ女の子のいる店だろ」
「馬鹿、普通の料亭だよ。まあ、それもおいおいな、連れて行ってやる」
町長が部屋を出ていく。俺はネメアとかいう吸血鬼と一緒に町長を見送る。閑静な住宅地に、町長の車の排気音だけが響く。
来るのも突然だし、帰るのも突然。
「おいていかれたな」と、俺はネメアに言った。
「はい」
「とりあえず、今晩は泊めてやる。さいわい部屋は無数に余ってるからな」
俺独りで住むには、この屋敷は広すぎるのだ。むしろ後十人くらい人が増えたって良いくらいだ。それでも、自分の居住に分けの分からない闖入者が増えるのはあまりいい気分ではない。
寝首をかくつもりはないだろうが、俺は目の前の気弱そうな吸血鬼を信じられなかった。
客用の部屋は二階だった。
屋敷に入ってすぐに、広いエントランス・ホールがある。左右には通路が分かれており、中央には階段がある。階段は踊場で二手に折り返され、二階へと続く。
その踊場に、一枚の巨大な絵が飾られていた。
深い夜の間に降り積もった、純白の雪のような髪色をした女性の絵だ。見る者に感嘆の溜息をつかせるようなその絵は、俺の母親を描いたものだ。肌は気持ちよく桃色に描かれているが、本当はもっと白かったのを俺は知っている。目はガラス細工のように透き通って表現されているが、本当はもっと宝石のように世界中の光を映していた。口元はただマネキンのように無表情だが、俺にはよく笑いかけてくれた。
百人が百人振り返るような美人の母だったが、この絵ではせいぜい十中八九というところだ。だから俺はこの絵があまり好きではなかったが、母を身近に思い出せるようなものはもうこれしか残っていなかったのでいつまでも階段の踊場に飾っていた。
「綺麗……」
ネメアは踊場で足を止めて、母の絵を食い入る様に見つめた。
「そうかい?」
母を褒められて嫌な気持ちはしなかった。
「はい。この方は?」
「俺の母親さ。もう死んだ」
そうですか、とネメアは申し訳なさそうにうつむいた。
別に謝らなくても良いのだ。母は死にたくて死んだのだから、子供の俺がとやかく言うものではない。母は俺の母である前に一人の女性だった。ただそれだけだ。後に残された者の気持ちなど考える余裕はなかったのだろう。
「こっちだ」
俺は飾られた絵から逃げるように、二階に登り、手近な部屋にネメアを入らせる。
窓があり、ベッドがあり、天井には灯りがあり。小さな本棚があったが、本はなにも入っていない。その本棚の上にホコリをかぶった花瓶もあったが、花はいけられていない。そんな殺風景な部屋だった。
「トイレは突き当り。俺は下の部屋にいるから、何かあったら来い。この部屋、時計がないな。いるか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。明日の予定はあるか? もしあるのなら起こしに来てやるぞ」
ネメアは少し笑った。
「優しいんですね」
「ふん、願わくば俺が起こしに来てこの部屋がもぬけの殻だと良いんだがな」
別に照れているわけではない。本気でそう思っているのだ。
「明日の予定も、明後日の予定も、なにもないです。だから大丈夫です」
「良いご身分だな」
少し気を悪くしたのか、ネメアは頬を膨らませた。
そういう子供っぽい仕草はぶりっ子にも見えたが、彼女の可愛らしい服装と相まってどこか親しみの持てるものだった。先程の母の絵を褒めてくれたことからも、俺はこの吸血鬼にガラにもなく好感を持った。それが、好感と呼べるものかは不明だが。
それにしてもマイナスが子供の歩幅、ゼロに近づいた程度だが。
「別にそんなんじゃありませんよーだ」
「そうか。なんにせよ俺はもう寝る。悪いが明日も学校なんだ」
別に真面目に行っているわけでもないのだが。
「あ、あの」
部屋を出ていこうとする俺を、ネメアが呼び止めた。
「なに?」
「ありがとうございます、見ず知らずのわたしを泊めてくれて……」
「べつに。ただ、あんたもこの町に住んでいる以上、俺はあんたを助ける。それだけだ」
ようするに仕事だからやった。
俺はこう見えて仕事熱心なんだ。
ネメアはまだ何か言いたそうだったが、俺はさっさと話を切り上げて自分の部屋に戻った。いいかげん眠りたかった。
面倒なことになったと思ったが、本格的にどうすればいいかは明日考えれば良いと思った。
ベッドに潜り込み、先程まで読んでいた本をもう一度ひらいてみる。どこまで読んだか忘れてしまい、少し思い出そうとしたがすぐに諦めて本を閉じる。
気がついたらそのまま、眠りの中だ。
俺は生まれてこの方、夢というものを見たことがない。そんな事は自慢にもならないが。
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