——ぜんぶ本物の嘘だった

 


 嫌なことがあった日は、歌え。


 私が言った言葉だ。つまり私には適応しない。



 音楽をストレス発散になんて使えない。


 そんなこと、私の耳が許さない。



 テキトーに歌えば〈聴覚〉が悲鳴を上げる。


 かといて神経質に歌えば疲れる。



 耳だけよくて、音楽が好き。


 でも音楽的な才能がないから、こう、間でグラグラ揺らいでいる。



 気安く歌うこともできない、カミサマからの天才耳を殺したくなる。



「……は?」


 

 いつものように、音楽室へ向かっていた。


 開けようとドアノブに手をかけた瞬間、張り付けられたように凍結した。



 防音のドアの向こう側に、微かに聞こえる。



 私がいちばん好きだった、あの、



——記憶の中の私がぜんぶ、消えればいいのに



 水に濡れると透明になる、サンカヨウの花みたいな声だった。



「……すみか?」



 気づいたら、ドアを開けていた。


 気づいたら、名前を呼んでいた。



 呼んでも応えてくれないなら呼ばないって、もう呼ばないはずの名前だった。



「………」



 わたしの一言で、化学反応を起こしたように、場が凍った。



 秒針が、無神経に耳を逆なでする。



 止まったような時間が動いて、動いている私の心臓が、止まったように。


 時間が、戻ったように。



「あ、」



 彼女の隣には、夏目なつめがいた。


 純花《すみかの好きな人だ。



「……ごめん」



 邪魔だ、私が。


 咄嗟に踵を返そうとした。


 でも、足が動かなかった。



 震えてしまって、足にまとわりついた空気の氷が解けないみたいに、背を向けて立ち尽くした。



 ごめん。


 好きな人に会えたところに、割り込んでごめん。



 秒針よりずっと無神経だった。


 最悪な私だった。



 私に歌ってくれているのかと思ったんだ。


 一緒に創った、最初で最後の曲を、もしかしたら私に、って——



茜音あかねちゃん!」



 透明な花の声から聞こえた、私の名前だった。


 いつものように、普通に返事をしようにも、声が、出ない。



「……すみ、か」



 『いつも』が遠かった。


 どう返事してたっけ。どう喋ってたっけ?



 純花との毎日が懐かしくて息が詰まって、忘れたいと思っていたら、本当に忘れてしまったのか。



 忘れたかったんじゃない。


 もう1度、欲しかった。


 でも叶わないと分かっていたから、ただ、しまっておきたかったのに。



「純花、なの?」



 私の問いに対して、彼女は答えなかった。


 違う、と言ってほしかった。ここは現実だから。


 でも夢なら、そうって言って。



「ねぇ、」


「彼女は、今日僕らのクラスに転校してきた、天束あまつか透子とうこさんだよ」



 腐る声が聞こえた。コイツの声は嫌いだ。

 

 ドアで止まった私のところへ来て、夏目がわざわざ呟いた。

 


 頭では、自分でよく分かっている事実を。



「は、夏目——」


「じゃあ僕は帰るから。あとはよろしく」


「はっ!? おい、待てよ夏目」



 出ていく夏目を追いかけた。 



 涼しいフリをした顔の、そいつの手首をひっつかまえる。


 背後で、ドアがうるさく閉まった。



「あとはよろしく、ってなんだよ、てめぇの彼女だろ」


「あの人は純花じゃない」


「あの曲は!」



 さっき彼女が弾き語っていた、あの曲は。



「私と純花で作った、最初で最後の曲なんだよ」



 まだこの学校に入学してすぐの、中1のとき。



「純花は、はじめての友達だった」



〈聴覚〉が鋭利すぎて、人と話すのが億劫だった。



 吐かれた嘘が分かってしまう、こもった感情が知れてしまう。


 余計なことがガンガン伝わる。



「ずっと、ともだちは諦めてた」



 でも、純花と喋れた。


 あの子の声が心地よかった。



〈聴覚〉は過敏に反応しないし、純花は嘘を吐かなかった。



「音楽、誘ってくれたんだよ」



 純花の声は、楽器の音色は、どれも透明で瑞々しかったから。


 諦めることを諦めていいって、教えてもらった気分だった。



「純花が歌詞を紡いで、私が曲をつけて、純花が歌って、私が伴奏する」



 作曲は、難しかった。


 純花の紡いだ言葉が、きれいだったから。



「いっぱい創ったよ。私はいっぱい弾いたし、純花はいっぱい歌った」



 たった1曲だったけど。


 それが楽しかった。



「……そう」


「なんで」



 なんで。 



「純花と私の曲を、転校生が知ってるの?」



 2人の、秘密結社だった。



 それを、なんで。



「透子って誰だよ。あんな透明な声は純花にしか——」


「透明じゃないよ」


「は?」


「もっとよく聞いてみてよ、透子さんの声」



 夏目は〈視覚〉だろ。


 音のなにが分かるって言うんだ。



 夏目が、そっと音楽室のドアを開けた。


 音があるかないかの境目ほど、静かに。


 ドアの向こう側は、さっきと同じ姿の純花……いや、



「声が純花と違うって、茜音ならすぐ分かるから」




——21gの魂かかえて 透けながら 会いにいくよ




 純花が消えて3年間、外したことがなかった。


 これなしで話せるのは、純花だけだったから。



 耳栓に、手を伸ばした。



「え……」

 


 私が衰えた? はずない。


 夏目の声の〈質〉は分かった。嫌悪感が湧いたでしょう。



 —— 忘れていいよ 私が覚えてるから



 外しても、分からない。


 聴こえない。



 彼女の、目の前で弾き語る彼女の、音色も、歌声も、



「なん、で……」



 この子は、なにを考えているんだろう。


 なんで分からないんだろう。


 透明の域を越している。もはや何もない。



 こんなこと、今まで、



「あ」


 った。



 あった。



 突然、声や奏でる音に〈質〉がなくなること。


 私の耳に届かなくなること。


 私の故障じゃない。あれは、純花が、




   * * *




「……ね、あかね、茜音!」


「茜音ちゃん!」



 天井が白かった。



「目覚めてよかった……!」


 

 どこだここ。


 白い、布団? ベッドか?



 隣には、ピアノを弾いていた彼女と、なぜか腐れ縁の香崎かざきがいた。



「ったく…なにやってんだよ、心配したんだぞ」


「お前に心配される義理はねぇ……」


「はー! こういう状況でもそういうこと言うんだ」


「うざ」



 くすっと、彼女の笑う声がした。


 その声は、夏目が言ったように、純花とは違った。



「どこだよここ」



 香崎の声からは、真面目に私を心配していた様子と、安堵感が伺える。


 でもウザい。

 


「保健室だよ。透子さんが開けてくれた」


「は? 夏目は」


「夏目? アイツもいたのか?」



 どういう意味だ。ずっといただろ。


 夏目がウザ香崎を呼んだんじゃないのか。


 私と香崎が近所だから、送らせようと思ったんだろ。



「じゃあ、なんで香崎がいるんだよ」


「透子さんと会った。廊下で」


「保健室を開けたのは?」


「透子さん」


「夏目は?」


「帰ったよ」


「は?」


「茜音ちゃんが耳栓外したあたりで、音楽室からは出てってたよ」


「なんで」


「お疲れだったんだよ。私のこと今日1日お世話してくれたし」



 腑に落ちない。


 夏目が帰った理由は、ちょっと分かる気がしたから、置いておこう。


 でも、そのあと、



 この転校生が1人で保健室あけて、香崎を呼んできた?


 保健室ってどうやって開けるんだ?


 私も知らないのに、



「あっ、6時」



 私の思考を止めるように、スピーカーからけたたましくチャイムが鳴り喚いた。



「おげぇ……」



 音割れがひどくて大嫌いだ。


 耳栓がしてあっただけ幸いだ。



 めておいてくれたんだろう。


 多分、彼女が。



「茜音、帰ろう。6時だよ」



 さしだされた香崎の手に支えられて、ベッドから立ち上がった。


 立ち眩みはない。体調も悪くない。



「じゃあね、茜音ちゃん。ゆっくり休んで」


「あ……ありがと」



 天束透子に歩く音がしないと気が付いたのは、そのときだった。

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