陰湿な
日は傾いても、真っ黒なアスファルトは昼間の残り香を放出し続ける。何が言いたいかというと、昼間の熱が残っていて、とりあえず暑い。すれ違う誰もが額に汗を浮かべて、あわただしく動いている。
偶然にも、帰る方向が一緒だった僕と成田美鈴は、とりとめもない話をしながら桜並木の中を肩を並べて歩いた。
朝からずっとセミを追い続けていたのだろうか。朝見た少年はまた虫取り網を振り回していた。成田美鈴は、暑いのによく頑張るねぇ、と感嘆の声を上げていた。母親の姿は周りを見渡してもどこにもない。おそらく、都合上、子供に付き合っていられなくなり帰宅したのだろう。保護者として、一人にするのはどうかと思うが、ここは車道と歩道が完全に別離され、人通りもそこそこあるため、事故にあったり、犯罪に巻き込まれたりする可能性は極めて低いといえるだろう。虫捕りをする少年を片目に、僕と成田美鈴は、まだ温かい路肩のベンチに腰を掛けた。
「聞いてもいい?」
自動車の音や少年の悔しそうな声が聞こえる中、成田美鈴が静かに口を開いた。聞いてもいいかと聞いてくることから、何か重要な話かもしれない。無言で津図けるように促す。
「千葉君が、死神ってどういうことなの?」
やっぱりか。柴田などが、成田美鈴に接触した時から嫌な予感はしていた。
『死神』
それがクラス内での僕の認識だった。死をつかさどるもの。言われ始めた当初は戸惑いもしたが、今では、こんな僕にお似合いの呼び名だと思っている。
「うん。僕は、死神だ」
だから―― と続けようとしたとき、視界の端で、セミが飛び立つのが見えた。それを追いかけて、少年も走り出した。セミは低空飛行のまま少年との距離を広げ、それは許さないとばかりに少年も全力で追いかけている。小さいころにやった追いかけっこみたいだと思い、話を続けようとしたが、成田美鈴は、急に立ち上がると少年の駆けていった方に焦った顔をして走り出した。何があったのかと、茫然としたが、状況が理解できると、僕もその後を追って走り出した。
なぜ走りがしたのかはわからない。いわゆる、おそらく直感というやつだろう。危険な目に遭うかもしれない人を見て見ぬ振りできるほどに、僕は非情にはできていない。
少年は、車道に飛び出す前に、成田美鈴に保護されていた。大型トラックが目の前の車道を猛スピードで走り去っていった。最初こそ、何があったか状況を飲み込めずにいたようだったが、整理がつくと、涙を浮かべながら、ごめんなさいとつぶやいた。泣きそうになっている少年を成田美鈴は慰め続けていた。
そんな中、僕だけは、少年が助かったのはもちろん安心したが、違うことに意識を取られていた。
「なんで、僕はこんなにも」
小さなつぶやきは、自動車の騒音にかき消され、だれにも届くことはない。しかし、かみしめた唇の痛みは、後悔となり、無力感になり、僕を苛なみ続けた。
大手を振りながら去っていく少年に、成田美鈴も笑顔で手を振りかえしている。その姿は、過去に零れ落ちた未来の姿を表しているようだった。もし、成田美鈴がいなかったら。そんなこと、考えるまでもないだろう。彼女は、勇気で小さな命を救ったのだ。それに比べ、僕は、その一歩の勇気さえふり絞ることができなかった。ただ、走り出した背中を追いかけただけに過ぎない。
『あの時から、何も変わっていない』
どこからか、笑い声とともに、そんな声が聞こえてきた気がした。すれ違った人、隣にいる成田美鈴でさえ、表面上は普通の顔をしているが、本当は、僕のことを鼻で笑っているような気がする。その思いを恥じたのは、布団に入って眠りにつこうとした時だった。
朝起きて、シャワーを浴び、ご飯を食べて、家を出る。家を出るときに母が何か言っていたような気がした。体は習慣というものをよく覚えている。一睡もできなかったとしても、その一つ一つの動作は勝手に消化されていく。だから、その習慣と異なったことをしたり、習慣とは違うことが起こったりすると、とてつもない違和感を覚える。
いつものように桜並木を歩き、人がほとんどいない道を歩く。野球部の雄たけびのような声に耳を傾けながら、昇降口に入り、靴を履き替え、教室に向かう。教室へとつながる廊下は、やはり、ひっそりとしていて異世界のようだった。
教室の扉を開けると、痛烈な違和感を覚えた。何かが違う。しかし、その違和感の正体にかがつくのに、さほどの時間はかからなかった。
「おはよう、千葉君」
優しい声がした方向を見ると、成田美鈴が笑顔で手を振っていた。ここ数カ月の間、僕が来た時に教室の中に誰かがいるということは一度もなかった。違和感の正体は、朝、ほかのだれかが教室にいる、ということだった。
「おはよう、成田さん」
なるべく笑顔で言い、カバンをひっかけ、成田美鈴の隣の席に座る。そして、いつものように花を後ろの花瓶に挿して席に戻る。
「えっと……千葉君? その花は?」
いつものように花を後ろの花瓶に挿している様子を、不思議そうな顔で見ていた成田美鈴は、僕がすべてを終えて席に戻るのを見計らって声をかけてきた。
「昨日も言った通り、償いだよ」
「え、でも」
釈然としないのか、成田美鈴は何か言おうとしているが、それ以上は聞くな、と目で制す。それから、ホームルームが始まるまで、僕と成田美鈴の間には気まずい雰囲気が流れ続けた。
成田美鈴の教科書が届くのは明後日らしい。例のように、席をくっつけ、授業に臨んだが、成田美鈴の表情は曇ったままだった。
四時間目の終了のチャイムがスピーカーから流れる。これで、午前中の授業は終わりだ。野球部の山口をはじめとした運動部のクラスメイトがあいさつと同時に教室から駆け出していく。結局、午前中は一言も言葉を交わさなかった。、
成田美鈴は、隣で、一人、小さくなりながらお弁当箱を開いていた。昨日の人気から一転、次の日にはぼっちめし。あいにく、僕も今日は弁当を持参してきているので、教室の隅には、二人のぼっちが、席を並べて、お弁当を食べているという奇妙でさみしい絵が完成している。グループになって食べているクラスメイトが、頻繁にこちらを見ては、にやにやしながら何かを話している。しかし、内容を聞くことに意味を感じないので聞き耳は立てない。それでも、無理やり耳に入ってくる雑音というものは存在する。
「あの二人、できちゃってんじゃね?」
「あるかも。おはじき同士おにあいじゃん」
お昼時に話している柴田をはじめとしたリーダー格グループの声は声は無駄に大きく、教室のどこにいても耳につく。今日の会話の内容は僕と成田美鈴の関係性らしい。急に現れた美女とクラスのはじかれ者の僕。話のネタとしてはなかなかだろう。はぁ、という隣から聞こえたため息につられて、深いため息が出る。はっと思い隣を見ると、案の定、困ったような、悲しそうな顔をした成田美鈴と目が合った。さっと目をそらして、弁当を見ると、僕の好物であるハンバーグが入っていた。
このまま、何も起こらずにお昼休みが過ぎればいいのに。柴田達、リーダー格グループは相変わらず僕たちの話をしていた。子供が何のと、話が飛躍しすぎていてついていけない。近くにいたクラスメイトも、さすがに言い過ぎではないのかというような顔をしている。力のない僕と成田美鈴はじっと耐えるしかないのだ。じっとしていても言葉の刃は容赦なく僕たちの精神を攻撃してくる。ちらっと、教室前方の時計を見ると一時十分を示していた。あと十分。いや、次が体育だから移動も併せて五分か。普段は短い五分、しかし、今は悠久の時のように感じた。
お話の佳境に入ったのか、リーダー格グループの声と下品な笑い声はは一層大きくなり、時折、手をたたく音が聞こえるようになった。我慢していたクラスメイトも、露骨な視線を送り始めている。しかし、それは、僕たちのために向けられたものじゃない。自分自身の気分を不快にするものに向けられた嫌悪感によるものだと僕は知っている。だが、リーダー格グループはエスカレートするばかりだった。
「幸せになってくれるといいねぇ」
「あんな奴らの幸せなところ見て、ダレトクってはなしじゃない?」
「確かに確かに。でも、話のネタになるから、末永くお幸せにって感じじゃない?」
言えてるー、とリーダー格グループの5人の声がはもった。
「でも無理じゃない?」
血の気が引くのを感じた。その場からすぐに逃げろと本能が警鐘を鳴らしている。しかし、動こうとしても、口が力なくパクパクと金魚のように動くだけだった。
「千葉と付き合ったやつは、死んじゃうんだからさぁ」
目の前が真っ暗になるというのはまさにこのことだろう。クラスの喧騒がどんどん遠ざかっていく。自分だけしかいない世界を悠々と漂っている。ここには、何も届かない。光も声も、何も。大きな音が鳴って、隣の席から気配が消えていった気がしたが、そのことを考える余裕は僕にはなかった。
次の体育は、騒がしくしていたのが、体育教師の逆鱗に触れたらしく。一時間丸まる、外周を命じられた。今日のこのあたりの最高気温は三十五度を優に超えるらしい。手を抜くと監督に報告されるらしい部活生は、必死な顔をして、女子グループは、のそのそとおしゃべりをしながら走っている。
僕は、最後尾を走っていた。部活生グループは何週も僕に差をつけて走っている。今も、山口をはじめとする集団が抜かしていった。その背中は、見る見るうちに小さくなっていき、前のおしゃべりグループの姿が見えるようになる。そして、その後ろに成田美鈴がいる。運動には自信があると言っていた成田美鈴がなぜこんなところにいるのだろう。ああ、なるほど。前のおしゃべりグループが、道いっぱいに広がって走っているため抜かすことができないのだ。それを証拠に、成田美鈴は、何度もコース取りを変えて抜こうとしては、前の誰かしらが気づき、妨害をする。そんなやり取りが、何度も見られた。
「あと十分だ。全員、あと一周走り切ったら終わりでいいぞ。だが、部活生は、男はあと二周半、女は二周だぞ」
残り十分か。だいぶゆっくり走っていたため、全然体力は残っている。最初は、教室の出来事のことで、ぼーっとしながら走っていたが、走っているうちに整理がつき、周りが見えるくらいまでは回復した。元気ななった代償に、醜いものが見えるようになるというのも考え物だが。そういえば、成田美鈴も部活に入ったって言っていたような気がする。それでは、ノルマがあるのではないか。しかし、邪魔をされていては、確実に達成することは無理だろう。それに気づいてか、成田美鈴も、なりふり構わずおしゃべりグループを抜かしにいった。
「っちょ」
声をかけて止めようとしたときにはもう遅かった。ずっと妨害して、牽制してきた相手が自ら近づいてきてくれたのだ。近寄ってきてくれさえすれば、直接的な嫌がらせもできる。成田美鈴は、ギアを切り替えて横に並んで、一瞬にして突き放そうとした。次の瞬間、成田美鈴ぼ体は一瞬宙に浮き、地面に倒れた。
「あらあら、成田さん大丈夫ぅ?」
わざとらしく、気持ち悪い口調で柴田が言ったのが聞こえた。成田美鈴は、悔しそうな顔をして、柴田のことをにらみつけていることは容易に想像できた。
「あらあら、怖いかをするのね。それなら、後ろをさぼりながら、走ってる不幸の死神くんの力でも借りたら、いいんじゃない?」
無理でしょうけどね、と付け加えると、下品な声を残して走り去っていった。それを見計らって近づくと、ぺたんと座ったな成田美鈴は、かを抱けを僕のほうに向けた。くりくりとした目には、涙がたまっていた。すらっと細く、白くきれいな脚は砂にまみれて汚れ、血が赤くにじんでいるところも見られる。涙の理由はそれだけではないはずだ。そっと、手を差し伸べると、成田美鈴は、一瞬戸惑ったものの、僕の手を取った。自分の体温とは違う熱を右手に感じる。少し汗ばんだ、小さくて温かい、柔らかい手。不謹慎だとわかっていても、心臓の動きが速くなっている。走ったせいだ。そう、走ったから、心臓が速く動くのは当たり前だ。
「ほら、肩」
肩を貸して、体育教師が立っているところを目指す。心臓が暴れまわっていて、自制していないとどうにかなってしまいそうだ。密着した体、少し荒くなっている呼吸、体温。二人の間に会話はない。心なしか、成田美鈴の鼓動も早くなっている。
「なぁ――」
そう言いかけたのと、終了のチャイムが鳴ったのはほぼ同時で、教室に帰っていくクラスメイトが見えた。体育教師は、いぶかしげに僕たちのほうを見ていた。
体育教師は、先ほどの一連の動きを見ていたらしい。担任の先生に言っておくから傷口を洗って保健室に行ってこい、とだけ言った体育教師の背中に、深々と頭を下げた。
水道で足を洗わせて、保健室でカットバンをあ張ってもらってから教室に戻ると、すでにホームルームは終わっていたらしく、平野をはじめとした部活生やカラオケに行くとと言っていた柴田達はすでに教室にはいなかった。
無駄話に花を咲かせているクラスメイトの間を通り、教卓付近で作業をしている山崎先生に報告をすると、やけに遅かったないったい何をしていたんだか、と早口で言うとそそくさと教室を出て行ってしまった。
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