20.

「ついに手に入った」

 メレンデスは歓喜にふるえながら、祭壇に心臓を置いた。

「これであの小生意気な枢機卿、いや皇帝だっておれにひざまずく。不老不死の秘法がおれのものになるのだからな。いや、この世界全てがおれのものになる!」

「それはおめでとうございます」

 見ると、エスレイが盾と剣を置いた場所に、黒い影――シンザが立っていた。

「なんだぁ、貴様?」

「名乗るつもりはありません。お前はここで死ぬ」

 言い終わると同時に、シンザの手が閃く。次の瞬間、メレンデスは悲鳴を上げて、顔を押さえた。シンザの放った投げナイフは小型だが釣り針のように曲がり、返しがついている。もし、それを引き抜こうとするなら肉ごとちぎり取るしかない。

 事実、メレンデスは鼻のすぐ横に刺さったナイフを抜こうとしたが、果たせず、それを刺したまま、獣じみた咆哮を上げて、斧槍を手に取って、シンザに襲いかかった。シンザの三白眼は迫りくる槍の穂を冷たく見つめていたが、間合いに入ると、左に身を寄せつつ下がって、払いをかわした。

 パキン、という音がして、槍の斧刃が鎖を引きながら、シンザのかわした方角へ飛んだ。

 刃が骨に当たった確かな手ごたえにメレンデスの口元は歯を食いしばったまま歪んだが、シンザのいるはずの位置にあるのは斧で半ば破られた盾が宙に浮いていて、一拍置いて、鎖を鳴らしながら床に落ちた。

「下だ」

「なに!」

 粘り気のなる炎がメレンデスの顔と胸に噴き上がった。断末魔のごとき悲鳴を上げながら燃えるメレンデスを冷たく見つめるシンザの手には煙を上げる小瓶。小瓶を放り捨て、床で割れるころには、鎧の胸当ても貫ける大型の投げナイフが十本、どこからともなく現れて両手の指のあいだに握られていた。

「散れ」

 メレンデスの胸にナイフが立て続けに十本突き刺さる。メレンデスは背中から祭壇にぶつかり、心臓は神の国の入口へと落ちていった。

 

 深さを感じる冷たく青い水のなかで音と光が幻灯のごとく次々とめぐってくる。

 神の国につながる水のなかでは明るい太陽と淑やかな月が併存することだって可能なのだろう。

 だが、エスレイは意識は自分の下を沈んでいくウルバに向けられていた。

 ウルバは大きく円を描く水流の正反対の位置にいた。思いがけない水の塊に押されて近づくこともあれば、突然、見えない魚にくわえられるようにして遠のくこともあり、距離は縮まない。

(うぐ、もう息が――苦しい)

 気を失ったウルバへ伸ばす手は届かない。

 意識の混濁が奇妙な願掛けを生み出す。

 もし、ウルバが助かるなら、クレセンシアは無事だ。

 ウルバはずっと遠くの暗がりへと消えつつある。

 クレセンシアもまた二度と帰らぬ遠いところへ去っていく。

 あきらめない。絶対に。

 もうほとんど視界が利かない。それでも手を伸ばした。

 指のあいだを水が虚しく通り過ぎていく。

 これだけ残酷な仕打ちをされても、エスレイはなぜか水を憎むことがなかった。

 それどころか打ちひしがれた砂漠の迷い人のように水を希求していた。

 そのとき、手が何かに触れた。

 それは鼓動している。

 それは温かい。

 祈るがよい。それはそう語りかけた。

 エスレイは祈った。

 エスレイの手のなかで心臓が絹糸のように細い泡を吸い込みながら、音を鳴らす。

 初めは低く。次に優しく。次にパイプオルガンのように重く。

 そして、それはやがて天空より舞い降りる誇り高きウィツルアクリと声を重ねた。


 息ができる。体を優しく取り巻く冷たさがない。

 そのかわりに背中が固いものにぶつかっている。

「う……」

「ああ、やっと目が覚めました!」

「シンザさん?」

 エスレイの枕元にはシンザが正座していた。

「ここは?」

「テスケノの神殿です」

「わたし、確か、池に落ちて――それで」

「それで助かったんです。ウィツルアクリのおかげで」

「ウィツルアクリが?」

「あなたとウルバを優しくくわえて、あの祭壇の前まで運んでくれたんです。まさか、一つの民族で神と崇め奉る存在をこの目にするとは思いませんでした」

「ウルバちゃんは無事なんですか?」

「はい。それにとらわれていたテスケノも全員救出しました。今や獄につながれているのは〈天使のギルド〉の連中のほうです。どうするつもりがきいてみましたが、ルズリンと話をして、おそらくルズリンの獄につなぐことになるそうです」

「そうですか……よかった」

 エスレイが起き上がると、毛布が滑り落ちた。

「大丈夫ですか?」

「はい」

「じゃあ、こっちに来てください。面白いものが見られますよ」

 神殿の次の間でテスケノの民族衣装をつけ黒髪の長い、精悍な顔つきの青年が泣きじゃくり抱き着く幼子をあやしていた。

「うえええん! 寂しかったよう! お兄ちゃん!」

「よしよし。よく頑張った。偉いぞ、ウルバ」

 え? とエスレイが驚き、シンザのほうをちらりと見ると、シンザは人差し指を口に寄せて、目をつむった。

 本当はやっぱり寂しかったんだ。でも、こうして、会えて――、

「あれ? わたし、泣いて、る?」

 喜ぶべきなのに、こころが途方もなく哀しい。

 兄さま……。

「エスレイ? 大丈夫ですか?」

「ちょっともらい泣きしちゃいました」

「そう、ですか」

 ほんとうは哀しいのでは? シンザは質問の機会を逸した。

 これまできいたなかでもっとも激しく明るい音が鳴いた。祭りと宴を知らせる共鳴箱を吊るしたテスケノたちが瑞兆ずいちょうの天使たちのように飛び交っていた。


「団長ー、おれたちいつまでこうしてぶらさがってなきゃいけないんですかー?」

 紫影のムスタファがたずねる。渦巻く水はほんのすぐそこ、例の三人のイフリージャ人たちは縛られたまま、絶壁から生える一本の細枝に引っかかっていた。

「あたしが知るかい! くそいまいましい!」紅蓮のアスサーナが腕をふりまわそうともがいた。

「あ、姐御、暴れたら落ちる!」と黒鉄のカーシム。

「なんか上じゃ宴会みたいですよ。お腹すきましたねえ」

「ちっきしょー! それもこれもあのガキどものせいだ。見てらっしゃい。次は必ず痛い目見せてやる!」

「あ、あ、姐御、暴れたら落ちる! わ、わーっ!」

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