馬車の乗客 ⑤
ファイスはカウチの後ろで両手を腰裏に組んで立っている。真っ直ぐに俺を見つめながら小さな唇を引き結び、俺からの言葉を待っていた。
「——俺はゼン・カネガだ」
とりあえず、フルネームを名乗ってみる。
「ファイス……ピーニスです。ファイスとお呼びください、ミスター・カネガ」
「わたしはアンです!」
「……よろしく、レディー・アン」
性に当たるピーニスの名を口にしたとき、ファイスの表情が僅かに曇った。その名はあまり好きではないのかもしれない。
しかし、この女をどうしたものか——アンは受け入れることに肯定的なようで、ニコニコと満面の笑みでファイスの周囲を周り、物珍しそうに男装の燕尾服をツンツンしていた。
食器棚から新しいグラスを二つと未開封の蒸留酒の瓶をとる。コルク栓を回し抜き、蒸留酒を注いでカウチへ移動する。
「まずは座れ」
カウチの後ろに立たれては話しにくい。客人用の椅子に座るように指示すると、ファイスは「かしこまりました」と一言答え、俺と囲炉裏を挟んで向かい合うように座った。
アンもトトトッとカウチに座り、それを見届けて無言でグラスを差し出せば、ファイスも無言でそれを受け取った。
改めてカウチに腰を降ろしてファイスと向き合い、蒸留酒を一口飲む。
「それで……お前はここで何をするつもりだ?」
「はい、ミスター・カネガ。墓守の手伝いに家事、依頼に関する調査など、ご命令あらばなんでも致します」
なんでも——と言われても、俺には俺のやり方があるし、墓守の仕事はアンで十分に間に合っている。そして何より、“富の神ネーシャ”の使徒であることを知られるわけにはいかない。
現状、ファイスはヘーゼンベルク卿の奴隷であり、彼が俺について何か聞けば、ファイスは自分が見聞きしたものすべてを伝えてしまうだろう。
そもそも——。
「ヘーゼンベルク卿はお前をここに残して行ったが、サイランでの宿泊先はどこだ?」
「ヘーゼンベルク卿は宿をとっており、私もそこの下級部屋を他の付き人と共に与えられておりましたが、ご息女と神王都に帰られる折に引き払われるはずです」
「つまり……宿無しか」
「肯定です。ミスター・カネガ」
そうなると、ここに泊めるしかないか?
だが、この墓守小屋は一部屋しかなく、ベッドは俺が腰掛けているカウチがそれを兼ねている。
アンはまだ体が小さいので部屋の隅に自分の寝床を作ってそこで寝ているが、とてもではないが他人を寝かせるスペースはなく、ここは便利屋として依頼人と話す場所でもあるが、基本的にはプライベートな空間だ。
「悪いがお前をここに泊めるつもりはない、どこか別の滞在先を用意できるか?」
「それでしたら、
「そうしてくれ」
「了解しました。ですが、今晩はすでに時刻も遅く、部屋を取ることが難しいかと思われます。部屋の隅で結構ですので、泊まる許可を」
確かに、ヘーゼンベルク卿たちとの話し合いで外は夜の闇に覆われている。これから部屋を探すとすれば、酒場の連れこみ部屋ぐらいしか見つからないかもしれない。
「時間的に仕方がないか、毛布くらいは貸してやる」
「感謝します」
「なら、わたしと一緒に寝ましょう!」
俺の許可を待ち構えていたアンが立ち上がり、ファイスの手を取って自分のスペースへと連れて行く。
その様子に一つ大きく息を吐き、突然の部下にこれからの金儲けをどう転がしていくか。しかも女となれば色々と扱いに困る。
裏事をこなせる女もいるにはいたが、ファイスがそうだとは限らないし、ヘーゼンベルク卿の奴隷であるうちは、事細かく裏事の内容を教えるつもりもない。
「お前たちはもう寝ていろ。俺は墓地の巡回に出てくる」
「同行します」
アンに引きずられて行くファイスが振り返って同行を求めたが——。
「——今日は休め。仕事をしたいのなら、まずはアンに小屋のことを教わってからにしろ」
「……了解しました」
墓守の仕事を覚えるつもりなのかもしれないが、まずは墓守小屋のことを色々と覚えてもらわなければ話にならない。
確かに人手が増えれば巡回も早く終わるし、その分の時間を便利屋として活用すれば、俺にとってさらなる金儲けになることは間違いない。
だが、事を急いでクォリティーの低い仕事を俺は許すつもりはないのだ。
同行を却下され、俯きながらも一気にグラスを呷るファイスの顔が、ほんのりと赤くなったように見える。目を見開きゆっくりと長い息を吐き出すところをみると、あまり酒に強くないのかもしれない。
その日の夜は、特になんの問題もなくすぎて行った。今さら女が一人墓守小屋に転がり込んだところで焦りもしないが、ゴミ山のように積み上がる
翌朝、ファイスは俺たちよりもだいぶ早く目を覚まし、墓守小屋にあった食材で簡単な朝食を作ると、滞在先を決めるために
俺とアンはその朝食——少し固めのパンにハムとバターを挟み込んだサンドと、コンソメスープの味に一つ二つと頷き合いながら、ファイスの料理の腕がそばに置いておきたいと思えるほどだったことに好感を覚え、依頼の報酬としてヘーゼンベルク卿が差し出すだけの価値がある——などと上から目線で品評し合っていた。
そのあとは朝の墓地清掃を行い、いよいよ便利屋としての依頼に着手するわけだが——。
「資料を用意しておきました」
「あぁ、助かる——」
「こちらがサイラン周辺都市での聞き込み調査の報告書です。これは旅馬車が経由したと考えられる道程と、向かうつもりだったと思われる方角です」
「なるほど——」
「こちらが加虐性欲を持つと思われる人物のリストです」
「こんなにいるのか——」
ファイスが優秀なのか、それともラドバルディア商会とヘーゼンベルク卿の調査力が凄いのか、これから調べるはずだった大半を知ることができた。
だが、ここまで調べておきながらなぜ俺に依頼を持ってきたのか。自分たちで真相の究明を図ることは決して難しいことではないように思えるが。
「それはこの街に住む
感じた疑問をそのままファイスに問うと、彼女は考え込むことなく即答した。
「
「肯定します」
ザイドン・ラーゲンヘルツは、先日の依頼で騒ぎを起こした夜会の主宰だ。俺があの騒ぎに関わっている事は知る由もないだろうが、ラーゲンヘルツ卿はサイランでも有力な
今回の依頼とも関わっていそうだが、それはヘーゼンベルク卿とラドバルディア夫人も最初に疑い、徹底的に調べ上げたという。
「ラーゲンヘルツ卿はサディストであると断言できますが、同じ
同様の理由で、ラーゲンヘルツ卿の影響下にあるサイランで堂々と調査をし続けるわけにもいかず、調査は打ち切られた。そしてヘーゼンベルク卿たちの調査は暗礁に乗り上げた——というわけだ。
ラーゲンヘルツの夜会が開かれなくなった理由は——間違いなく俺のせいだな。ミステルは面倒臭い招待状が来なくなって助かったなどと笑っていたが、地下会場から抜け出した猛獣ライオリアを制圧するまでに、随分な被害を出したと聞く。
そのような失態を晒したラーゲンヘルツ卿の夜会に、すぐまた人が集まるはずもなく。ここしばらくは夜会が開かれる事なく、怪しげな地下取引は闇に身を潜めていると聞く——。
「——だが、その周囲には多くのサディストどもがいるはずだ」
「肯定します。ミスター・カネガの人脈に期待し、真相の究明を」
「それが依頼だからな、粛々とやらせて貰うだけだが……お前はその服しか持っていないのか?」
ファイスが墓守の仕事や日常生活の支援を行うのはいい。便利屋の仕事も手伝うというなら何かをやらせるかもしれない——しかし。
「肯定します。これはヘーゼンベルク家にお仕えするための正装です」
「だが、今は俺の手伝いをするのだろう? そんな格好で情報収集に行けば、どこかのお偉いさんが嗅ぎ回っているとすぐに噂が広まるぞ。そうなれば聞ける話も聞けなくなる」
「わたしは素敵な衣装だと思いますです」
アンはファイスの執事姿を気に入っているようだが、直立不動で両手を腰裏に組むファイスは俺の言葉に思うところがあるようで、まっすぐに俺を見据える視線を自分が着る男装の執事服へ向けた。
「……これしか持ち合わせがありません」
「金は持っていないのか?」
「サイランでの滞在で必要となる食費や宿泊費は支給されています」
「つまり……それ以外はないと」
「肯定します」
堂々と胸を張ってそう言い放つが、ヘーゼンベルク卿も必要最低限の生活費しか与えていないのか——いや、ファイスの身分が奴隷であることを考えれば、給金などはほとんどないのかもしれないが——。
「しょうがない、俺が街服を用意してやる。依頼の調査はそれからだ」
これは先行投資、そう思えばいい——投資した物件がどう成長するか、それはこの期間のうちに見極めればいい。
服を買う、それに対して僅かに眉を顰めたファイスだったが、すぐに平静を取り戻して着替えることを了承した。
しかし、女物の服などどこで買えば……。
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