008 退魔師8
5
ずっと長いこと怒っていた。
駄々をこねる子供のように。
自分勝手な独裁者のように。
それは泣いているのと同義。
自分の思い通りになってほしいと、叫び続けるのと同様。
気がつけば自分はただ独りだった。元あった居場所もなく。ただ、体に重りをつけられたかのような不思議な感覚だけはあった。その重りのせいでどこにも行けなくなっていた。自分というものが嫌いで、同時にそんな自分を怒らせる周りの世界も嫌いだった。
自分は父親に捨てられてしまったのだ。
ここはリンボ――死んだわけではないので天国でも地獄でもない。ただその中間の、限りなく無意味に近い場所だった。
この場所で百合人はある少女に出会った。可愛らしい女の子だった。そして、退魔師の男にも出会った。精巧な人形のように美しい青年だった。
退魔師の青年には感謝している。嫌いだが、ありがとうは言うつもりだ。
だけど、どうせまたすぐに自分は独りになるのだ。そんな諦めがあった。なぜなら自分は、父に捨てられて居場所がないのだから。
目を覚ますと見知らぬ天井が見えた。
辺りを見回すが心当たりはない。綺麗に整頓された部屋だった。家具は殆どなく、百合人が寝ているベッドと、腰までの高さくらしかない二段の本棚。それと背もたれがほぼ直角の木製の椅子だけだった。
座り心地の悪そうな椅子に、ヨシカゲが座っている。手にはなにか小難しそうな分厚い本を持っていた。日本語ではないようだ。
「起きたのか」
まったく百合人の方をみようとせずにヨシカゲが言った。もしかしたらこの人には目が無数についているのではないかと、そう思えるほど微動打にしなかった。それでもどういう訳か、百合人が起きたことは分かるようだ。
「すいません、僕、倒れちゃったみたいで」
「気にするな。人生なにかにけつまずいて倒れ込むこともある」
その抽象的な物言いは、もしかしたらロマンチックなつもりなのだろうか、と百合人は苦笑いを浮かべた。そして、自分が笑っていることに驚いた。今までならばここで怒り出しているところだった。
「大事なのはけつまずくときに前の目に倒れることだ。そして、きちんと手をつく。そのためにはポケットに手をいれてたらダメだ。腐って歩いているやつは、倒れたら怪我をする」
ヨシカゲは続けたいだけ続けると、それで全ての会話が終わったかのように黙った。
まるで蓄音機の電源がオフになったようだ。
しょうがないので百合人はこちらから声をかける。
「あの影はなんだったんですか?」
さっきの感謝もあってか、百合人の口調は敬語だった。
「ただのドッペルゲンガーだ。お前の心に堆積した負の感情が、形を持っただけさ」
「負の感情……」
そもそも始まりはなんだったのか。やはり父だろうか。母のいない父子家庭で、父は仕事に忙殺されて百合人に構うことはなかった。それが寂しかったのだ。百合人はまだ中学二年生になりたての子供なのだから。
「父親のところに帰りたいのか?」
まるで心をよんだようにヨシカゲが言ってくる。ギョッとした。
「なんで……」
「ったくよ、老人ってのは朝が早くて困るよな。人がせったくスヤスヤ寝てるのに、叩き起こしやがってよ。分かるか? お前のじーちゃんだよ」
「祖父が?」
「ああ。どうにか助けてほしいって。お前のことも、いろいろ聞いたよ」
「祖父が頼んでくれたんですね」
「良いか、一つ言っておく。ドッペルゲンガーは俺が切り捨てた。だけどな、ここからはお前次第だ。お前が負の感情を持ち続ければドッペルゲンガーはまた現れる。だからお前次第だ」
それから、ヨシカゲは何かを考えるように、本を閉じて、そして百合人の目をしっかりと見つめた。ガラス玉のような目で見つめられて、百合人はたじろぐ。自分の全てが見透かされたような気がしたのだ。
だが、ヨシカゲは思いの外、優しい口調で言葉を続けた。
「前いた町に逃げ戻っても、どうにもならんさ。この町は暗い場所だが悪いところではない。住めば都って言うだろう? それとなお前の父親はたぶんお前を見捨てたわけじゃないと思うぞ」
「どうして?」
「あれはこの町の出身だ。退魔師を頼ってお前をこっちに送ったんだろう」
「あなたを?」
「あるいは、俺の父か祖父を」
父、と言った瞬間だけ、彼は忌々しそうな表情をしてみせた。
だが、百合人はヨシカゲの変化になど気づかずに、自分が独りではないという事実に安心して笑った。
そうだったのか、父は自分を見捨てていなかったのだ。そんな考えは今まで一度も持たなかった。
百合人はホッとした。どうやらもう、ドッペルゲンガーは出てこなさそうだった。
そんな百合人を見て、ヨシカゲはポツリ、
「ガキ」っと呟いた。
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