吸血鬼 12




「ま、待ちなさいよ!」

「待てカタリナ」


 指の傷を物ともせず、フードコートを追って壊れた窓枠に飛びつくカタリナの肩を抑える。


「離してカネガ! あいつ……! べガードの、べガードの仇を取るのよ!!」

「お前じゃ無理だ」

「だけどカネガ……痛ぅ」


 アドレナリンが分泌して一時的に指の痛みを忘れたのかもしれないが、そんなものは一瞬でしかない。カタリナは喰われた左指の痛みでその場にうずくまってしまった。


 外の喧騒は飛び降りてきたフードの男に向き、その走り去る方向が喧騒の波で読み取れる。

 壊れた窓枠から顔を出してその姿を探すと、脇腹を抑えながら早歩きで逃げる背中が見える。反対側の大通りからは、従士隊が走ってくるのも見えた。その後方にはファイスの姿もある。


「カタリナ、今なら格安料金で仇討ちと指輪を取り返してやるが、どうだ?」


 今ならまだ間に合う——フードの男は動き回った影響で浅くない傷を負っている。奴を捕まえる好機は今しかない。


 だが同時に、その誘いはカタリナにとって悪魔の——いや、邪神の囁きだった。


 うずくまり背を震わせるカタリナは涙目で俺を見上げると——。


「殺して!」


 その一言で十分だった。


 この神世界フェティスに来てからというもの、現代日本でのミスを繰り返さないために、随分と慎重に金儲けを続けてきた。

 その方針に間違いはないと実感しているが、本来——裏事の依頼とはこう言った直接的な依頼がほとんどだ。


 直感的に吐き出される欲望の叫びこそ、もっとも金払いの良い依頼となる。


 それに、アンのことを“天使”と呼んだことも気になる。“富の神ネーシャ”のことまで見通しているのかは判らないが、もしも俺がネーシャの使徒であることも見抜けるようならば、奴を生かしておくのは危険だ。


 どういう形にしろ、その口を封じる必要があるのだ。


「報酬を用意して待っていろ」


 それだけ言い、俺も窓枠から飛び降りる。着地した側には、食材店を飛び出したアンの姿もあった。


「カネガ! ファイスのネェちゃんに呼ばれてきたが、これは一体……」


 そして、俺が飛び降りたのを見て従士隊を率いてきたダストン・マールが足を止めた。


「吸血鬼だ」

「なに?!」

「食材店の店主、ベガートが一階の奥で死んでいる。カタリナは二階で手傷を負っているから治療が必要だ」

「わかった。おい、中を確認しろ! それで、吸血鬼は?!」


 ダストンはすぐに後続の従士に食材店を確認するように指示すると、俺が向く方向と同じ方向に視線を向けた。


「逃げたが、まだ間に合うはずだ」

「ミスター・ゼン、お怪我は?」


 従士隊を押しのけるように、隊員たちの後方からファイスが近づいてきた。アンも俺を心配そうに見上げているが、何も言わない。

 アン自身も、あの吸血鬼が自分のことを天使だと呼んだことを気にしているのだろう。


「ファイス、アンとお前は墓守に戻れ、俺が戻るまで地下納骨堂の奥で待機していろ」


 墓守小屋ではなく、地下納骨堂で待機といったことに、ファイスの顔に疑問の表情が浮かぶ。だが、アンの方は俺が言いたいことがすぐに判ったようだ。

 黙って頷き、ファイスに「行きますです」と声をかける。


 吸血鬼はアンのことを供物として狙っていた。ここで俺たちを振り払い、再びアンを狙う可能性は高い。

 地下納骨堂は広大な迷路のような場所だ。その配置は地図なしではとてもではないが把握できず、すぐに用意できるものでもない。

 それに、アンなら地下納骨堂の奥にただ隠れるだけではなく。俺が密かに造らせた隠し部屋の一つに間違いなく行くだろう——そこなら安全だ。

 

「ミスター・ゼンは?」


 だが、ファイスの方は吸血鬼の狙いなど知らない。俺の指示に従いはするだろうが、疑問点は確認しなければ気が済まないのだろう。


 これはこれで、いい傾向だ。


「新しい金儲けだ。行くぞ、ダストン」


 その疑問に一言で答え、ダストンを一瞥して走り出す。


「おぅ、行くぞお前ら、今夜で吸血鬼を退治するぞ!」

「おぉ!!」


 これ以上のタイムロスは吸血鬼を完全に見失う。ファイスとアンの返事も聞かず、従士隊の残りとダストン・マールを連れ、フードの男が逃げた方向へ追跡を開始した。



******




 逃げる先はすぐにわかった。大通りは人で溢れ、夕食や飲み会、デートに家族での外食、そこかしこに人の目があり、その緩やかで楽しげな空間を切り裂くように走るフードの男は、異様に目立っていた。

 それだけではない、サイランの都市中で従士たちが吹き鳴らす、甲高くも鋭い笛の音が絶えず鳴り響いており、従士たちが誰かを追っていることは都市の住民たちにも一目瞭然だった。


 となれば、フードコートが通りを走ろうが、家屋の屋上を走り抜けようが、警戒した住民たちの目が跡を追いすがり、それが従士隊にも伝わり、逃亡するフードコートとの距離が少しずつ縮まっていた。


「怪しいフードの男を見なかったか?!」

「あ、あっちの角を——」

「行くぞ、こっちだ!」


「ここにフードの男が来なかったか?」

「え? あっ? 壁を走るように上に——」

「屋根に上がったぞ!」

「見えました! 北西に向かっています!!」


 奴との距離は間違いなく縮まっている。従士の中には身軽な者も多く、通り道だけでなく、屋根に登って上から捜索している者も少なくない。

 ピーピー鳴り響く呼子笛よびこぶえの音が追加の従士隊を呼び寄せ、吹き方一つで逃亡する方角を吹き示し、追い詰めていく。


 だが、逃亡ルートの範囲が十分に狭まりつつも人の目が減って吸血鬼の位置を見失いかけたころ、職人たちの工房が数多く建ち並ぶ区画に近い裏路地で、俺たちの前に一人の騎士の姿が入ってきた。


「従士マール。それに君は……北墓地の墓守……確か、カネガだったかな?」


 従士隊の別働隊と行動を共にしていた騎士は、今朝の集まりで顔を合わせたばかりのベネトラ騎士、マデリアス・シュターゼンだった。


「吸血鬼が襲っている現場に遭遇してな、夫を殺された妻からの依頼もあって奴を追っている」

「シュターゼンさま、このカネガって奴は墓守や検分の他に、金さえ貰えば何でもやる便利屋ってのもやっていまして……」


 俺の言葉を捕捉するように、ダストンがマデリアス・シュターゼンに説明する。


「へぇ……遺体の検分といい、君は随分と面白いことをしているようだね」

「金儲けの幅が広いだけだ」


 短い茶髪の髪をかき上げながら俺のことをじっくりと見るマデリアス・シュターゼンは、今朝の集まりで着ていた白銀の鎧は来ておらず、軽装の鎖帷子にどこにでもありそうな質素な長剣を腰に帯びていた。

 そして目につくのは、血のように赤い真紅の肩マント、左肩から腰付近までの片側マントなのだが、神世界フェティスの騎士とはこんなナポレオンみたいなマントを誰しもが着ているのかと、軽いカルチャーギャップを感じてしまう。


「吸血鬼退治だというのに、鎧は着てこなかったのか?」

「今夜は非番だったんでね。笛のを聞いてここまで来たが……どうやら、吸血鬼を見失ったようだ」

「なんだって?! くそッ!」

「残念だが、捜索範囲を広げるしかないだろうね。カネガ、君は吸血鬼を見たようだが、顔は見たかな?」

「いや、深いフードを被っていて顔は見ていない」

「……何か話したかい? 声や喋りに特徴は?」

「口に鋭い牙のマウ——入れ歯をしていて、まともな発音ではなかった。喋りは……一言で言えばイカレている」

「入れ歯? それで人の血肉を喰ってやがるのか!」

「——だろうな」

「イカレている……か、面白いことを言うね。結局のところ、吸血鬼の正体は判らないと?」

「——そうだ」

「それじゃ、ここで逃したらまた一から探し直しか!」


 さも残念そうに肩を竦めるマデリアス・シュターゼンとは対照的に、あと一歩というところで吸血鬼を見失ったことに、ダストンは怒りを隠せなかった。


 だが、俺はダストンほどの悔しさや怒りは感じていなかった——正確には、まだ完全に見失ったとも思っていない。

 吸血鬼は俺の一撃を喰らって、左脇腹を内出血するほどに痛めている。移動速度は使徒と言えどかなり低下しているはずだ。

 だからこそ、スラムを目と鼻の先にした人気ひとけの少ない区画にまで追い詰める事ができたのだ。


「諦めるのはまだ早い。吸血鬼は左脇腹を痛めている。あばらが折れて内臓を傷つけたか、刺さっているはずだ」

「つまり?」

「ここへ逃げてきたのは、何か理由があるはず、例えば——」

「……医者か!?」


 そう、使徒として身体能力が向上しているとは言え、自然治癒力の向上にも限度がある。おとぎ話のモンスターのように、斬ったそばから泡を吹いて傷が再生していくわけではない。その治癒力は、常人よりも幾分早い程度なのだ。


 当然、傷ついた体内を適切に治療しなければ、治るものも治りはしない。


「この辺りはスラムに近い、あそこの住人を隠れて診ている闇医者が何人かいたはずだ。班を分けて診療所を全て捜索しろ! 相手は手負いだが油断するなよ!」

「ハッ!」


 ダストンが従士隊に指示を飛ばし、一個の集団となっていた隊員たちが小分けされ、次々に駆け出していく。


 人気のない路地に残ったのは、数名の従士とダストン・マール、騎士マデリアス・シュターゼン、そして俺だ。


「カネガ、俺たちも引退した老治癒師のところへ行く。そういう個人の家にも吸血鬼が行く可能性はあるからな……シュターゼンさま、ご同行されますか?」

「いいえ、従士マール。そちらは君たちに任せます」

「そうですか……カネガ、お前はどうするんだ?」


 騎士シュターゼンがあっさりと同行を拒否したことに、ダストンは僅かに不本意そうな表情を浮かべたが、すぐにそれを隠してこちらに話を向けた。


「そうだな——乗り掛かった船だ、最後まで見届けたいが……一度、墓守小屋に戻ることにする。吸血鬼に遭遇したのは俺だけじゃないからな」


 と言いつつも、俺もこの近くに潜りの治癒師の家があるのを知っていた。そこはサイランの裏の住人が重宝している家で、ダストンのような従士を連れて行くわけにはいかなかった。


「あぁ……そうだな。悪りぃなカネガ、情報助かったぜ」


 ダストンは俺の肩をポンっと一つ叩いて従士たちの前に立つと、気合いを入れ直して引退した老治癒師の家へ駆け出していった。


「墓守小屋に戻るなら、僕も行っていいかい? 吸血鬼に襲われた少女たちには興味がある」


 ダストンたちの後ろ姿を見送っていると、この場に残った最後の一人、騎士シュターゼンが声を掛けてきた。


「……まぁ、いいが」


 僅かに騎士シュターゼンの笑みを見つめ、振り返って北墓地に向けて歩き出した。

 




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