どうぞ。
「ここに、どうぞ。」
そう言って、自分のベッドに腰掛けた黒髪の少女は自分のふとももをぺちぺちと叩いた。ごく不変の関係性の二人、そのうちごく普遍的な青年の方はそのふとももの上にゆっくりと自分の頭をのせた。ありがとう、と普遍的青年が言うと、大丈夫です、と黒髪少女が言う。
ほのかに、涼しい梅雨の匂いが張り付くようにやってきて、それを連れてきた春風の残り香が爽やかさを添えて何処かへ消えていく。少し開かれた窓からそれはやってくる、そして消えていく。
普遍的青年は、黒髪少女のふとももをすこし頬で撫でた。白くて、張り付いてくるような、潤う柔肌が暖かくそれでいて妙にひんやりとして、かわいい少女だと呼称される者にはどうも当てはまらないような艶かしさを湛える。ごく普遍的青年もこれにはごくり、唾を飲まざるを得ない。何故ここまで魅力的なのかと熟考してしまってはもう眠ってしまいそうである。加えてその肌色からの匂いが柔らかい。ミルクのような匂いとでも言おうか、癒される匂いだ。
「緊張してますか?」
「いや……僕はむしろリラックスしてます。」
「よかった、身体がピンと伸びているように見えたので。」
言われて気付いたと見えて、普遍的青年は姿勢を少し変えた。頭の重みをある程度黒髪少女にゆだね、自分の身体をベッドに沈めた。耳が見下ろしてくる柔らかい声を拾っている。黒髪少女は、普遍的青年のその姿を見て嬉しそうに笑った。
「じゃあ、始めますね……?」
「はい。お願いします。」
黒髪少女はまず、普遍的青年の耳に手を添えた。落ち着いた洋服を着た黒髪少女の指が、普遍的青年の耳を優しく揉み始める。さするように、皮膚を広げていくように、優しく、それでいてぐぐぐ、と押すように。乾いた手が一瞬離れ、その後小瓶の中でちゃぱちゃぱと音を立てていたいい香りのするオイルが、黒髪少女の手のひらで伸ばされ、香りをより広げて、普遍的青年の耳を襲う。若干残る液体らしい音と、耳に触れられる気持ち良さ、暖かさと冷たさが少し混じり合う快感。脳へ繋がっている神経の多い耳という部位を触られる感覚はまさに至高といえるだろう。普遍的青年の顔もどこか緩んでいるように見える。というか、まどろんでいるようだ。
「耳かき……もう、しますか?」
「お願いします。」
すこし、黒髪少女が手を拭くタオルの音が聞こえてきた。ふわふわとしている生地はたしか、2人で買い物に行った時に買ったものだったな、などと普遍的青年の脳ミソは思い出す。細い棒に、ふわふわ。耳垢をためている実感はそこまでなくとも、耳孔の奥には溜まっているらしい。まず右の耳に入っていく棒がガリカリという音をひっかけながら出す。ポロポロとすぐに取れていく気さえした。
「寝てもいいですよ。」
「いや、もうすこし起きていたいです。貴女ともうちょっと話したいですし。僕は委ねている身ですから、寝かされてしまうかもしれませんけどね。」
普遍的青年は笑った。寝ないと宣言しながら。その宣言を聞いて、黒髪少女までも笑い始めた。数分後に寝始めてしまうのだろうか。そんなことをお互いに考えた。
「今日は……ちょっと雨クサイですね。」
「また一緒に寝ましょうか?雷鳴るかもですよ。」
「や、やめてください!」
「じゃあ隣は枕になりますね。」
「う、いじわる。」
始めて隣で寝た日は、少し汗の臭いが強かった覚えが普遍的青年にはあった。自分の汗と、彼女の汗の混ざった臭い。酷く頭が痛かった覚えもだ。今思えば軽度の熱中症にでもなっていたのだろうか。春先でまだまだ寒い風も吹いていたのに、暑かったような、熱かったのは自分だったんだろうかなどとも考えた。
「もう……寝てください、反対側やりますから、ほら……どうぞ。」
普遍的青年は、促されるまま反対側の耳を向けて、しょうがない、と目を閉じてみた。眠気が襲ってくるのは、自分でも分かった。あくびを嚙み殺そうとしても酸素供給に難ありと見え、他愛ない話とそれに対する何かしらの相づちはしたけれど、いつしか普遍的青年は眠っていた。
*
「ほ、ほんとに寝ちゃった……。」
寝てもいいですよって言ったのは間違いだったかもしれません……。膝の上に彼のちょっと重い頭が乗っていて、ぁあ、寝顔が眼前に……。
いつもは暗い部屋の中で、一緒に寝るときに、ぼやけているような距離感で見るこの顔がなんと目の前数十センチ。煌々と光る太陽光が射し込んできたり、雲が過ぎていって、暗くなったり。なんとなく忘れていた移り変わりの中に、はっきりと見える恋人。
「いや自惚れすぎかな……」
自分で恋人とか言って置きながらこんな調子です、大した頭をお持ちでいるようです、私のような者も。彼には起きる気配もなく、横顔だった顔も上に、私の方を向き、結果として仰向けに。
私の事を話をしていたけれど、つまらなかったのでしょうか、空っぽな会話だったといえばそれはそうなんですけどね。リフレインも要らないでしょう、二度も話す内容じゃ無いですから。別に、私たちの馴れ初めだとか、今日の朝ごはんの水の量が少し多くてべちゃべちゃしていた事だとか、私がいつも通り暗くて真面目な事だとか、彼が今日も地に脚の付いたような付いていないような事を言う事だとか、それは誤解だとか、何だとか。その程度です、その程度。今日みたいに雨の匂いと、風が強かった日だった、程度の話しか、馴れ初めだと肩書きを打ち込んでも、大した事なく、その程度、その程度。
しかし、どうしましょうか。一通りは確かに耳かきやお耳のマッサージは終わって、完全に手持ち無沙汰です。どうしましょうか。寝ている彼をまじまじと見つめるだけでも緊張で可笑しくなりそうです、どうぞ、などと調子に乗ったり恥ずかしい話の口止めに口走ったのを酷く後悔しています。あぁ無情、レ・ミゼラブル、ヴィクトル・ユーゴー、ジャン・ヴァルジャンとパンと銀の燭台、銀食器。私の内に巣食うこの悪魔か欲望も、昼食のパスタ用プラスチックフォークくらいの気軽さで生えてきた銀食器で消えてはくれまいかと思うばかりです。思うばかりで、この寝顔を我が物にしようと今まさに慮るような訳では、決して。決して……無いと言いたい所です、言い切るとなんだか勿体ない気がしてしまうのですが。
思えば、彼とは唇を重ねたことはありません。えぇ、お恥ずかしい話ではあるのですが、一度もないのです。そして先述の、巣食う悪魔の正体こそ、いまここでキスの一つや二つしてしまえと私の中で叫ぶ者の事です。またもや彼の仕業です。いや、またもや彼のおかげと言っておくのが正しいのでしょうか?
「……。」
唾を飲みます。ごくりと。今は私と彼は恋人なのならば、それならば寝顔に笑顔を浮かべる彼の唇の一枚や二枚、奪ってしまえばいいのだと、そういう心がそう言うんです。私は恋に溺れ、愛の味を知らない。彼のすべてについて知りはしないけれど、彼の捧げてくれる気持ちが仮にまだ恋だとしたら、あるいは私のせいで恋に甘んじることを余儀なくされているのだとしたら、私はそれを愛に昇華させなければならない、そう思うんです。
「…………。」
そうです、屁理屈です、捏ねた所で結局のところつまり、私は彼の寝顔に自分の昂揚を近づけてくっつけたいけどその意思が決まらないだけ。つまりの詰まる所、キスしたいけど出来ない、ただそれだけなんです。
「……します、か。」
これはきっと夢、飛び込もうと思います。
もう、知らない。
*
近づく息と、
そわそわしたような体の揺れを僕は感じた。
目を開くと、
目を閉じた彼女が、
僕に覆い被さるようにしていた。
そっと、近づいてきた温度。
「……ぁあ。」
目を瞑ったまま、彼女はため息する。
「どうぞ。」
「……え、起きて……?」
「どうぞ。」
「……はい。受け止めてくださいね。」
「はい。委ねてください。」
そっと、触れて、それは。
始めての幸せな味がした。
述べる。けもノベル。 タコ君 @takokun
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