009 回転木馬のサン=テグジュペリ1
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背の高いタンブラーに入ったコーラが溶け出し、氷がコロンと軽い音を立てた。
パタパタと小気味よい音をたてて天井で回っているシーリングフォンに飾り以外の意味はあるのだろうか? 部屋の空調を支配しているのはどう見ても壁に備え付けられる、タバコの火で燻られた茶色いエアコンだ。
「良いなぁ」
と、カウンターの向こう側で小さなフウカがもらした。
「高校はもう来週からお休みなんですね」
「まあね」
俺は素っ気なく答えて、紙ナプキンでタンブラーの周りについた水滴を拭いた。麻倉ヨシカゲという男は、こういうのがどうしても気になってしまう性格なのだ。
「中学校は再来週まで学校ですよ。どうしてですかね?」
「そりゃあキミ、中学は義務教育だからだよ。高校は違う。ようするに商売――ビジネスだ。ビジネステイクな関係において、消費者のニーズに応えることが何よりも生産者の利益につながる。だから高校って場所は消費者、つまり生徒に休みをいっぱいやるのさ。大学に行けばもっとこの関係が露骨になる」
フウカは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。大人びて精巧な顔立ちの少女だったから、そんな様子も何だかドラマの中の名子役のようで様になる。
「ヨシカゲさんの言うことは難しくてよく分からないです」
「分からなくても良い。どうせ嘘八白の戯言だ」
「そうなんですか? 真面目に聞いて損しました」
俺はフウカの言葉を真顔で聞き流し、コーラに口をつける。そして、一つ思い出したように、
「ああ、そうだ。さっき言った話は相手と自分の関係が対等なときだけだぞ。契約というのは恐ろしいものでな、契約する方、つまり消費者が一方的に有利になることはないんだ。双方がウインウインか、あるいは消費者が一方的に損をする。フウカも気をつけろよ」
無表情な言葉で、どれだけフウカにそれが響いたか。
喫茶『サライエボ』には客の姿は俺一人だ。店員はフウカしかいない。店主であるはずのフウカの親は、奥で何かをしているのか、もしくは家を開けて留守番宜しくフウカに店を任せているのか。
「でもわたし、夏休みの間も学校に行かなくちゃ行けなんですよ」
7月も中旬が近づいてきた。この時期の学生の頭の中といえば、夏休みのことばかりだ。
「なんで?」
フウカはうふふ、と目を細めた。少し照れたような、そんな感じだ。
「動物委員会なんです。だから世話をしに行かないと。朝の七時にですね、餌をやりに行くんです。ウサギちゃんを飼ってるんですが――」
ウサギちゃん? と、俺は心の中で首をかしげる。どうしてウサギに敬称が着くのだろうか。女は不思議だ。いや、俺にとって自分以外の全ての人間は不思議だったが。
「良い子たちなんで、一日に一度エサをやればきちんと次の日まで割り振りして食べるんですよ」
「へえ、そうかい。でも大変だな。朝は動物の世話、夜は酔っ払いの世話か」
「それに加えて日中は糖尿病予備群の世話もあります」
「なるほど」
それにしても注文したはずのフレンチトーストはまだできないのか、そう思っていた矢先、トースターが甲高い音をたてた。フウカはテコテコと移動して皿を取り出すと、その上にこんがりと焼けた――少しだけ焦げ目がついている――トーストをのせ、その上にバターを塗りたくり蜂蜜をたっぷりとかけた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「虫歯になりますよ」
「ならないんだよ」
俺はフレンチトーストにかぶりつく。パンから染み出る蜂蜜で口の中がいっぱいになるが、それをコーラで無理やり流し込んだ。喉の奥が熱くなるほど甘い。その熱さが冷めないうちに二口眼を頬張る。
フレンチトーストを食べていると、カランコロンと甲高い音がして新しい客が入ってきた。入口のドアにかけられた鈴がなるたびに、フウカは「いらっしゃいませ」と少し無理したような、ぎこちない笑顔で言うのだ。
入ってきたのは初老の男だった。いかにもベテランの営業周りという風体で、しっかりと手入れのされた二世代は前のスーツを上品に着こなしている。髪はところどころ白くなっているが、大半は黒く染色されていた。手には大きめのカバンを持っていた。
男は店内に入ると、胸のポケットからハンケチを取り出し、頬に浮かんだ汗をふいた。
「ふう、今日は暑いね」
一見偏屈そうに見えるが、笑うとどこか、人の気をなごませる雰囲気のある男だった。
「そうですね。どうぞ、好きにおかけになってください」
男はカウンター席に座る俺に軽く会釈をすると、入って一番手前のボックス席に腰を下ろした
ここには三個のボックス席と、五脚のカウンター席がある。週末の夜になればたいてい近所の飲んだくれで埋まるが、昼はたいていガラガラだ。
男はフウカに手早く注文をすると、喫茶店の雑誌置場に入っていた今日づけの新聞を読みだした。
「だれ?」
と、俺は小声でフウカに聞く。
「星の王子さまです」
「サン・テグジュペリか?」
昔、そういう作家がいた。ここではない場所に憧れて、地べたで文字を書き、空で死んだ飛行機乗りの作家。
「もう、冗談ですよ。本当は星野さんって言うんです。星野オジサンだから、お母さんがよく星の王子さまって呼んでたんです」
「おやじギャグだ」
「つまらないですよね。つまらなさすぎて笑っちゃいます」
だが、フウカの笑顔は朗らかだった。どうやらそのあだ名を気に入っているらしい。確かに、ボックス席に座る初老の男性はどこかフランス生まれだった彼の作家に似た、精悍で朴訥とした老いの美学が感じられた。
――老い、か。俺もいつかは歳をとるのだ。そうなれば髪は今のようにまだらな白さではなくなり、目は落ちくぼみ、頬はこけ、歯は抜け落ちるだろう。俺の美しさはやがて過去のものとなり、雨風にさらされて白い痕跡を残したブロンズ像のようになるだろう。
俺は自嘲気味に思い、フレンチトーストを腹の中に収めた。
「帰る。金、おいとくぞ」
フウカに簡潔に伝えて、唯一の荷物だった竹刀袋を持つ。中に入っている段ビラの重さを感じながら、俺はうんざりした気持ちでそれをぶっきらぼうに肩に担いだ。
「はい、また来てくださいね」
星の王子さまの横を通り過ぎていく時、俺は彼に一瞥をやった。星の王子さまは新聞に集中しているのか、まったくこちらを気にしていなかった。
俺はその男を見て、言いようのない違和感を覚えた。それがどういったものかは理解できなかったが。考えるのも面倒で、俺は気のせいだろうかとそのまま店を出たのだった。
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