ペット生活の始まり

 翌朝、静人は耳をそばだてることに神経を集中させていた。

 目が覚めて、暫く部屋で待っていると、ルルモがやってきた。

 おそらくだが――『おはよう』と言っているように聞こえた。そう、静人は悪魔たちの会話から情報を仕入れようと考えたのだ。


(言葉の意味は分からないけど、集中して聞いていれば、ある程度言葉の単語を聞き取れる。そこから状況と表情と語感で意味を推理するんだッ)


『クロー、ちゃんと眠れた?』

「お、おはよう」

『そっか、良かった。朝ごはん食べるよ~』

 会話が成り立っているのかはまだ分からない。悪魔の少女は静人の手を取ると、そのまま部屋の外に連れ出していく。

 少し戸惑いながらも、足取りは素直に従い、少女の後ろに静人はついてく。……毛布は持っていけなかったので、また裸になってしまったが。

 ルルモに連れられて、廊下を歩きながら、改めて悪魔少女の姿を観察する。


 悪魔少女は、年齢は静人と同じくらいの十五か十六歳くらいだろう。身長は少女のほうが小さい。静人は身長百六十四センチだが、少女は百五十センチ代といったところだろう。身体つきは華奢で細身だが、抱きしめられた時の肉付きの柔らかさはしっかりと女の子だなと思えるほどだ。

 色白なのはそういう人種の色なのか分からない。目は大きくて可愛い。エメラルドグリーンの神秘的な瞳と、銀髪というかプラチナというか、抜けるような白の髪は首元あたりまで伸びている。寝起きだからなのか、ちょっぴり、ぴんぴんと跳ねているところがあるのがお茶目に見えた。

 着ている服も可愛い。フリルとリボンがあしらわれた桜色のローブだ。恐らく、彼女の寝間着なのだろう。静人は良く分からないが、ネグリジェというものに似ていると思った。

 ぺたぺたとスリッパをはいて歩く少女のお尻からは、ヒトにはない尻尾が揺れている。

 見た目は細く、長い。先端がスペードの形で、つやつやとしているように見える。まるでゴムホースみたいな質感の印象だ。


(ちょっと、触ってみたい……)


 単純に好奇心がうずいた。ヒトにはない特別な尻尾。彼女にはツノもあるのだが、それよりも尻尾が興味深い。

 ふりふり良く動くし、つやつやしていて肌触りがよさそうだ。

 静人は、その誘惑に素直になって、手を少女の尻尾に伸ばした。お尻のほうの根本ではなく、スペード型の尻尾の先端をさわっと撫でてみた。


『ひぁっ……』


 と、ビクンと大きく少女が跳ね上がる。繋いでいた手も放してしまって、少女は紅くなりながら、後ろを振り向く。

 そのリアクションに、静人も同時に驚いて手を引いた。


『ク、クロ、そんなとこ、触っちゃダメだよ……?』

「え、え……?」


 恥ずかしそうに、頬を染め、眉を切なそうに曲げてこちらを咎めるような眼を向ける少女の反応は、静人を狼狽えさせるには十分な威力があった。


『おいで』

 どういう反応で対応したらいいのか分からない静人は、慌てふためいていたが、少女ほうが先ににっこりと笑顔に戻って、また静人の手を繋いだ。

 静人は結局その手を取って、また黙って歩いていくことになった。


(な、なんだ!? 今の反応はッ……、し、尻尾をちょっぴり触っただけだぞ?)


 尻尾を撫でた時、少女の口から漏れ出た悲鳴のような、切ない吐息混じりの声は、言葉が理解できずとも分かる……。

 女の子が、感極まった時の声だった。


(し、しし、尻尾ってそういう部位なのッ?)


 今度は静人が真っ赤になる番だった。


(やっぱり、この世界の住人、分からないッ――)


 混乱の中、悪魔少女と静人はダイニングルームまでやってきた。そこには、おそらく少女の父親と母親だろう悪魔の二人が朝食の準備を二人で仲良くやっていた。


『お早う、ルルモ』

『お早う、パパ』

『クロは大丈夫そう? ルルモ』

『うーん、まだちょっと警戒してるみたい……』

『しょうがないさ、今日クロの服やエサなんかも買ってこよう』

『うん』


 朗らかな笑顔の中で、三人の悪魔は会話をやり取りしていた。

 静人は会話の内容をまったく理解できなかったが、耳を傾けて、なんとなく分かったことがある。

 どうやら、この少女の名前は『ルルモ』というみたいだ。

 ルルモ、やはり地球に暮らす人の名前っぽくない。ファンタジー世界の住人の名前だ。


 ルルモと家族たちはそのままテーブルに朝食を並べていく。静人はその光景を隅の方でぼんやりと見ていたが、皿の上に並ぶ食材の数々も見たことがないようなものばかりだ。

 サラダのような果物と植物の盛り合わせ、穀物の塊を焼き上げたような、パンのようなクッキーのような固形物。薄い肉の切り身を炙って、何かのスパイスを振りかけたもの……。

 どれも得体のしれない食べ物ではあったが、見た目は悪くない。なんだか、洋画なんかで見た海外の食卓のようだったし、漂ってくる香りは食欲を誘う。


 ごくっと思わず唾を飲み込んだ静人は、自分が昨夜スープくらいしかものを食べていないと思い出した。

 腹も減るわけだ。


『ヒトって、パン食べられるかなぁ?』

『少しだけ分けてやりなさい。やり過ぎちゃいけないぞ』

『うん。クロー、これ、食べるかなー?』


 ルルモがクッキーみたいな固形物を小さくして掌にのせ、差し出して来たので、静人はその食べ物とルルモの顔を見比べて、少し考えた。


(この世界の食べ物って、本当に食べて大丈夫なのか? 悪魔は食べられても、人間には猛毒だとかありそうなんだけど……)


 ぐきゅうーっ。


「う……」


 腹の虫がその香りに根負けするように鳴いた。

 不安はあったが、静人はルルモからクッキーを受け取って、ぱくりと食べてみた。

 堅そうに見えたが、歯で押し込むと表面だけがカリっとしていて、あとはふっくらとした舌ざわりがやってきた。

 暖かく、さっぱりした甘味が広がる。


「美味いっ」


 これが毒なら、それも覚悟できるというほど、絶品の味だった。

 こんなに芳醇な味をしたクッキーを食べたことはこれまでの人生に於いて一度もない。


『あはっ、食べてる! 良かったぁ』

「も、もう一つ、くれませんか?」

『まだ欲しがってるみたい』

『ルルモもきちんと食べなさい』

『はぁい。クロ、ちょっとだけだよー』

 ルルモも食卓に着き、クッキーやサラダを食べ始めた。時折、静人にクッキーを分けてくれるその光景は、まさにペットと飼い主の姿そのままだっただろう。


「……ペットって……そんなに悪いもんじゃないかも……」


 思わずそんな風に考えてしまった。

 思い返してみれば、彼ら悪魔の家族は命の恩人だし、暖かいベッドや、美味しい食事までくれる。何も仕事をしなくても、不自由のない生活を約束されているのだ。


 ……まぁ、不自由なところは、あるにはある。人権がないのだ。

 自由に外に出歩くことはできないだろうし服も奪われ生まれたままの姿を強要されているのは、問題と言える。


「い、いやいや、僕はきちんと自分の世界に帰るんだ。ペットじゃない。れっきとした一人の日本男児だ」


 ついつい流されそうになった美味しい朝食の味に、静人は気持ちをもう一度固めなおす。

 今は体力を蓄えるためにも、食べられるものはきちんと食べておこう。

 ペットっぽく見えるとか気にしていられない。


「もう一つ、ください!」

『食いしん坊だなぁ、クロは。そんなに美味しかったのかな? うふふ』


 和やかな朝の団らん風景が家庭を彩っていた。

 静人の奇妙なペット生活の始まるになる朝であった。

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