3.
「商業の成否! これ、ただその商人の筋肉で決まる!」
マリドバール太守バラキフの言葉である。世の商人は商業の成否は店の立地、仕入れ値、利ザヤ、優秀な財務顧問の有無、権力者へ払った賄賂の額、大衆の欲しいものを抜け目なく見抜く才能、あるいはこれら全部と言うだろう。
筋肉ただ一つ!と言い切るバラキフの説は間違いなく異端のはずだが、妙に説得力がある。なぜなら――、
「なぜなら、我らイフリージャ人は焔の神イフリートがその火を分け与えたことで生まれたのであり、この体はイフリートの焔、借りものの躯。そして、我らイフリージャ人は天命を全うしたら、その躯は火葬し、火となりてイフリートにお返し申し上げる。それならば、その肉体を少しでも鍛えてより優れたものにしてお返しするのが、イフリートへの感謝ではないか。そして、イフリートの御心にかなうものの商いが成功しないはずはないのだ。ガハハハハハ!」
「でも、それでは生まれつき足の不自由な方や耳がきこえない方はどうするのですか?」
「少女よ。そなたの心配、よく分かるぞ。なるほど、確かに躯弱きものは商売には不利なように見える。だが、実際には腕を失ったものや目が生まれつき見えぬもの、生まれつき息の弱い病を持つものたちでも商売で大成功をおさめたものが大勢いる。それというのも、体や心に生まれながらの不具合を持つものはイフリートの疲労した焔より躯をつくられたがゆえのこと。こうした不具の者たちは我らの社会ではとくに尊敬される。なぜならイフリートは自らの疲弊した躯を癒すべく、多大な期待を持って、不具者をお創りになられた。そのような不具のものたちは自分の躯を癒すことを通じてイフリートの焔を癒すという大任を授けられているのだ。これ以上にイフリートの御心にかなうことはない。だとすれば、生まれながら不具なものの癒しを助けることはイフリートを祀るもの全ての義務に他ならぬ。そして、彼らの体や心が不具であるがゆえに彼らを見捨てることはイフリートを見捨てるにも等しいのだ。これで得心は言ったか、少女よ? ガハハハハ!」
笑いながら、バラキフはケコア豆とラム肉の煮込みを大きなさじですくって食べた。ハミド曰く、これこそ最も筋肉を育む最高の料理らしい。
ああ、もうこれは器が違うのだ。エスレイはバラキフを通じて、強い風が吹く大草原に放り出されたような感覚を味わった。上半身をむき出しにしたバラキフの大きな躯を見ると、エスレイたちが招待された、かなり大きめの天幕が小さく見える。岩から削り出したような体躯は筋肉にいいとされるケコア豆の油をたっぷり塗り込まれ、イフリージャ人らしい浅黒い肌はてらてら光っている。頭の毛はきれいに剃り、立派な口髭と短く刈った顎鬚はだいぶ塩が勝ったごま塩。だが、心身ともに初老を感じさせない活気に満ち溢れている。
「しかし、その歳でイフリージャの砂漠を踏破せんとしていたのは鍛錬のためかと思っていたが、なるほど鉄道のためとはなあ。鉄道。うむ、興味はある。いつかは対決してみたい相手だ」
商売として対決するのか機関車と力比べするのか分からない。ひょっとすると両方かもしれない。
「ふうー、食った食った」
コルネリスはクッションに寝そべった。イフリージャ南部風の魚料理を一揃い、それに三人の魔法使いが絶えず作り出した氷を使ったオレンジ・シャーベットを三杯食べたその体は羽毛を詰めたクッションにずるずると沈み込んでいく。
「おれたちのパトロンがおっさんの一万分の一でもいいから気前がよけりゃあねえ」
「うむ! よい食いっぷりだ。若人はそうでなくてはいかん。ところで、ギ国の若人よ、そなた、食が進んでおらんではないか」
「おれですか? いえ、もうお腹いっぱいで――」
「いかんぞ。こんなに細いではないか。がっつり食べなければ、わしのように筋肉がつかんぞ」
「ご心配なく。細いなりの鍛え方をしています」
「むむむ。細いのに筋肉?」
「あまり鍛えすぎると、身のかわしが遅くなるんです」
「なるほど。質より量か!」
あそこは量より質という場面でしたね、と、エスレイが言った。
時はすでに日をまたぎ、早朝。夜の冷気を払う曙光の兆しが砂丘のかなたで空を炙っている。
バラキフ一行と別れを告げ(これが難しかった。バラキフは是非とも一緒にカラキラートに行こうと勧めてくるし、バラキフに別れを告げても、その長大な行列が見えなくなるまでには相当な距離を歩かなければいけなかった)、また砂漠のみなしごになったのだが、どういうわけかエスレイはあのときの突っ込みを今しなければいけないと思ったらしい。
「タイミングずれ過ぎですよ、エスレイ」
「それにその突っ込みなら、あんとき、おれがちゃんとやっておいた」
「あれ?」
「とろいなあ、トンマ。何か考え事か?」
「考え事というか……」
突然、夢を見るのだ。こうして歩いていると。
その夢がエスレイを別の時間に連れていき、出来事の順序が分からなくなる。
今だってこうして歩いていると、目の前に森が現れる。
冷たい水がしたたる黒ずんだ杉。森のなかをまっすぐ通る道。
そこに大きな盾を背負った女騎士の背中が見える。
だが、盾の紋章が見えない。薄暗い森なのだ。
女騎士は長い金髪を後ろで一つに編み、厚手の手袋をはめた左手が剣の柄に触れている。その歩みは自信に満ちている。どんなに困難な旅だって安定したリズムで道を踏むことで、目的地へと必ずたどり着けることが分かっているのだ。
エスレイはその女騎士を見ると、大声で自分はここにいると叫ぶ。
だが、女騎士の耳にエスレイの声が届くことはない。
風が雲を除け、杉の枝を揺らす。
女騎士の背にほんの一瞬、陽が差して、ヴィルブレフ剣十字の紋章が照らし出される。
クレセンシア――。
「ひゃ、ひゃあ!」
夢から覚めると、エスレイはうつ伏せに砂の上にべたんと倒れていた。
コルネリスの爆笑とシンザの心配する声が左右からきこえてきた。
「い、いたた……何かが足に引っかかって」
砂を払いながら、身を起こす。
エスレイの目に入ったのは枕木の上に敷かれた黒い鋼のレールだった。
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