のっぴきならない初夜
(なんとかしなくちゃ)
その思いだけがこびり付いていた。
焦りだけが静人の心を支配して、なんとかしないとと考えても、具体的にはどうしたらいいのかがまるで思いつかない。
流されるまま、静人はお風呂でルルモに身体を洗われて、そして……、服を返してもらえなかった――。
つまり風呂上りにすっぽんぽんのままで濡れた身体をタオルを拭くだけの状態で放置された。
服をどうしたんだと悪魔の少女に訴えかけたが、やっぱり言葉が通じないので、その静人の問いかけは華麗にスルーされてしまう。
せめて別の服を貸してくれないかとお願いもしてみた。しかしながら、それも無駄だった。
悪魔っ娘はニコニコとしているばかりで、静人の意図をまったく理解してくれない。
しかも――。
『今日は、一緒に寝よっか。クロ』
と言われて、手を引かれ連れ込まれたのは、可愛らしくファンシーな少女の部屋だった。恐らくだが、ルルモの寝室だろう。
一人用の寝室ではあるが、静人の常識からすると、とても広かった。日本の住宅事情からして、静人の部屋はとても狭い。ベッドと机、パソコンがあるだけで、静人の部屋はもういっぱいいっぱいになるのだが、この部屋はそんな静人の部屋が四つは入るだろう。
大きな天蓋付きのベッドは、桃色の布団が敷かれて、まるでファンタジーに出てくるお姫様の部屋みたいだ。絨毯も赤い地に金色の刺繍がしていて豪華だし、天井からはシャンデリアが垂れ下がっている。大きな窓からは、真っ白な月が覗けていた。
この家はひょっとすると大豪邸で、この悪魔少女はお嬢様という奴なのではないかと静人は考えた。
尤も、他の悪魔を見たことがないので比較ができないのだが。
『ごめんね、今度クロの服、買い物に行くから、それまでは我慢してね』
「えっ、えっ? ちょ、ちょっと、何?」
『えへへ、私ずっと夢だったんだぁ。ペットと一緒に寝るの!』
可愛らしい笑顔を見せると、おいでおいで、とベッドに静人を誘う少女。
静人は、裸だ。
そんな状況で、年頃の――悪魔とは言え、ものすごく可愛らしい女の子の寝室に連れ込まれ、ベッドに誘われる――。
(な・ん・と・か・しなくちゃぁぁぁぁぁぁ――ッ!!)
ドドドドド!
と、バックに効果音でも付きそうな劇画風の表情で、静人は戦慄していた。
しかし、どうしたらいいのだろう。こんな右も左も、常識すら通じない世界で、どのような行動を取るのがベストなのか静人には分からなかった。
ダラダラと滝のように汗を垂らして、ぽんぽんと、枕を叩く少女の誘いに、静人は硬直して動けない。
『ううん……やっぱりまだ……懐かないと無理かな……』
しょんぼりという表情が目に見えて落ち込む悪魔少女は、肩を落として溜息をついた。
「ハッ――。そうだ! 最初に僕がこの家で寝かされていたベッドがあったじゃないか。この部屋じゃない、別の部屋のベッドだ! せめてそこで寝かせてほしいッッ」
『ん?』
静人は思い出した。確か、自分がこの家で目を覚ました時、ここではない別の部屋に普通のサイズのベッドがあったはずだ。いくらなんでもこのまま女の子のベッドで一緒の布団に入るわけにはいかない。理性が危ないと言っている!
「た、頼むよ! あのベッドに連れてってくれ!」
必死に頼み込む静人の姿は、ルルモの目にどう映っていたのか。
恐らく、きゃんきゃんと吠えて、落ち着きなく外に出してくれと騒ぐ子犬みたいに見えただろう。
『私の部屋、嫌なのかな……。出たがってる、みたい……』
ルルモの部屋の扉の前で、何やら必死に声を出して訴えかけているようだ。様子から判断してここから出たそうにしていると分かった。
ルルモは、正直なところ残念な気持ちだったが、初日から懐いてもいない捨てビトが一緒にベッドで寝てくれるはずもないかと、諦めた。
『しょうがない……。でも、いつか、一緒に寝たいな、クロ』
そう言うと、優しく笑顔を浮かべて、ベッドから立ち上がり、寝室のドアを開いてやった。すると、クロは、脱兎のごとく部屋から飛び出していく。
『あっ、ちょっとそんなに慌てないでっ』
どこに行きたがっているのか分からないが、家の外には出すわけにはいかない。しっかりと戸締りはしているから、家からは出られないはずだが、家の中は広いし危ないものもあるので、ほったらかしには出来ない。
『もう、やんちゃなんだから』
飛び出していったクロを追いかけて、ルルモは家の中を捜索しはじめた。
『クロー! どこいっちゃったのー?』
どたん、どたどた!
何やらけたたましい音が廊下の奥からして、ルルモはそっちに足早に近づいた。
そこには部屋のドアに齧り付くように、がちゃがちゃとノブをいじるクロが居た。
「く、くそっ、なんで開かないんだ? カギが掛かってるのかッ?」
『そこに入りたいの? よいしょ』
がちゃり。
静人が必死にノブを押したり引いたりしても開かなかったドアだったが、ルルモがあっさりと開く。
何か特別なことをやったようには見えなかったし、カギが掛かっているような感じもなかった。仕組みは分からないが、静人には開けられないが悪魔には開くことができる造りをしているのかもしれない。
静人は戸惑いながらも、開かれたドアの先に歩を進めた。
「あ、あったさっきのベッド!」
飛びつくようにそのベッドに滑り込み、全裸を毛布で隠す。ベッドの中で包まった静人に、ルルモがぽかんとした表情を向けていた。
「わ、悪いけど、僕はここで寝るからっ!」
『……ぷ、あはは! クロってば、そこが良かったんだ! やっぱり最初に寝てたから、臭いがおちつくのかなあ』
「わ、笑うなよ……。服を奪ったのは君だぞ……」
『うふふ、分かったよ。じゃあ、今夜はそこで眠るんだよ。いい子にしてね。あ、そうだ。念のため、喉が渇いたときのためにお水、持ってくるね』
ルルモはクスクスと楽しそうに笑って、その子供部屋の戸を閉じた。
この部屋はルルモが赤ん坊だった頃に使われていた子供部屋で、クロが飛びついて眠ろうとしているベッドは、ルルモの揺り篭だ。なんだかベッドから離れないクロを見ていると、可愛らしく思えて来た。
扉はヒトには開けられないから、きちんと閉じていればあの部屋からは出ることはないだろう。
悪魔だけが道具を利用できるように魔力を帯びて作られている。ヒトは魔力なんてものを持っていないから、大人しく部屋の中で眠っていてくれるだろう。
しかし、クロは思ったよりも賢いヒトかもしれないなとルルモは思っていた。何せ、すぐにあのベッドを見付けたのだから。それに、こちらの言うことをきちんと理解しているような眼を向けてくることがある。きちんと躾をしたら、芸も覚えてくれるかもしれない。
早速親ばかになってしまったのかな、とルルモは自分の浮かれっぷりを少しだけ笑った。
『ママー、クロのためのお水、用意したいんだけどー』
リビングまで行って、母親を呼ぶ。すると、母親がソファから立ち上がり、ボトルに水を入れてくれた。
『はい、これ。明日から早速色々用意しなくちゃねぇ』
『うん、ありがとママ』
ペットを飼うのは難しい。きちんとした知識を持っていないと、ペットとの良好な関係は築けない。ヒトはとても賢い動物だし、温厚で悪魔にもよく懐く。愛情をもって接していれば、必ずクロは答えてくれるとルルモはこれからのことに関して責任を抱いて深く頷いた。
一方――。
ベッドの中で毛布にくるまっていた静人は落ち着いてこれからのことを考えていた。
とりあえず、この家の住人は悪魔ではあるが、優しい。命の心配はないだろう。自分がペットでなく、家畜だったとしたら、話は別かもしれないが、今はマイナスに考えるよりプラスの方向性で考えた方が精神的に良かった。
(ペットだなんて……、そんなのはダメだ! 僕は立派な人間だぞっ。必ず元の世界に戻ってやるっ……)
ぎゅ、と強く毛布を握りしめ、周囲を見回す。何か利用できるものはないだろうかと気を配った。
せめて、服が欲しい。自分が来ていた制服はどこに持っていかれたのだろう。この際制服に拘る気はなかったが、全裸というのはどうしようもなく心もとない。
毛布に包まったまま、ベッドから這い出ると、部屋の状況を探っていく。
この部屋はさっきの少女部屋よりは狭い。それこそ、この部屋は現代の自分の部屋と同じくらいだ。それが少しホッとする。
一応、タンスを見付けたのだが、どういうわけか、これもこの部屋のドアみたいに、開けることができない。
「ドア……多分開かないよな」
ダメもとで出口のドアのノブに手をかけたが、やはりそのドアはびくともしない。悪魔にしか開けられない仕掛けがあるのかもしれない。
「あとは、窓か」
押し開く形の小さな窓がある。まずはそこから外の様子を確認した――。
広い庭が眼下にある。日本の住宅地では到底見ることができない美しい庭園だ。
大きな花壇だとか薔薇園みたいなものが見える。緑の中には石造りの歩道があり、その先に視線を動かすと、大きな鉄扉が発見できた。あれが出口だろう。
その先はまた広大な道が広がっていた。周囲に他の建物が見当たらない。
なんとなくだが、孤立したお屋敷、という場所なのかもしれない。
ガタガタと窓を押し開こうとしたが、やっぱりここも開きそうにない。完全に密室になってしまっている。ここから脱出するのは簡単にはいかないだろう。
「……でも、見た感じ、凄く広い世界みたいだ……。僕の暮らしていた街みたいに、すぐ隣に別の家族が住んでるみたいな敷地面積じゃなさそうだ……。外国の景色ってこんな感じなのかな」
例え、この家から抜け出せても、路頭に迷うだけに思えた。そしたら最初にこの世界にやって来た時のように、腹を空かせて気を失うまで歩き続けるような状況になるかもしれない。
あの時は、この家族に救われたが、二度もそんな幸運に恵まれるとも思えない。
今は――どうしようもないのではないか。
そんな風に結論が出た。
「……焦るな……、きっとチャンスは来る。今は……落ち着いてこの世界の知識をかき集めるんだ……。もし、僕が犬なのだとしたら、飼い主から外に連れ出してもらえるチャンスは必ず来る……。『散歩』ってタイミングが……!」
静人はそれに賭けることにした。外の世界を知り、何でもいいから情報を集める。
悪魔のこと、他の人間の様子、元の世界の帰り方――。
とても困難なような気がしていたが、挫けるよりも前向きにいたい。
とりわけ、今日はもうクタクタだった。
ご飯も食べたし、お風呂も入れた。温かい布団もあるのだから充実している。
――いつしか静人はまどろみのなかに、その身体を委ねていた。
その夜の夢は、優しい少女に抱き締められながら、頭をよしよしと撫でられる、心安らかな夢だった。
ひょっとすると、夢じゃなかったかもしれない。
朝、目を覚ました静人の傍に、水の入ったボトルがあったのを見付けて、悪魔少女の顔がすぐに浮かんだ。
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