010 回転木馬のサン=テグジュペリ2
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「ちゃんと就職する気があるのか!」
担任教師の怒号が、職員室の中に響き渡る。
周りの教師がなんだなんだ、とこちらを見る。俺はその視線をいなすように、無表情だった。
その顔に苛立ったのか、教師はさらに声を荒げる。
「そもそもお前は学校も無断で欠席して、やる気がないのか!」
「無断で休んだことはないですよ、いつも連絡はする」
「俺がいつ許可した!」
「休むことに対する許可なんて、先生からはいらないでしょう」
目を見開き怒鳴り散らす教師はどこか滑稽に見えた。口の端につばが溜まっている。まるでカニの泡だ。変だなぁ、と思っていると教師は自分の話をきちんと聞けとデスクに自分の拳を叩きつけた。
それで、また視線がこちらに集まる。
「まあまあ」と、他の教師が止めに入るが、担任教師――
油田の担当科目は体育で、体格もよく、他の教師も強くは出られないらしい。すごすごと引き下がり、俺への説教はまだまだ続きそうだ。
「お前は高校二年の夏ってのがどれだけ大切か分かってるのか」
「夏は大切ですよね、俺の誕生日がある。けれどそれは毎年の話です」
「そういう意味じゃない!」
「ええ、まったくです。でも、俺が言いたいのはですね……あー、夏というのは毎年大切なものです。毎年の夏が違う夏で、それはそれぞれが太陽の光を反射するプリズムのように光り輝いています」
「お前というやつは――」
油田は思わず立ち上がり、これも思わずといった感じで手を振り上げたがすんでのところで理性が働いたのか、殴る事だけは止めた。だが、振り上げた手をそのまま下すことはできなかったのだろう、苛立たし気に薄くなりつつあるその頭を掻きむしった。
「せめて進学するか就職するかくらいは決めろ」
「この町に大学は一つもないですよ」
「どういう意味だ?」
「そういう意味ですよ」
話は平行線だった。
俺の言葉を油田は理解しようとしないし、俺も理解させようという気など毛頭ない。そもそも油田はこの町の出身ではない。隣の市から毎日車で三十分もかけて通っているのだ。腑卵町に住んだことのない人間に俺のことは分からない。
油田はもう一度腰を下ろすと、諦めたように俺に『進路希望調査』と書かれた紙を出してきた。
「来週までに、これに進路を書いてこい。具体的でなくてもいい、進学か、就職かくらいは」
「来週って、もう夏休みですよ? それに進路なら言ったじゃないですか、強いて言うならば就職です。俺には仕事がありますから」
「バカにしているのか!」
「いえ、大真面目です」
夏だというのに職員室の冷房は地球にやさしい温度に設定されており、油田のシャツの胸元には汚らしいシミがついていた。
俺はそれを見て、自分はどうだかと思って頬を触ってみた。冷たい肌をしていた。汗腺が壊れてしまったのかもしれない、汗の一滴もにじみ出ない。涼しい顔をしている。
「あんたは」と、俺は最後のつもりで口をひらいた。「この町の人間じゃないから」
自分に理解できないことを言われたからだろうか、油田は俺をつよい視線で睨んできた。どうみても教師が生徒に向ける視線ではなかった。それは憎しみに近い目だった。
「お前らはいつもそうだ、俺たち年長者をバカにして、自分だけが賢いと思ってるんだろ」
「いいえ、違います。賢い人間は他人の気持ちを汲める人間です」
「でもな、俺から言わせりゃあお前なんてガキだ。どうしようもないクズなガキなんだよ」
「……先生が高校生の頃はどうでしたか?」
「お前よりは利口だったさ、少なくともな! お前、こんなふうに教師に口答えして、どうなるか分かってるのか」
「口で答えなくてどうやって答えるんですか。筆談がお望みですか?」
「お前、覚悟しておけよ! 就職にしろ進学にしろ、そうとう厳しくなると思えよ!」
「先生、それ、脅しにしか聞こえませんよ」
「お前みたいな奴を慇懃無礼と言うんだ!」
「あのですね、先生――」
それ以上言葉を続けるのは辞めた。どうやらもう話にならないらしいと俺は思った。おそらく、油田の方も同じ気持ちだろう。ただ感情のままに暴言をぶつけているだけだ。
だが、油田の言うことも最もだった。若い時分はとかく大人というものをバカにしたがるものなのだ。それはたぶん、自分が大人になるという未知の通過儀礼が恐ろしいからだ。だから、自分の手の届く範囲の大人を捕まえて、夏休みの自由研究でつくる標本宜しく自分の見える部分だけの剥製をつくり観察するのだ。ほら、ここはこんなに醜い、少し嫌味を言われるだけで激高する、マジになっちゃって大人なのに恥ずかしい。なんだ、大人ってこんなにバカなんだ。
けれどそれは、子供の物差しでみた世界の大人だろう。
本当はもっと美しい部分もあるはずだ。酸いも甘いも噛み分けて大人になっているのだ、虫眼鏡じゃあ見えない、顕微鏡でしか確認できないような素晴らしさもあるはずだ。
「なにか言いたそうな顔だな!」
「いいえ、もうなにも」
だが、目の前の男が美しいかと言われれば、それは疑問だった。
早く話が終わらないだろうか、そう思いながら天井のシミでも数えようと思っていると、職員室に新しい客が入ってきた。
「失礼します」
少し気の強そうな、芯のある女性の声だった。その声はよく通り、職員室の隅の方で話しをしていた俺達の耳にも入った。
「あの、油田先生、今度の発表の原稿を持ってきました」
「おう、
油田は横柄に答えると、その女子生徒を招き入れた。
湯川は足早に近づいてくる。俺を見て少しだけ会釈をした。俺は無視するように目をそらす。
「どうぞ、先生」
「ああ、確認しておく。ちなみに出来はどうだ?」
「はい、バッチリだと思います」
二人は発表会だとかいう、もよおしの話を初めた。
じゃあ、俺はこれでとは言い出せずに何だかんだで隣でその話を聞いていた。どうやら湯川は今度、校外で意見発表をするらしい。もし出来が良ければ全国大会もあるそうで、一体なんの発表なのかは分からなかったが、湯川の熱意だけは伝わった。
自分意見を他人に発信できるのは良いことだ。それが例え間違った考えであっても、何も言わない人間よりは良い。そして、その間違いは時として正解として受け入れられることも有る。それは言い方次第だ。
二人の会話は和やかだ。ときに笑いも起こる。なんだか油田の顔にはゲヒた笑顔が張り付いていたが、湯川は気にしていないようだ。
「では、これで失礼します」
お、話が終わった。
俺も帰ろう。
「ほら、朝倉くんも行きましょう」
渡りに船とはこのことだ。お言葉に甘えて――「では、俺も失礼します」
「おいちょっと待て、朝倉! お前、進路希望調査書をきちんと持っていけ!」
「あぁ、それならもう書いてありますんで」
俺はそう言って、職員室を湯川と出ていこうとする。
「どこに書いてあるんだ!」
と、条件反射のように叫んだ油田は、しかしその後の言葉を続けられなかったようだ。なぜなら、先程まで白紙だった進路希望調査書に、しっかりと俺の字で進路が記入しておいたのだ。
そこにはただ簡潔に、
『退魔師』
と、書いておいた。それが俺の職業だからだ。生まれたときから、そして死ぬまで。
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