012 回転木馬のサン=テグジュペリ4
3
本格的な夏が来た。
今までの暑さがすべて前哨戦だったとでもいうような、連日の猛暑日だった。
しかも日が出るわけではないのだ。曇り空で、ジメジメと蒸し暑く、そのくせ雲の切れ間からは刺すような日光が我々を焦がすように降り注いだ。これが腑卵町の悪いところだ。簡単に晴れなどおがませてくれない。
ひとたび家から出れば体が溶けてしまうのではないかと思えるほどの暑さの中で、しかし俺は『サライエボ』に行くことを決心した。家の備蓄は切れ、何か買い出しにも行かなければならなかったし、何よりも一人で広大な屋敷にこもっているのに飽きていたのもある。
ショッキングピンクのカットシャツを着込み、下には黒のチノパンを履いた。いつもの竹刀袋だけを手に持ち、チノパンのポケットには右に財布、左に肝油の缶を入れた。
「一日ひとつまで」
独りで呟きながら、缶から飴とグミの中間のような食感の肝油を取り出す。どちらかと言えばビタミン剤のようなものだ。小さい頃、母親が一日一粒だけ肝油をくれた。三時のおやつにだ。
大人になったら、たくさん食べるのだ。そう思っていた肝油だが、いざ大きくなってみるとそんなに美味しいものに思えなかった。それでも、日に一つはどうしても食べてしまう。
この前そのことをフウカに話すと、食べて事がないから味が気になると言いだした。せっかくだからおすそ分けのつもりで缶ごと持っていくことにした。
たぶん、普通の人間ならば近所付き合いとはこうするのだろう。
『ノモンハン』は俺の住む屋敷から徒歩で五分たらずの場所にある、裏通りに面した二階建ての喫茶店だ。
一階は駐車場になっており、三台分のクルマが停められるがいつもフウカの母親の軽四自動車が停まっているため、実質的にクルマは二台しか入れない。
腑卵町は車社会の田舎町であるため、その店の格というものを駐車場の広さで何となくつかむことができる。『ノモンハン』は、つまりその程度の喫茶店だ。
アーチ状の天井をした、細い階段をのぼる。その先には絢爛なドアがある。それを開ければ、いつものように幼い――それでいて大人びたフウカが出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
フウカは俺を認めると、その営業スマイルを年相応の可愛らしい微笑みに変えた。
「ヨシカゲさん、いらっしゃいませ」
俺の名前をわざわざ呼び、言い直す。
「ああ」
席に案内されることもなく、俺は顔パスで一番奥のボックス席に座る。四人がけだが、客は俺一人なのでどれだけ空間を贅沢に使おうと文句は言われない。そのうち潰れるんじゃないのか、この店。と、俺は思う。
「そのうち潰れるんじゃないですかね?」
フウカも同じことを思ったようだ。
「普通そういうのは思っても自分で言わないものだろう」
「あ、ヨシカゲさんでも分かります?」
「キミは俺を何だと思ってるんだ」
「血も涙もない人非人ですよね」
「間違っちゃないけどね」
俺はコーラと、チーズケーキを注文する。
「さっき焼いたばっかりなんですよ」「そりゃあ良い」「今回のは自信作です」「この前のは形が悪かったからな」「誰でも最初は失敗がつきものです」「味は良かったぞ」「うふふ、ありがとうございます」「で、今度のは形も良いと」「味よし、形よし、器量もよしですよ」「そうかい」
フウカは俺の正面の席に座った。
一応、仕事中のはずだが。
彼女は机の上に、夏休みの宿題を広げだした。『サマー・オブ・フレンド』。英語のドリルだ。
「それ、面白いか?」
「面白いからやってる訳じゃないですよ」
「偉いな。でも、面白くないならやらなくてもいいと思うぞ。どうせそのうち大人になれば、面白くないことばかりやるハメになるんだ。やらなきゃいけない事がやりたい事とは限らない」
「後でやりたいことをやるために、今やりたくないことをやるって考えもありますよ」
「そうだな。だけど俺の信条は、後でできることは後で、今しかできないことは急ぎたくないからやらない、だ。どうせ本当にやらなくちゃいけないことは、泣いても喚いても、笑っても怒っても、走ってもすっ転んでも、いつかやらなきゃいけねえんだし」
「退魔師の仕事は大変ですか?」
「大変じゃあない。どうせこれで」そう言って、俺は竹刀袋をやれやれというように掲げてみせた。「切り捨てるだけだ」
「じゃあ何がそんなに不満なんですか?」
「別にそう不満なんてないさ。キミはそのドリルをやるのに不満があるのかい?」
「ありますよ、どうして私がこんなことやらなくちゃいけないんだ、って」
「なら、俺もそれだ」
フウカはわからないですと、いうように首をかしげるとドリルに目を落とす。その口元に、小さな嘆息が浮かび上がった。
「どうした?」
「学校に行かなくて良いのは楽なんですけどね」
「まあ、夏休みだからな」
「はい。けどやっぱり、ニワトリさんたちは可哀想です」
「すまん、なんの話だ?」
俺は訝しげにフウカを見つめる。
「え? あ……もしかして聞いてないんですか?」
「聞いてない? 誰に」
「あの、町長さんとかに」
「町長――」俺は、嫌な名前を聞いて顔をしかめてしまう。「なんだ、町でなにか問題があったのか」
「あの……中学校の小動物小屋の動物さんたちが、いなくなったんです」
「いなくなった?」
いや、これが違う。そういう意味じゃない。言葉をそのまま受け取るな。これは人間特有の歪曲表現だ。その真意は――。
「殺されたのか?」
こくり、とフウカは頷いた。
俺はやれやれ、とため息をついた。
「お前らは俺がペットの捜索くらいしか仕事のない、ご近所トラブル限定の探偵だとでも思っているのか?」
「そんな事ないですけど……」
「はぁ。ご近所トラブル限定っていうのは当たってるけどな」
「犯人、捜してくれないんですか……?」
今にも泣きだしそうな濡れた目で見つめられる。
そんな真っすぐな、裏表のない目で見つめられると、俺は俺の裏側まですべて見透かされたような気がして言葉を出せなくなる。そうだ、俺は他人に見つめられるだけで底が見えるような、浅い人間なのだ。
そして、そんな浅い人間である俺は、人を助けるという八方美人な善行にすがるのだ。それをしている間だけ、俺の存在はこの町で認められる。それが、退魔師というものだ。
「分かったよ、ったく……」
「ありがとうございます!」
「そりゃぁな、明日からここで食べる甘露が涙で塩辛くなられても困るんでな」
俺はポケットに入っていた肝油の缶を取り出す。その口をあけてやり、中から一つだけ肝油をとりだす。ほら、とフウカにあげると、フウカはそれを美味しそうに口にふくんだ。
「私ね、思うんですけどヨシカゲさんは血も涙もない人じゃないですよ」
「当たり前だろ」
俺は、顔をしかめてしまう。自分でも珍しいと思った。マネキンじみた顔――無表情と言われることは多い俺が、だ。
「俺だってこれでも一応は人間だぞ」
「そうですね」
本当に思っているのか。俺はフウカの真意がわからない。
もしかしたら彼女も俺のことを、ただのバケモノと思っているかもしれない。そうだとしても、どうでもいいのだが。
「じゃあ、行くか」
机の上に小銭を置く。
「え?」
「だから、その畜生どもを殺した犯人探しにだよ」
「今からですか?」
「まあ、アテがないわけじゃないからな」
「あ、あの!」
フウカはなにやら決心したように思い切って言った。
「どうした?」
「私もついていってもいいですか」
俺は少し考える。別に断る理由もなかった。
だが、フウカはどうして俺についてきたのだろうか、別に面白いことをするわけでもないのに。女の子は奇々怪々だ。俺には何を考えているのかさっぱり分からない。
俺が了承すると、フウカは「五分だけ待ってください」と店の奥に入っていった。
別に聞き耳をたてたわけではないのだが、声が聞こえてきた。
「お母さん、起きてください」
フウカの焦ったような声。
「今からヨシカゲさんと遊びに行きますから」
もちろん遊びに行くわけじゃない。どちらかと言えば仕事だ。
「ですから店はお母さんが見ててくださいね」
唸り声とも寝言ともつかない曖昧な返事がして、それでフウカは良しとしたのだろう。パタパタと軽快に小走りで、店内へと戻ってきた。
「ヨシカゲさん、準備万端ですよ」
「そうか」
俺は竹刀袋を持つと『サライエボ』の店を出た。
フウカは最初、細い階段で俺の後ろを歩き、通りに出たら俺にひたとくっついてきた。まるでそう、恋人のように。
俺は床に落ちた飴玉でも眺めるように、フウカを見つめた。歩きにくかった。
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