序章




 周囲を見渡し、剥き出しの土床を蹴ってみる——積もりに積もった埃に、ボロボロの石壁、玄関と思わしき間口に扉はなく、廃屋内と同じように荒れ果てた街並みらしき壁が見えていた。


「ここが、神世界フェティスか……」

「そうです!」


 独り言のつもりで呟いた言葉に即応があり、思わずビクッと肩が震えた。


「ふふっ、驚かせちゃいましたか?」


 その声は俺の背後から聞こえた。“富の神ネーシャ”の高音に少し似ているが、こちらは随分と幼い印象を受けた。


「誰だ?」


 その声がした背後を振り返ると、そこには金髪の少女が立っていた。


「初めまして、ゼン・カネガ。“富の神ネーシャ”の使徒様にお仕えできる栄誉に、この身が打ち震えるほどの喜びを感じておりますです!」

「……フェティスで必要なものは全て用意すると言っていたが、まさか——それがお前か?」

「はいッ! そうなのです!」


 俺の質問に元気よく答える少女は、ネーシャに似た金髪のオカッパ頭に、白い麻布の貫頭衣を着ていた。

 道具や荷物の類は何も持っていないようだし、足元を見れば靴すらも履いていない素足だ。


 見た目は細身の中学低学年か小学生ほどだろうか。将来は間違いなく美人に育つだろうと予想できる整った顔立ちをしているが、とても俺の役に立つとは思えない——。


「——名前はなんて言う?」

「アンです!」


 目をキラキラと輝かせ、笑顔いっぱいで答える少女の姿は、特殊性癖を持つものならイチコロ——そうでないとしても、向けられた者の頰も緩んでしまうほどの可愛げがあった。


 だが、俺の金儲けはこう言った好きモノを虜にする“商品”とも幾度となく関わってきた。その関わり方も様々だが、俺まで虜になっては金儲けにならない。


「——アンか。それで……お前が俺にとってどう役立つんだ?」

「それを説明するよりも、この神殿から一歩外に出てみれば色々わかると思います」


 アンがこの廃屋を神殿と呼んだことが気になったが、外を指差す白く小さな指に沿って外を見れば、とりあえず言う通りに出てみるのも悪くないと思えた。

 

 だが、廃屋の外に出てみると景色は一変した。そこにあると思われた荒れ果てた街並みは、正に間口の正面に残る壁一枚しか残っておらず、廃屋の周囲は生い茂る緑の森に囲まれていた。


「あのアマ……」


 それだけではない。視界がチカチカと明滅し、目まぐるしいフラッシュバックのような知識の波が襲い来て、激しい吐き気と頭痛で膝から崩れ落ち、両手両膝を地面につけて嗚咽を漏らした。

 身体全体が燃えるように熱くなり、地面を掻き毟る両指の先が僅かに血に滲んでいく。この熱さの発生源は右眼だ。破裂するのではないかと思うほどの激痛が眼球から脳に響き、背を伝って足の指にまで届いた。


「はぁはぁ……なるほどな、よ〜く判ったぜ……」


 激痛を感じたのはどのくらいの時間だっただろうか。1日か、1時間か、1分か——それともほんの僅かな刹那の時だったのかもしれないが、身体中の熱と共に激痛が消え去った時、俺は真の意味で“富の神ネーシャ”の使徒として生まれ変わったのだと悟った。




 俺が降り立った場所は、かつてネーシャの使徒が暴走して滅ぼした一国の首都があった場所だ。

それ以降、周囲の国々からは禁忌の地として避けられ、瞬く間に森の自然に沈み消えた伝説の都市。そして、背後の唯一残った廃屋こそが、俺の主神となった“富の神ネーシャ”の本殿であり、神世界フェティスに唯一残されたネーシャの支配圏だった。


 俺は仕える神を間違えたかもしれない——そう感じるのも致し方のない影響力の小ささだ。


しかし、ネーシャにも言い分があり、ここに俺を降臨させたのにはちゃんと理由がある。

 それは他の神々と競合する支配圏へ降臨させれば、一千年ぶりにはなろうかと言う“富の神”の使徒降臨を知られてしまう。


 そうなればどうなってしまうか? 


 答えは簡単だ。神々は常に己の神格を高めるために信仰を集めている。それは一つの競争だ——その勝者に何が与えられるのかは知らないが、勝つためには手段を選ばない——と言うより、全ての手段が正当化されていた。

しかし、その手段全てが人心に理解されているわけではない。使徒同士の争いは信徒同士の争いに発展し、やがて大きな信仰戦争になることもある。


だが、“富の神”の使徒だけは別だ。もしも伝説の邪神の使徒を狩ることができれば、信徒から絶大な信仰を得ることができ、それがそのまま主神への信仰へと繋がる。


つまり、“富の神”の使徒である俺は、経験値がたっぷり得られるレアモンスターそのものだ。他の神々が使徒降臨を察知すれば、直ちに自身の使徒へ宣託を行い、悪魔払いと称して狩りとろうとする。


 俺はネーシャの為に奉納金を稼ぎつつも、使徒であることは隠し通さねばならないのだ。


 そして、ネーシャも事の発端となった暴走を繰り返すつもりはなかった。使徒として生まれ変わった俺には金儲けに必要な十分な神力と基礎知識だけを与え、神世界で信仰を高めていくのに必要となる専門知識の数々を、神の眷属——天使を生み出して詰め込んだ。


 それが、アンだ。アンが俺の金儲けにどれだけ寄与できるのかは甚だ疑問だが——。


 力と知識——どちらも金儲けには必須の能力、一つの身体に詰め込むのではなく、二つの身体に分ける事で平均以上の能力を授けようと言う魂胆は一理ある。

 

「小賢しいことを——だが、悪くない」


 使徒としての神力を育て上げることは難しいが、新しい知識ならば幾らでも覚えられるし、日本での知識も十分に持っている。

 暴走の恐れなく力を振るえると言うのは、金儲けにおいて大きなアドバンテージになるはずだ。


「説明、要りますか?」


 高熱で噴き出した汗を拭いながら立ち上がると、アンがそばに近寄ってきて俺を見上げた。


「いや、大体のことは判った」

「何か判らない事があれば、遠慮なく聞いて下さい!」

「あぁ、そうさせて貰う——それで早速だが、ここから一番近い街はどこだ?」


 他人が見れば親と子ほどに歳が離れた天使の少女アンは、自分の脳内にある知識を検索するかのように目をつぶり、小さな唇に人差し指を当てながら「ちょっと待って下さい」と思案顔を浮かべ——。


「あっちです!」


 と森の木立が続く方向を指差し、俺とアンの金儲けはスタートした。




******



森に沈んだ廃都の遺構から離れ、草木を掻き分けながらアンの知る最も近い都市に向かって歩き出した。


 俺は今まで、表も裏も線引きせずに金儲けを続けてきた——金貸しに集金、人探しや浮気調査などの探偵業、裏事の闇取引や実行など、何もかもを一人で行なっていたため、恨みを持つものが俺の動向を探るのはそう難しくない状態だった。

仮に自然公園での襲撃を捌けていたとしても、近いうちに別の刺客が、もしくは警察組織に踏み込まれていたかも知れない——俺の人生はすでに詰んでいたのだ。


 森に生い茂る草花も、姿を見せてはすぐに逃げていく小動物も、日本はおろか本やTVでも見たことがないものばかりだ。

 アンは自分の知識と実物の照合でもしているのか、ブツブツと固有名称らしきものを呟きながら草花を観察していた。


 この神世界フェティスに降り立ったことで、俺に関する情報は真っさらなものとなった——この機会を逃す手はない。今度は今まで以上に慎重に、人の恨みを買わないように……いや、買い過ぎない程度に行動し、禍根が残るようなら塵一つ残らず消去する。


 そうすれば、少なくとも夜の公園で背中を刺されて死ぬなんてことは二度とないはずだ。


 一人の労働者として、真っ当に生きようなどとは微塵も考えていない。そのような生活とはとうの昔に縁を切った。


 今更戻りようがないし、戻り方も知らない。




 深い森の中を歩き続けて数時間、俺は生まれ変わった“使徒”としての能力を実感していた。


 神の使徒になるとその身体能力は常人の数倍となり、神の力の一部を刻印ラースという形で身に宿し、行使することができる。

 その力は刻印ラースを道具に刻んだ神具アーティファクトの比ではなく、ネーシャからは更に強力な使徒専用の神具アーティファクト——神器セイクリッドを受け取っていた。


それは深夜の公園まで乗ってきた車に隠しておいた現代世界の拳銃——SIG SAUER P226だ。

裏事用にサイレンサー付きで隠し持っていたため、ネーシャがサイレンサーごと神器セイクリッドとして具現化させていた。


 黒く小さな銃身と小ぶりなサイレンサーが本当に使えるのか——マガジンを抜いて弾薬が装填されていることを確認し、再び挿し込んでスライドを引く。


 その様子を、アンは少し離れたところで興味津々に見ている。


 薬室に初弾を装填し、適当な太さの木を狙ってトリガーを引く。


——ボフッ。


 サイレンサーでいくらか消音された鈍い発砲音が響き、ちゃんと発砲できたことを確認して続けて五発撃ち込む——。


「飛び道具の神器セイクリッドですか!」


 P226が一体なんなのか説明していなかったので、アンが撃ち出された銃弾の勢いに驚く声をあげた。


「あぁそうだ。SIG SAUER P226と言ってな、俺のいた世界では拳銃と呼ばれていた武器だ」

「なんだが凄く強そうな響きです! フェティスの飛び道具と言えば弓や石飛礫などが一般的です。神具アーティファクトの中には似たような神砲プラーガと言う兵器がありますけど、あれは神罰の行使まで長い祈りと信仰心が必要なのです」

「祈りと信仰心ねぇ……」


 金儲けに対する信仰は持っていても、今の所ネーシャに信仰を捧げる気はなかった。その必要もなく、こうしてP226を撃てているのだから、“富の神ネーシャ”は意外と寛容な女神なのかもしれない。


 アンの話を聞きながら、木の幹を喰い破ってあいた穴を指で穿ほじって中を確認する。


「弾はないのか……」


 木の幹に開いた穴には、弾が残っていなかった。


 使徒としての能力を考えれば、無いのも頷けるか——そう考え、マガジンに残る残弾を確認して腰の裏へとP 226を挿した。


 神器セイクリッドとしてP 226を用意してくれるのなら、一緒にあったはずのホルスターも用意してくれればいいのに——口には出さないが、少々持ち運びが不便だと感じながら、次の能力確認へと移った。


 使徒として能力を行使するには、それぞれの神に応じて奉納品を納め、信仰を高めなくてはならない。

 だが、何もかもをも対価を求められるわけではなく。最も根源的な能力に関しては制限なしに行使することができる。もちろん——その性能は信仰を持って行使する能力には遠く及ばないが。


 俺が手に入れたもう一つの能力——それは黒色から輝く黄金色へと変化する右眼、そしてそこには“富の神”ネーシャの使徒であることを示す、刻印ラースが浮き上がっていた。


 この刻印ラースの右眼で周囲を見れば、あらゆる物の価値を見ることができる。この神世界フェティスで唯一流通する単一通貨で、どれほどの価値があるのかを。


見渡す森の中は無価値を示す0が並んでいるが、木々に実る果実には数字が付いていた——100とか150など、単位は表示されていない。

だが、この神世界フェティスの単一通貨の単位はドーラだ。そう、脳内の知識が教えてくれた。


価値があるということは、使い道があるということだ。果実の使い道は?


木の枝から一際数値の高いリンゴほどの大きさがある赤い実をもぎ取り、二つに割って匂いを嗅ぐ。甘い蜜の香り——少なくとも、薬や毒の類ではない。


「それはスモーの実です。この辺りの森で採れますけど、周辺の都市や町では貴重な珍味として有名なのです」

「スモー?」


どうやら食べられるらしい——割った片方をアンに渡し、齧りつく——サクッと嚙み切れる歯応えと、口一杯に広がる甘い汁。


「美味い……」


俺は美食よりもジャンクフードを好むたちだが、それでも今まで食べた何よりも美味い——そう感じさせるほどに、この赤い果実の味には強烈な新鮮さと旨味があった。


「知識として美味しいとは知っているけど、本当に美味しいです!」


 アンもスモーに齧り付き、小さな口をリスのように膨らませていた。


 最初はアンの知識が俺の金儲けにどれだけ効果的なのか疑問だったが、俺の右眼とアンの知識が合わされば、価値が高い理由を容易に知る事ができる。

 その情報をどう活かすか、それは俺の金儲けに対する能力次第というわけだ。


その後も、右眼の力を使ってスモーをジャケットのポケットに入るだけもぎ取って突っ込み、他にも価値あるものが見えないかどうか、周囲を見渡しながら再び歩き出した。




 深い森を抜けたのは陽が落ちて辺りが暗くなった頃だった。使徒として身体能力が向上したお陰で、それほど体は疲れていない。

それでも空腹感や喉の渇きは感じるのだが、それらはスモーや価値のある果実をもぎ取って食べることで補うことができた。


 だが、俺と違ってアンは普通の少女と体力的には変わらない。その能力のほとんどを知識を詰め込むことに費やしているため、それ以外は年相応の一般的なものでしかなかった。

 しかもアンは裸足だ。日が落ちる頃には足裏の皮が破れ、まともに歩くのが困難になり始めていた。


「ゼン、ゴメンなさい」

「気にするな、靴の一つも用意できないネーシャが悪いんだ」


 足裏の状態が完全に悪くなる前に、俺はアンを背中におんぶして森を歩いていた。使徒としての能力など関係なく、アンは随分と軽いな——そう思えるほどに楽に背負って移動する事ができた。


 そして、俺がアンを呼び捨てにするように、アンには俺のことをゼンと呼ぶように指示した。

 最初は使徒様、ご主人様、カネガ様と余所余所しかったのだが、今後のことを考えればアンとの関係性はもっと近い位置の方がいい。

 兄妹——もしくは親娘、二人旅が怪しくない関係性でなくては、周囲から怪訝な目で見られるのは間違いない。


 この神世界にまだ基盤の一つもできていない状態でそれでは困る。


 結果的に、アンとは義理の親子——という設定にした。黒目黒髪のくたびれた日本人顔である俺の子が、金髪碧眼の欧米美少女ではあまりにも似てなさすぎた。




 森を抜けた先にも疎らに木々が立っていたが、星明かりを頼りになだらかな丘陵を歩いて行くと、視界の先に古びた山小屋が見えてきた。


 丸太を組み上げて草屋根を敷いた小さな山小屋だ。玄関や窓には何も付いてなく、絡みつくように茂る草や苔を見るに、随分と長い間使われていないようだ。


 背中で寝息を立てるアンの知識から自分の位置を予測するに、最寄りの都市まではまだまだ距離がある。夜通し歩くよりも、屋根のある場所で一夜を過ごした方がいい。

念のため警戒しながら山小屋に近づき、窓枠から真っ暗な小屋の中を覗き込むが、やはり誰もいない。


一安心したところで堂々と中へ入って行くと、山小屋の中は埃まみれの色々な小物が散乱していた。全て丸太組みかと思われたが、一辺の一部だけは石積みの暖炉になっている。

 床板が抜ける心配がなさそうだが、埃まみれのベッドは使えそうもない。

だが、棚板が傾いた道具棚にはいくつかの小物が残っていた。


 暖炉にも火を入れたいところだが、火種も薪もないのでそれは無理だ。落ちていた布切れを足で退かし、埃の積もっていない場所を見つけてアンを静かに下ろす。

 退かした布切れを拾い上げ、外で少しはたいて埃を落とし、まだ寝ているアンに掛けてやる。


 神世界の景色は初めてで、見るもの全てが新鮮ではあったが、俺以上に全ての景色、匂い、音に感動していたのはアンの方だった。

 小さな体ではしゃぎ過ぎ、足が痛いのもお構いなく駆け回っていては、すぐに疲れて寝てしまうのも無理はない。


 静かに寝息を立てるアンを見下ろしながら——この神世界フェティスに来て最初にする事が少女の世話とは、俺のやって来た事とはかけ離れているな——などと思いつつ、山小屋に残された道具類を調べ始めた。


 道具棚の横に掛けられていた布袋を手に取り、中を確認するが何も残ってはいない。

それでもバッグ一つない状況は改善されそうだと口角を緩めると、使えそうな木製カップや錆びついたナイフ、端の欠けた皿や三又の一本が折れたフォークなど、少しでも使えそうなものを全て布袋に放り込んだ。


 時間こそ不明だが、ポッカリと空いた窓枠から見える少し大きな蒼月はすでに頂点を通過している。

そうして、ひたすら森の中を歩いた神世界フェティスの一日目は、古びた山小屋に到着したところで終わった。




 翌朝、窓枠から差し込む光と近くで鳴く鳥の声に目を覚ますと、朝食代わりのスモーを齧りながら山小屋を出発し、再び丘陵地帯を歩きだした。

 アンの足には布切れを足袋の様に巻きつけ、素足よりかは少しだけマシな状態になった。


 歩き出して数時間後、視界に見えてきたのは大きな街道だった。といっても、人の足や二本の轍によって踏み固められただけの土の道だ。

それでも、人の住む生活圏へと進入したのは確かだった。安堵感から自然と頰を緩め、街道のどちら側へ向かうか右へ左へと視線を振り、アンの知識にある最も近い都市は左だと聞き、そちらへ進んだ。


「——ん?」


それからさらに一時間程歩いた頃だっただろうか、足元の踏み固められた土の道が僅かに振動していることに気がついた。


「どうかしました?」


 急に止まって地面を見つめる俺の姿に、アンが疑問の声をあげた。


「何かが近づいて来る」


土の道は小さく、長く振動しているわけではなく、一定間隔で重く静かに振動している——それが何かの足音だと気づいたのは、背後から聞こえる車輪が廻る軋む音が聞こえた時だった。


「道を開けろ!」


車輪の音に振り返ると、後方から巨体で頭から背にかけて鱗甲板で覆われた——まるでアルマジロのような牛ほどの動物が箱型の——いや、荷箱を引いて迫ってきていた。

そしてアルマジロが咥える手綱を御者らしき男が握り、それがこの神世界フェティスでの移動手段であることは一目瞭然であった。


土の道をアンと横に外れ、自分の目から見た異世界人との初遭遇に一瞬息を飲んだが、そのあまりにも人間らしい人の姿に、若干拍子抜けた感想さえ抱いた。

だが、少なくとも日本では——いや、もしかすると地球には存在しない荷箱を引くアルマジロには、とても興味が引かれた。


「あれはペルタと呼ばれる動物です。草食で温厚ですが、とても力強い家畜として広く使われているです」

「ペルタ……」


 アンが小声で説明を聞きながら、ペルタと荷箱が通過していくのを見つめる——その荷箱は馬車のキャビンというよりも、大型トラックの荷台に近い。


 それを一頭のペルタが引く、なんという力だろうか。


惚けるように先頭の一台を見送っていると、荷箱の側面の開けられた多数の窓からこちらを見ている女たちの姿が目に止まった。

うっすらと施した化粧に胸元をさらけ出した衣装、俺の姿を興味深かそうに見つめ、隣の女に耳打ちをして笑い声をあげる。


その独特な雰囲気には覚えがある——それが何なのかを理解するのは容易かった。


「娼婦か……それに」


 扇情的な女たちに漂う香は場末の風俗と同じ匂いだ。そして大きな荷台の後ろには、見慣れた馬と良く似た動物が引く檻が続いて行く。

 その中には薄汚れた女や子供、それにやつれた男たちが詰め込まれていた。


「こいつらは——罪人か?」

「いえ、“契約の神プーラン”様の神力を使い、奴隷契約を結んだ者たちだと思います」

「奴隷? そんな前時代的な労働力を使っているのか……」


 “契約の神”のもとで結ばれた契約は非常に強力なものだ。特にその使徒が行なっている奴隷契約は、決して解けることのない呪縛にも等しい効力を持ち合わせていた。

もしも奴隷が主人の命に抗えば、体に刻まれた契約印に激痛が走り、血が吹き出し、奴隷の精神までをも蝕んで自意識を破壊する。そうなった奴隷は自我を失い、主人の命令に絶対服従の肉奴隷へと変貌する。


 俺からしてみれば、人一人の動きを操るのに奴隷契約なんてものは必要ない。人の心は金はもちろん、愛、恐怖、罪悪感、欲望——なんでもコントロールできる。

 要は相手にとって心理的操作のキーになるものは何か、それがわかればいいだけだ。


「ゼンのいた世界に奴隷はいないの?」

「いなくはないが……色々な観点から廃れた文化だ。だが、それがまだ残っているということは、このフェティスって世界……思った以上に闇が深そうだな」


アンと話しながら車列が通り過ぎるのを待っていると、最後尾を走る五台目の箱車が速度を落とした。


 何か用か? と箱車に視線を向けると、一人の男が窓枠に肘をつき、俺のことを物珍しそうに見下ろしていた。


「よぅ、あんた。こんな辺境で子連れ旅でもしているのか?」


 綺麗に設えられた緑色の礼服、整えられた口ひげに茶色の短髪、細身の男は俺の容姿を——いや、俺が着ている服を興味深そうに見つめながら、気軽に声を掛けてきた。


「そんなところだ」

「どうやら足も満足な旅道具もないようだが、そのままサイランまで行くきかい?」


 サイラン、それがこの先にある都市の名前であり、俺とアンが目指していた場所だ。


「そのつもりだが——何か問題でもあるか?」

「いや……ここからサイランまでを歩いて行くなら大人でも半日はかかる。その小さな娘を連れていればさらにもっとだ。だが、このペルタに引かせて移動すれば、だいたい三時間ってところだ。どうだい、交渉次第では乗せてやってもいいが?」


 男はそう言って俺を見下ろしているが、その視線がチラチラとアンにも向いている。


「交渉? まさか俺に奴隷にでもなれと? それとも、小さな女に興味でもあるのか?」

「いやいや、失礼。興味があるのはお前が着ているその服だ。娘の方は随分と貧相だが、その上着は間違いなく上物。それならサイランまでの運賃に釣りも出るがどうだ? なんなら娘の着物を都合してもいい」


 上着だと? 刺された時の穴はネーシャが直してくれたが、この上着自体はどこにでもあるカジュアルなジャケットだ。


見下ろす男が着ている緑色の服は、薄い生地で上半身にピッタリと吸い付き、深いVネックからは厚い胸板と胸毛が所々はみ出ている。


 その服にこのジャケットは合わないだろ? と思わずにはいられなかったが、売ってしまえばフェティスの金が手に入る。

金は何よりも大事だし、金儲けはいついかなる時も行動の中心にある——となれば、俺の決断は早かった。


「いいだろう、売った」

「よし、交渉成立だな! ペルタは一度止めると動き出しが遅くてかなわん、御者の隣に飛び乗りな」


窓枠の男は御者台を指差し、そこに座る御者が帽子を軽くとって挨拶をしてきた。


そこへ座れ、ということか——。


「わっ」 


 俺の決断を黙って見届けていたアンが変な声を出すのを無視しつつ、小脇に抱える様に持ち上げて箱車を追い、少し駆け足になりながら御者台の手すりに掴まって加速し始める御者台に飛び座った。


「上着をお預かり致します」


 御者台に座ると、背もたれの一部が小窓のように開き、箱車の中から召使いらしき女が声を掛けてきた。


 売ると決めた上着を戸惑うことなく脱ぎ、箱車の中から手を伸ばす召使いの女に手渡した。

 女の背後には箱車の中が見えているが、まるでモーターホームのキャビンのような居住空間がそこにあった。

 奥に座る先ほどの男に上着が手渡されると、袖口や襟首の仕立てを確認して一つ、二つと頷くのが見える。


 そして男が召使いに二つの布袋を持って行くように指示すると、それを持って召使いが戻ってきた。


「上着の代金と着物です」

「確認しても?」

「どうぞ」


 召使いから受け取った二つの袋を確認すると、小さい方にはズッシリと重さを感じる硬貨の山が、もう一方の大きい布袋には、子供向けの小綺麗な貫頭衣に薄革のサンダルに近い靴が入っていた。

 上着に対する対価を計るなら、ネーシャから貰った刻印ラースの力を使った方がいいのかも知れないが、無闇矢鱈と右眼を金色に輝かせ、ネーシャの使徒である刻印ラースを見せるのは良策とは思えなかった。


「……十分だ」


 なので、ここは相手の言い値に任せて取引を終わらせる。


「それでは、失礼致します」


 軽く頭を下げてキャビンに引っ込む召使いを視界の端に捉えながら、服をアンに渡した。


「よかったのです?」

「気にするな」


 俺を挟む様に左右にアンと御者が座っているので、御者の視線がアンに向かない様に影を作りつつ、アンに服を着替えさせる。

 御者は「見やしないよ」と苦笑していたが、連れているこちらからすれば、気持ちが落ち着かないというものだ。

 


******




 ペルタに揺られること三時間、御者と雑談をして時間を潰してきたが、そろそろ上っ面の話題が尽きてきた頃、箱車が向かう先——サイランが見えてきた。


「サイランは辺境で一番大きな都市、生きる場所を失った掃き溜めや、追われている罪人が集まる大都市だ。旅人向けの宿屋はそれほど多くはないが、オススメは東側にある秋風亭だぜ」

「そこは何か名物でもあるのか?」

「ご主人様の娼館が近い」


ニヤリと笑う御者に、俺は苦笑混じりに「だが、金がない」とだけ返した。


「それじゃぁ、今夜の宿はどうすんだい?」

「そうだな……とりあえず安宿を探すが、そのあとは下宿先を探すことになる」

「下宿かぁ……あんた、神々の使徒様ってわけじゃないよな?」


 御者の一言に一瞬ビクっと肩を震わせたが、すぐに「違うな」と否定して御者に話の続きを促した。


「なら、住み込みの仕事が一つあるがどうだ?」


 御者が浮かべる汚い笑みに若干引きつつも、その仕事の詳細には強い関心を持った。


 そして、ペルタの引く箱車は神王国ベネトラ最西端の大都市、サイランへと入って行く。そこは“呪われた大森林”に近く、悪魔憑きバンシーと呼ばれるよこしまな神々の使徒や、その力に溺れて凶暴化した動物たちがたびたび現れる土地だった。


 邪な神とは、嫉妬、増悪、盗み、殺しなど、人を傷つけることが信仰に繋がる神々を指す。あらゆる神々が存在し、あらゆる行為が信仰に繋がる神世界フェティスとはいえ、人々の生活を安定化させるためにはこれらの神々は忌避され、その使徒は排除の対象となっていた。


 ちなみに、邪な神々の最上位的存在が、俺の主神である“富の神ネーシャ”なのである。


 サイランの街と外部との境には壁や防壁のような明確な仕切りはなく、果樹と田畑の間に疎らに建つ程度だった住居が次第に密集して行き、一つの街を形成していた。

建築様式は違えども、どことなく日本の地方都市に似ている——そんな風景を窓越しに見ながら、道行く人の反応や商店の看板に視線を送っていた。


 サイランは辺境と呼ばれる位置にある都市だが、この近隣の森で取れる果実は保存食に加工しても美味しく長持ちし、山々には豊富な鉱物資源が眠っていた。

だが、“呪われた大森林”と呼ばれる伝説の地に最も近いこともあり、ベネトラの中央政府ともいうべき神王庁は、この地域の開発に対して非常に消極的な政策を敷いていた。

それゆえに、この地は中央から仕事を求める者たちが一攫千金を夢見て集う地であり、行き場を失った者たちの逃げ落ちる最終到達地でもあった。

 そうして未開の大自然から得られる宝を求めて多くの人々が訪れては去り、また新しい人々が流入している。


その中には神王庁より犯罪者——異端者として追われ辺境の地にまで隠れ住む者、もしくは異端者同士で集まり異端教団ドミニオンを形成する者たちまで存在した。

その活動が活発化すれば、神王庁より異端審問官ドミネーターが派遣されて来るのだが、そうなるとサイランは一定期間のあいだ異端審問官ドミネーターの監視下に置かれ、辺境の自由な生活が奪われてしまう。

ゆえにサイランの民たちには、諸問題をできるだけ自分たちの力で解決しようという気風があった。


 そこに、俺が入り込む余地がある。


「俺はここで降りさせてもらう」

「そうか、気をつけてな、お嬢ちゃんもなー!」

「あぁ」

「はいです!」


 箱車の車列が都市の中心部に近づいてくると、レンガ造りや石造りの家屋が建ち並び、通り道は土道から石畳へと変化して行く。

 御者台からアンと一緒に飛び降り、ここまでの道中で色々といい話を聞かせてくれた御者に軽く手を振り、サイランの雑踏の中へと溶け込んでいった。

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