よん



 触れるのは、大嫌いだ。


 内心も思考も伝わってしまう。


 物なら、喋ることだってある。2つ同時に触ればそれらの会話も聞こえた。



 気持ちが悪かった。


 自分の肌の細胞をぜんぶ殺したい。



 これは、触覚が発達しすぎたものらしい。


 名前は〈触覚〉とした。



 病院に行って告げられたのは『そのうち治る』だった。


 あと数年もしたら、自然と消えていくでしょう、って。



 え? なに? 


 あれから何年経った?


 この〈触覚〉を抱えて生きて、高校2年生。



 バカげた〈特性〉だ。こんなもの要らない。



 カミサマが善意で与えてくれたのかもしれない。


 でも要らないもんは要らなかった。



 だいたい、肌から伝わったものがどうして言語化される?



「ちょっと失礼、透子とうこちゃん」



 薄手の手袋を外して、握手を申し出た。



 中2の夏に、あの子に触れた以来、人には触っていない。


 こちらから差し出すなど、人生2回目ことだ。



りんちゃん」



 若菜わかなが、心配そうに私を見つめた。


 笑って返してやった。


 若菜は、バカでドジだけれど、真剣な嘘は言わない。



 ——たまごのあじがする


 若菜の言ったそれは、つまり、その他の味はしなかったということだ。



「凛ちゃん?」



 透子の左手が、私の左手に触れる。


 ずっと感じたことのなかった、人の物理的な温度が、指を這って辿って来る。



 でも、



「……ないね」



 なかった。



 手袋をしているときの〈触覚〉は、感情の言語化、単語程度で済む。


 けれど外したこの16歳の生肌では、留まらず文章化されるはずだ。



 それが、なにも、〈な〉かった。



 唖然とする。



 若菜の言葉で分かっていたつもりだったけど、実際触れると、


 3年前の夏を思い出した。



「……大丈夫?」


「えっあ、ああ、ごめん」



 透子に声をかけられて我に返った。


 そっと、幽霊みたいに透けた白い手から、手を離した。



「ありがとう」



 透子にも、若菜にも宛ててお礼を言う。



「凛ちゃんのお弁当、かわいいでしょ~」


「うんっかわいい」



 換気をするように、若菜がハイテンションになった。



 若菜の気遣いは究極だ。


 誕生日が同じなだけで仲良くなったのに、いつも救われる。



 透子もそれにノった。



 人の意見を否定しない、優しい、でも自己主張も出来るし空気も読む。

 

 純花は、そういう子だった。



 そっくりだ。



「凛ちゃんって、こう見えてゆるキャラ大好きなんだよ」


「どういう意味よ」


「透子ちゃんは何が好き?」


「え、ゆるきゃら?」


「なんでもいいよ!」


「んー、スヌーピーかな」




 ガタン、と音がした。


 まわりのざわざわに紛れてしまいそうだったけど、近ければ聞こえる。私も聞こえた。



 椅子をひいて、立ち上がって、ないもの探して、廊下を駆けた。



 自分自身の操縦席を誰かに横取りされた。


 遠いところで、勝手に動いている。



 でも実際、立って駆けたのは、私だ。



 純花も、スヌーピーが好きだった。



 

   * * *




「……純花も両利きだった」


「そうだね」


「顔がそっくり」


「うん」


「声もそっくり」


「うん」



 どんくらい駆けただろう。


 屋上手前の階段は、埃まみれで人が少ない。


 屋上には上がれないけれど、ここの窓からだけ、海が見える。



「覚えてる?」



 若菜は、うん、そうだね、うん。って、ばっかり。



「純花、ここが好きだったの」


「うん」


「海が見えるから。ここの掃除もしてた」


「そうだね」



 純花ちゃん、海が好きだったもんね。って


 声にならない、息に抜けた声で若菜が呟いた。



「でもだからって——」


「凛ちゃん」



 窓が開いていないのに、潮風が吹いた気がした。

 


 若菜が、私の横に並んだ。


 見ているのは、おなじ海だった。



「あの子は、純花ちゃんじゃないよ」


「でも、」


「先週の水曜日に、私たちのクラスに転校してきたの」


「て、転校?」



 窓の曇りで、海が澄んで見えない。


 音も聞こえなかった。



 若菜の声だけが耳に届く。



「たまごやき、普通の味だった」


「肌も温度だけだった」



 ふたりで、ひとつ、確信したように視線を合わせる。


 この感覚は、あの時と同じだ。3年前の——



「声もピアノも、ぜんぶ透明だった」



 2人だけだった海の踊り場に、背後から声がした。



「透子が探してたぞ、お前らのこと」



 気怠そうな表情と、降ろした髪。


 でも輪郭のある真っすぐな声に鋭利な瞳。



「茜音ちゃん……」



 私と同じクラスの、菊瀬きくせ茜音あかねだ。


 彼女は、〈聴覚〉。



「〈聴覚〉も、なにも掴まないの?」


「皆無だった」



 私たちの隣へきて、海の窓を覗き込んだ。




 中2の頃、同じクラスだった。若菜、茜音、純花と、私。


 純花と茜音は、中1から仲良くて、若菜と私もそうだった。



 若菜は、なんで仲良くなったんだろう? 純花と。



「これ、中2の夏だよな」


「うん」


「そうだね」



 茜音の一言に、私も若菜も同意する。



 この〈透明〉感は、中2の夏、純花が逝く1ヵ月前から、あった。


 とつぜん、〈五感〉がみんな、何も掴まなくなっていた。 



「もしかして、透子ちゃんもさ」



 証拠はない。でも、根拠はある。


 私たち〈五感〉は、気づいた純花の異変に、何もしなかった。


 そして、純花はぽっかりいなくなってしまった。



「後悔してる」


「うん」


「あのとき、もっとみんなで、支えていれば」


「話くらい聞いてあげれば」


「気づこうと思えば気づけたはずなのに」



 ここから、


 いなくなってしまった。



夏目なつめくんは?」


「気づくだろ。香崎かざきも気づいてるよ」



 茜音が答えた。


 彼女の〈聴覚〉が、〈五感〉全員が勘付いていることを、感知している。



「夏目くんに、助けてもらおう」



 若菜の提案に、私は頷いた。

 

 

「なにかいい案があるかも」


 

 そうだね、と言いかけたのを食らうように、茜音が笑った。


 若菜の案も、それに同意した私のことも、吹っ飛ばしてしまうように。

 


「なんで。どうやって?」


 

 若菜もわたしも真剣なことは、茜音がいちばん分かっているはずだ。その〈聴覚〉で。


 どうして笑える?

 

 

「夏目がなんかできんなら、もう勝手にやってんだろ」


「でも、独りじゃできないのかも」



 若菜が茜音に言い返すのを、わたしは黙って見ていた。



「夏目は、透子に関わろうとしてねぇよ」


「えっ」


 

 若菜が押し黙った。



「夏目は分かってんだよ。私らより、1歩先にいるから」



 1歩先ってなに。


〈五感〉はみんなそろって、並んでるでしょ。



「天束透子は、私らの知ってる清水純花じゃねぇよ」



 とどめを打たれたように、私と若菜の心が割れた。

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