お散歩

 ルルモと共に外出して、静人は改めて、その世界が自分が暮らしていた世界とはまったくもって違うと実感していた。

 深呼吸をすれば肺に取り込まれる空気の『味』が違うし、風が吹くと鼻に香る匂いもまた不思議なものだったのだ。


「これが……異世界……。いや、魔界、なのか?」


 妖しさしかない景色は、なかなか目に馴染まない。エメラルド色の空に真っ黒な太陽。

 真っ青な大地に茂る草花は、奇妙な姿かたちをしていて、風が吹いてもいないのに、なぜか揺れて踊っている。


『どうしたの、クロー?』

 静人は玄関から飛び出して、少し歩いてからその場で思わず立ち尽くしてしまった。

 前方でルルモが心配そうな声を出し、こちらを呼んでいるらしいと分かる。


「ご、ごめんすぐ行くよ」


 静人はこちらを覗き込んでいる悪魔の女の子の隣にたたっと駆け寄り、一緒になって歩き始めた。


「どこに行くんだ?」

『クロ、ホントに賢い……。きちんと躾けられてるんだ。隣にちゃんとついてくるなんて、野良のニンゲンじゃやらないもん』

 ルルモはゆっくりとだが、しっかりした足取りで道を進んでいく。どこかに行く目的があるのだと分かるが、静人は地理がはっきりしないから先行して進んでいくようなことはできなかった。だから、ルルモの隣について歩幅を合わせて歩くようになってしまう。

 周囲を見回して、どんなところに自分が飼われているのか、色々と調査していく。

 どうも自分の飼われているルルモの家は、小高い丘の上に建っている孤立した屋敷のようだ。

 周りには他に家はなく、遠くにポツポツと家屋が見える。

 どうも、日本の住宅事情のように土地ぎゅうぎゅうにマンションを建てているような世界観ではなく、広大な土地にぽつぽつと大きな屋敷が建っているらしい。

 隣の家までどれほど距離があるか目測はできないが、歩いていけないほどではないだろう。

 それに、道がしっかりと整備されているので、この道に沿って行けば、迷うような事はないと思えた。


「向こうに見える家にも悪魔が住んでいるのかな? ……僕以外の人間は……いないのか?」

『クロ、今日は初めてのお散歩だから、あんまり遠くまで行かないようにしようネ』

 ルルモが語り掛けてくれているようだが、言葉の意味はやっぱり分からない。でも、とりあえず、静人はルルモに小さく頷いておいた。

 悪魔ではあるけれど、この少女はとても心優しい子だと、信じていたから、彼女にしたがっていれば、そんなに悪いことにならないだろうと思えたのだ。


 ルルモと一緒に奇妙な世界を歩いていくと、いくつか家の隣を通り過ぎ、やがて川が見えて来た。そこには石造りの橋が架かっていて、渡れるようになっているし、脇には細い道が伸びていて、川辺に下りることもできるようだった。

 川に流れる水は透明でサラサラと心地いいせせらぎを奏でているのは、静人の世界と同じだった。

 ルルモが川辺に下りていくので、静人も一緒になってついてくと、ルルモが履いていた靴とソックスを脱ぎ、眩しい白い生足を晒したことに、ドキンと胸が高鳴った。しかも、穿いているスカートをまくり、膝上まで持ち上げると、そのままパシャパシャと川に入っていくではないか。


『クロー、おいで! 気持ちいいよ~』

「浅いんだな……。小川って感じだし」


 女の子と川で水遊びをするなんて、現実世界に居た頃だったらあり得ないことだった。

 ある意味、少し憧れていたシチュエーションに、静人はちょっと心を躍らせていた。

 なんだか、青春謳歌って感じで胸が鳴っていたのである。


 静人は少し警戒をしながらも、そっと水辺に近づいていくと、川の中でぱちゃぱちゃと遊ぶルルモが、可愛らしい笑顔を見せて『おいでおいで』と手を振っていた。

 静人もズボンを捲り、靴を脱ぐと、ぱしゃんと川の中に入っていった。

 くるぶしくらいまで水に浸る浅い川だったが、ひんやりしていて、流れがチョロチョロとくすぐったくて気持ちいい。


「すごい、日本で暮らしててもこんな経験したことなかったかも」


 静人は都会で生まれ育ってきた。あんまり自然に接することがない人生だったため、小川に入って水遊びなんて、漫画やドラマの中でしか見たことがなかった。

 年甲斐もなくはしゃいでしまって、思わず、ぱちゃぱちゃと飛び跳ねて、水の冷気に笑みを零した。


「気持ちいーな~!」

『気に入ってくれたみたい。よかったー。ここね、私のお気に入りの場所なの』


 ルルモはそう言うと、静人の手を取り、二人は川の中で一緒になってはしゃいだ。

 静人はルルモの可憐な手を握り、間近ではしゃぐ美少女に思わず瞳を奪われ、頬を染めて暫し我を忘れていた。


(可愛い子だな……)

 飛び跳ねる水が、せっかく捲ったズボンとスカートも濡らしてしまうが、童心に帰ったようで、二人は結局濡れることを気にもせず、川のなかで手を取り合い、無邪気なダンスで共にステップを踏んだ。


 少しの間、そうやって無邪気に水遊びを楽しんでいた頃だ。

 不意に見上げた橋の上を誰かが歩いていた。

 人影は二人――。一人は悪魔で……。


「!!」


 もう一人は、人間だった。

 間違いない。尻尾も角もない。自分と同じ……年齢も恐らく近いのではないかという外見の女の子だった。


「ね、ねえ! きみッ!!」


 静人はルルモとはしゃいでいたことも忘れ、橋の上のその人間の少女に声を張り上げた。

 すると、橋の上から見下ろして来た悪魔が手を振ってルルモになにやら挨拶をしている様子だった。

 人間の女の子のほうは、無言でじっとこちらを見ているだけだ。


『ルルモちゃんじゃないか。その人間は、どうしたんだい?』

『ドンドルのおじさん! こんにちは! 私の新しい家族のクロだよー!』

『そうかい良かったねえ。仲良くするんだよ』

『はぁい!』


 会話が終わったのか、悪魔が橋を渡り過ぎようとして、人間の少女もその悪魔に続くため歩を進めていった。

 静人はやっと出会えた人間に、なんとか話を聞きたいと、夢中で川から駆けあがり、橋の上まで行こうとした――。


「ま、まって! 君ッ! 話をしたいんだっ!」

『あっ、クロ! だめっ』


 突然川から飛び出し、橋の上に行こうとした静人に、ルルモは慌てた様子で声をかけた。

 静人はルルモどころではなく、橋の上の人間の少女にコンタクトをとるため、一気に土手を駆けのぼり、橋まで行こうとした時だ――。


 グィイインッ!


「うッ!? な、なにィィィッ――――――!?」


 小川から駆け出そうとした静人の身体が、ぐん、と何かに引っ張られるようにして、ルルモのほうへと引き寄せられていく。

 急な力に、バランスを崩した静人は、そのまま倒れ込む様にして、川の中に尻もちをついてしまった。


『もう、クロ! 急に動いちゃだめ!』

 叱るようなルルモの声が頭上から響く。

 静人は自分の身に何が起こったのか分からず、暫し、濡れた身体で茫然としていた。


「な、なんだッ――? 何かに引っ張られたぞッ! ッッッッ!!」


 驚愕している静人は、橋の上を歩み過ぎていく少女をどうしようもなく目で追うだけになり、自分の身体に起こった奇妙な引力に打ちひしがれた。


「まさかッ――。『リード』なのか………………!? 僕に、『リード』が付けられているッ!?」


 ルルモと静人の間には特に何かを繋いでいるような紐だとか縄だとかはない。

 しかしながら、確実に、静人はルルモによって、その傍に引き寄せられたとしか思えない身体の引っ張られ方をしたのだ。

 自分は、ルルモのペットだ。

 そしてこれは初めてのお散歩……。お散歩には首輪とリードが必要だ。

 そして、この世界の悪魔だけがもつ、超常的な能力――。家のドアを開くことができなかったり、人間には操作できない悪魔の道具だったり――。

 悪魔だけが使える力で、静人はいつのまにか、ルルモにリードを繋がれていたのだ。


「もし僕がッ…………! 『脱走』しようとしても、逃がさないようにッ! 飼い主の責任感のために、ッ!!」

 やはり、これで間違いなく、はっきりした。

 静人は、この悪魔少女のペットで間違いないのだ。

 自由は許されない。このリードの力がある限り。


『もう。だめだよ、クロ。もうちょっとしたら、他のニンゲンと一緒に遊ばせてあげるからね。今はちょっと我慢して』

 しょうがない子ね、という顔をしていると静人は分かった。

 今の自分は、他の犬を見て、吠え掛かったようなものだったのだろうか。

 それをルルモが窘めるために、リードを引いて、引き寄せた。


 ばしゃんと水しぶきを上げ、びしょ濡れになった静人は、もう居なくなってしまった人間の少女の姿を思い返すしかできなかった。


 その後、ルルモと一緒に帰宅すると、母親の悪魔に二人で並んで濡れたことを叱られてから、また二人で一緒にお風呂に入ることになるのだが、静人は自分の立場に動転していて、これからどうしていけばいいのかまるで分からなくなってしまった――。

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