吸血鬼 ②




 墓場に駆け込んで来た従士に連れられ、遺体の回収道具を一通り準備して現場となった住居に足を踏み入れた。


「すごい臭いですね」

「これが血の臭いと死臭だ。我慢しろとは言わないが、慣れろ」

「鼻の下にハーブクリームを塗ると緩和されるのです」


 俺に続いて入って来たファイスが顔を顰(しか)めて鼻を手で塞ぐ。確かに、この臭いは慣れている俺でも不快感を覚えるほど強烈なものだった。

 それゆえに、この先の遺体が相当に損傷していることが予想できる。


 アンは慣れたもので——というか、自分なりに対処法を見つけて異臭に対応している。


「来たか、カネガ」


 俺たちの声に気づいたのか、異臭の発生源からダストン・マールが顔を出した。


「これも墓守の仕事だからな、遺体を回収していくぞ」

「嬢ちゃんたちも一緒か……とりあえず、診てもらえるか」


 ダストンのいつもとは違う覚束ない口振りに少し違和感を感じ、アンとファイスに「ここで少し待て」と言って俺だけが奥の部屋へと入って行った。


 その部屋はこの住居の居間のようなスペースで、小さなテーブルにウィングバックチェアが二つ、小さな書棚や信仰する神への神棚が目に入るが、何よりも目立つのは床張りのフローリングに敷かれた絨毯にできた、真っ赤な血の池だった。


 だが、そこには遺体がない——。


「……上だ」


 背後で呟くダストンに言われるまでもなく、視線を床を見つめる下から直上の高い天井へと向ける。


「こいつはまた……」


 そこで言葉に詰まった。


 そこにあったのは両手両足を天井の梁から吊るされ、胸から腹までを縦に引き裂き、肉ごと背中側へ大きく開かれている。


 それはまるで、赤い血肉を滴らせる翼のようだ。


 真下で見上げる俺を睨みつけるように、眼球のない眼底と下を引き抜かれた大口の老婆が、バケモノのような形相で真っ直ぐに見下ろしていた。

 

 異様さはそれだけに留まらない。下半身も所々の肉が左右同一箇所で抉り取られている——にも関わらず、脊髄に肋骨、大腿骨が剥き出しのまま綺麗に見えている。


 その姿は人の体を使って作った、何かを象る造形芸術にも見えた。


 同時に、言葉に出来ない異様さから常人の犯行とはとても思えなかった。精神異常者か病的な妄想状態に陥っているか——それとも、何か強迫観念にも似た強い精神思考にとらわれていたか。


「とりあえず、作業を始めるから家の外で待っていろ」

「あぁ……だが、あそこから降ろすのは一人で出来そうか?」

「手が必要なら呼ぶ、足場が必要だから踏み台になるものを用意してくれ、それとアンとファイスにこちらに来るようにも言ってくれ」

「判った。踏み台は用意するが……」


 俺の指示にダストンが頷くが、どうも歯切れが悪い。いつもの快活とした男とは思えない姿に、声は出さずに視線だけで何事かを問う。


「……子供に手伝わせるような現場じゃないと思うが?」


 ダストンの返答に、こいつは何を言っているんだ? と、一瞬こちらが困惑しそうになったが、ダストンの視線が俺の追求を避けるように横へ逸れる。

 自然と俺の視線もそれに釣られて横へ動くと、小さなテーブルの上に木製カップが二つ、小皿も二つ。


 片方はシックなデザインで天井から釣り下がる老婆の物と思われるが、もう一方はかなり小さな子供向けのカップ。皿の上には食べかけのクッキーらしき焼き菓子も見える。


「——遺体は一つだけだが、ここにはもう一人いたか? 生存者——いや、目撃者……それも小さな子供だ。そういえば、この辺りはお前の家があったはずだなダストン、娘は元気にしているか?」

「……お前の観察眼はたまに腹が立つ」


 俺を恨めしそうに一睨みしたダストンは、舌打ちをしながら視線を横に外した。その先には老婆の寝室があり、そのベッドに座って小さな小娘を抱きかかえる女の姿が見えた。


 女にも小娘にも見覚えがある——ダントンの嫁のミザリーに、娘のイリナ。


「——なるほど……目撃者はお前の小娘か、ダストン」

「そうだ……だが、イリナは若い男が訪ねて来て、サドラ婆と何かを話していたことしか見ていない」

「話し? なら知り合いの犯行か——しかし、よくイリナは無事だったな」

「イリナは来客時に寝室へ行かされたそうだ。そのあとはサドラ婆の叫び声を聞いて収納庫の中へ隠れた。このイカれた犯人はサドラ婆だけを手にかけ、こんなふざけた仕打ちをした後は、イリナに気づかず出て行ったそうだ……イリナの運が良かったのは確かだが、愛娘が死と直面した事実は変わらん。お前だってアンにあんなものは見せたくないだろ?」


 ダストンの視線が真っ直ぐに俺を見据える。


 何を甘い事を——裏事は大人だけの仕事じゃぁない。子供(ガキ)を使う殺し屋や運び屋は多く、子供(ガキ)自身が裏事を請け負っている事も少なくはない。


 それはこの神世界フェティスでも同じであり、死は誰にでも平等で不条理だ。


 むしろ、死を目前にしても動じない者ほど、長生きできるというもの——そう言った意味では——。


「ダストンさん、私は平気なのです」


 話が聞こえていたのか、外で待っていたアンとファイスが老婆が吊るされた居間に平然とした表情で入ってきた。

 ファイスの方は家中に籠る血の匂いに顔を顰めていたが、死とそれに飲み込まれた者を前にする事自体は平気なようだ。


「踏み台を用意しました」


 ファイスは両手で木製の踏み台を抱えていた。それほど大きな物ではないが、吊り上げられた老婆を降ろすには十分な高さを確保できそうだ。


「アンだけじゃなく、ファイスも平気なようだな」


 老婆の状態はかなり凄惨だ。念のためファイスに確認をとったが、「問題ありません」と即答した。


 この男装執事も、随分と死体に慣れたものだ。


 ファイスから踏み台を受け取り、足場の位置を確認しながら老婆の下に置く。


「ダストン、まずは老婆を下に降ろす」

「……判った。それで、その後は?」


 アンとファイスが遺体を前にしても平気な様子に、ダストンは自分の心配が杞憂だったかと感じたが、それでもやはり納得しきったわけでもない。

 今できることがあるとすれば、少しでも早く凄惨なサドラ婆の遺体を下ろし、埋葬することだった。


「この家で検分するわけにもいかないだろ——墓地へ運ぶ、何か判ればラジを使いに出すさ……」

「あぁ、頼む……何でもいい、こんな事をしたイカレ野郎の手掛かりを見つけてくれ……」


 ダストンは天井を見上げて老婆を一瞥(いちべつ)すると、嫁と愛娘を連れて家の外へ出て行った。

 家の中で待機していた他の従士たちも続いて行き、この民家に残るのは俺とアンとファイスの三人だ。


 娘を抱き寄せ、嫁のミザリーの肩を抱くダストンの背中は、いつも見ていた威勢のいい親父の背中よりも、一回り縮んでいるように見えた。


 その背中から再び天井の老婆へ視線を向ける。


 骨壷に刻む名前はサドラ・バルミヤ——絶叫を上げたであろう口は大きく開き、そこにあるはずの舌は根元から切り取られていた。

 最後の瞬間を見る事なく刳(く)り抜かれた両目眼窩(がんか)は底知れぬ闇を抱え、胸部から下腹部まで大きく切り開かれた体は、まるで翼のように背中にまで開かれ、その端端が針金のように細い鋼線で縛られて天井と結ばれていた。


 そして何よりも異様なのは——開かれた体の中にあるはずのものがない事だ。


 肺も心臓も胃袋も、肝臓や膵臓に腎臓といった内臓のほとんどが抜き取られ、悪臭を嫌ったのか腸だけがパーティーの飾り付けのように逆アーチを描きながら老婆の周囲を飾り付けていた。


「アン、外から桶を持ってこい。ファイス、老婆をゆっくり降ろすから床に大布を準備しろ」

「ハイです!」

「かしこまりました」


 アンもファイスも、老婆の異様な状態についてあまり深く考えないようにしているようだった。天井に視線を向けても、すぐに床へ落として降ろしたその先の準備に取り掛かる。


 こういった異常死体と出くわすことは、実はそれ程珍しくもない。


 ここは現代日本とは違い、神の力などと呼ばれる人智を超えた力が跋扈(ばっこ)する神世界フェティス。

 神への信仰の名の下に、善悪の括りは意味をなさず、あらゆる行動が供物として奉納される。


 この老婆の死に様も、そうした供物の一つとして祭り上げられたのだろう。


 吊り下がる鋼線を緩めながら、展示物を解体するように老婆の体を少しずつ降ろして行く。

 その作業の間——俺たち三人の中で交わされた会話は、老婆を遺体袋に収めるための指示と返答だけだった。



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