茜音あかねは、音楽室で昼飯を食べている。



 腐れ縁の俺はいつもウザがられるけど、もう気にすることもない。


 片手にお弁当を持って、話をするために音楽室へ向かう。



「いでぁ!?」


「ひぃ! ごめんなさい!」



 背後からタックルのような衝撃が走った。それと同時に〈嗅覚〉をくすぐる匂いが——しない。



「と……透子とうこちゃん」



 マスク姿でも、俺を香崎かざきだと分かったようだ。


 知り合いで一安心したのか、いやでもすぐ目の色を変えた。



若菜わかなりん、見てない? どっか行っちゃったの」


「いや、見てないけど」


「そっか……」



 純花すみかは、この2人と夏目だけは、呼び捨てだった。



「音楽室に行くのか?」


「うん。一緒にいないかなって」


 

 彼女は音楽室を指さした。


 防音ドアの内側に、茜音は今日も閉じこもっている。



 純花と茜音が仲良くて、でも純花は、若菜と凛とも仲が良かった。


 というか、純花は好かれる人だから、みんな彼女に寄った。


 

 たまに4人で話すこともあった。でも、

 


「きみが死んでからは、一緒にいないよ」



 一瞬、純花の瞳が揺らいだ。



 茜音は、人と話すのが嫌いだ。〈聴覚〉もあるから。


 付き合いの長い俺だって、話しかけるとうざったい顔をされた。 


 

「茜音は、きみと話すのが精いっぱいなんだから」



 純花と話すとき以外の茜音は、拙い。


 テンパりが〈香り〉に出てる。



「そんなことないよ」


「あるよ、俺が言うんだから」


「香崎くんは茜音ちゃんじゃない」


 

 ぞわ、っとした。


 割れたガラス破片を向けられた、感覚だった。 



 純花のそんな顔は見たことない。


 きっと、夏目もない。



 冷たい、カラーレスクォーツ—―水晶、みたいな瞳と声。



〈嗅覚〉はなにも反応しない。


〈視覚〉と〈聴覚〉では、どう捉えられるんだろう、これが。



「あと、私は純花じゃないから」



 吐き捨てるように言った。



 既に視線は僕から外して、音楽室のドアへ足を進めていた。 



「水曜日さ」



 背後から声をかけた。


 ドアの向こうの茜音に、聞こえているかもしれない。



 水曜日。 


 天束あまつか透子とうこが転校してきた日。


 茜音が倒れた日。



「なんで俺が茜音と近所って知ってたの?」



 茜音を保健室まで運んで寝かせて、すれ違った俺へ声をかけた。


 送ってあげて、と。



 教室で喋ったのを見ていた? 有り得ない。



 俺はA組、茜音はB組だ。



「そもそも、どうやって保健室開けたの?」



 先生がいなければ鍵がかかっているはずだ。


 鍵は職員室。場所も種類も複雑だ。



「若菜んちがラーメン屋だなんて、どうやって知ったの?」


「……茜音ちゃんが、」


「茜音も夏目も言わないと思うよ。だって」


「う、噂で聞いたの」


「噂? そんなの言う人いないよ今更。だって」


「じゃあ調べたの!」


「へぇ~そう」



 透子が、唇をかむ。



「若菜の『山ノ邉ラーメン』は2年前に閉店してるのに、何を調べたの?」



 嘲笑うように喋る自分が、心底気持ち悪かった。


 先週来たばかりの転校生に俺は、何を言っているんだ。



「……え?」



 昼休みの騒めきも、生きるために飛ぶ蚊の音も、生きようと動く心臓も、全部が無になったようだった。



 俺と彼女だけ、透明の枠で仕切られて真空だった。



 うまく呼吸が出来ない。



「へ、閉店? 嘘だ、だってこの前、茜音といったら、若菜いたよ」


「若菜いなかっただろ」


「それは、じ、時間が早かったから……」


「茜音と若菜が口裏合わせといてくれたんだよ」



 純花の色白の肌が、青ざめていくのが見えた。



「ひさびさに純花と会えたから、2人とも」



 水曜日の帰路、茜音の第一声は、『純花に会えた』だった。



 若菜は、2年前、中3のときにもう料理をしないと断言した。


 店をたたんだのは、親父さんの優しさだった。 


 

 年々〈特性〉は強化していく。


 とくに若菜は成長期らしく、自分の味は吐き気がすると言った。



「………もし、例えば、仮に、私が…清水純花だったとして」



 ぽつ、ぽつと、酸素が戻ってくるように、純花が言葉を紡いだ。



「香崎くんは、どうするの」



 表情は全く見えなかった。


 顔を下に向けて、このままばたりと倒れてしまいそうだ。



 そういえば前にも1度、茜音は倒れたことがある。


 疲労だと言われた。



 そのときも、介抱したのは、純花だった。


 

紫苑しおんに伝えるの? コイツが純花だって」


「べつに」



 紫苑——夏目紫苑、彼のことは名前で呼んだ。



 悲壮感だけだった。



 この漂う空気を、俺はいつか忘れてしまう。


 匂いじゃないから。



「茜音のところ行ってみな。若菜と凛の場所、知ってるかもしれないし」



 俺が引き留めておいて、何を言う。


 俺が探せばいいだろう。



 〈五感〉のひとつだ、俺だって。


 その気になれば、若菜と凛の居場所くらい辿れるはずだ。



「ありがと、香崎くん」



 またね、と、変わらない笑顔で手を振った。


 そうやって、飄々と海へ堕ちて言った清水純花を、俺だけが知っている。




   * * *




「もしもし、夏目?」



 俺の部屋からは、いつもの海が見える。


 ずっとこの部屋のカーテンは閉じたままだった。



 開けてしまえば、海崖の上で手を振る3年前の清水純花が、いる気がしたから。



「そう、俺。香崎。ごめん、急に」


『いつもじゃん。どうしたの?』



 電話を通せば〈嗅覚〉は発動しなかった。



「今日、さ。天束透子と話したんだ」


『初対面?』


「いや、水曜にも話した」


『初日……ああ、茜音が言ってた』



 茜音によると、あの日夏目は、透子が倒れる前に帰ったという。


 

「お前、どこ行ってたんだ?」



 透子は疲れていたんだろうと寛大だったけれど、茜音は相当キレていた。


 もう茜音から説教くらったんだろうか。 



『ごめん……ちょっと辛くなって、海に』


「海? よく行くのか?」


『なんか、純花がいる気がして』



 清水純花は、海へ飛び込んだ。


 中学2年生の、夏だった。



 堕ちる際に頭を打ったか、海で溺死したのか。


 死因は不明だった。



 なぜなら、彼女の遺体は、無傷のまま浜辺で見つかったからだ。



 あの日、最期を見た俺の声掛けで、みんなで海を捜索した。



 純花の家族、近隣の人。


 消防隊の人も駆けつけた。もちろん俺も。



 でも、誰も見つけられなかった。


 あのときはもう既に、純花の〈質〉はなかった。



 ちょうど1カ月前の6月1日に、純花の〈質〉は消滅した。



 〈質〉さえあれば、俺が〈嗅覚〉で探せたのに。



 海のしょっぱい匂いだけが、生々しく俺を焦らせた。



 3時間が経った、午後9時。



 ぽわっと、砂浜に現れた。

 

 月明かりに照らされて、白すぎるほどの肌色で、制服姿だった。



 目を閉じていた。

 


 人魚姫のようなその美しさに、目も心も、ぜんぶを奪われる。



 「すき」とは違う。


 いやすきだけど、恋じゃない。


 名前を付けるとしたら、



「透明、だった」


 

 透明だった純花は、汗臭い大人たちに運ばれていった。


 病院に搬送、治療を受けたものの、脳死状態が続いた。



「純花の最期を見たの、俺だけだった」


『ごめん、助けられなくて』


「もう大丈夫だって。ごめん急に」



 捜索の時に、純花の最期を見た、って言った。


 いろんな人に、怒鳴られた。



 「お前が何かしたんだろう」


 「なんで助けなかった」


 「お前が殺したんだ」



 言葉で殴られた。


 違う、違うって、何度言っても信じてくれない。



「あの時は、俺を信用してくれてありがとう」



 俺は純花を見てすぐ、海まで駆けて行った。


 見当たらなくて、歩く人に声をかけた。



 女の子を見なかったか、海に落ちたかもしれないんだ、助けてほしい。って



 耳を貸してくれたのは、ほんの数人だった。



『僕は、自分の〈視覚〉を信じただけだから』


「そっか。そうだな」


 

 いろんな人が、俺に疑いをかけた。



 それでも、夏目と、茜音、若菜、凛は、俺を——というか、それぞれの〈特性〉で、俺の無実を信じてくれた。


 若菜の〈味覚〉はどうやったか分からないけど。



 大切な友達の死を受け入れられないまま、殺人疑惑もかけられるし、最悪だった。



 4人以外の、俺に対する匂いが、腐卵臭に似てくる。



『純花はさ、』


「うん?」


『神隠し、にあったんだよ。魂だけ』


「かみかくし? なんで」



 葬式が終わった頃には、夏目はもう名前を呼ばなかった。


 久しぶりに聞いた夏目の『純花』に、震える。



『純花は、海が好きだったんだ』


 

 落ち着き払ったように喋る。



『昔から。よく泳いでた』



 でも手が震えてるんだろう。 夏目のことだから。

 


『純花、泳げるんだよ』


「うん」


『並大抵じゃないレベルで』



 それは知っている。



『純花は、海で泳いできたんだ、今まで。


 だから、海で溺れるはずないよ。



 あの崖からおりたところって、深くはないよ。


 逆に足を怪我しそうにデコボコしてる。


 怪我で泳げなかったなら分かるけど、純花は怪我ひとつしてなかったから』



「うん」



『この3年間、ずっと純花が海で死のうとした理由が分からなかった。


 純花は、海を自分の死体で汚そうとは思わないよ。


 海が悪者扱いされているニュース見て、泣き出すほど海が好きだったんだよ』



「うん」




『純花は入水自殺じゃない。ぜったい。


 でも、香崎が見た純花は、笑ってたんでしょ。 



 純花が海の前で笑うのは、いつものことだよ。


 悲しいときは、素直に泣くから。



 いつものように、崖から海を眺めてた純花を、悪魔が引きずり下ろしたんだよ。


 それで、純花の魂だけとって、不要だからって身体を浜辺に戻した』



「……うん」



 黙って聞いていようと思った。



『最低だよな。


 身体も心も合わせて純花なのに。


 僕は、純花がぜんぶ、好きだったのに————』



 受話器越しに、嗚咽が聞こえた。



 夏目が、俺の前で泣いたのは、初めてだ。


 強がりで、人の前で涙を流さないから。そのくせ涙脆いから。



「な、夏目。俺が電話したのはさ、ひとつ、言いたいことがあって……」


『ご、ごめん。ひとりで話しちゃって』


「いや! いいんだ、夏目がそう話してくれるのは嬉しい」


『香崎は相変わらずチャラいね』


「は!? どこが」


『どうぞ、言って』



 チャラい、とは言われ慣れているけれど、真剣な話は不慣れだ。


 息を吸った。



「夏目は、天束透子が、清水純花だとおもうか?」



 つー、つー、つー、

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