16.

 大きな穴から曙光が流れ込み新しい一日が始まる。

 昨日、自分は生まれて初めて人の命を奪った。

 もちろん、クステノの戦いでは直接死なせはせずとも、自分の作戦で敵に死者が出ていることは承知していた。

 だが、命令ではなく、自分の手で人を殺したのは違う。

 そう思っていた。だが、今日という日が昨日よりもひどいものになる様子もないし、いいものになる様子もない。罪悪感というものが思いのほか覚悟によって抑制されているのは意外だった。交代で寝ずの番をしたから眠くもあり、少し空腹だ。もっと罪悪感があの副官を剣で貫いた瞬間を何度も思い出させ、不眠と吐き気をもたらすとエスレイは信じていたのだが。

 不安があるとするなら、誰もがこんなふうに殺人を克服しているのかということだ。

 もし、そうでなかったら?

 他の者はもっと苦しむのに自分は苦しまずにいるとしたら?

 わたしは生まれついての人殺しなのかもしれない。

 一軍を率いる人間はそうあるべきなのかもしれない。

 でも、敵対する人間を殺害したことを悔やまないとすれば、自分と兄の違いは何なのだろう?

 そして、ジョシュアとの違いは?

「エスレイ、大丈夫ですか?」

 シンザの呼びかけにふりかえる。差し込んだ朝日のつくる自分の影が長々と伸びていて、シンザの脚を浸していた。後ろではウルバが槍を肩に担って、ふくれ顔をしている。

「考え事ですか?」

「はい。フライパンなしでどうやってケーキを焼くか考えていました」

「そうですか」

「すいません、ぼーっとしてて。じゃあ、出発しましょう」


〈蒼風の回廊〉も上のほうはもう洞窟ではなく、外を取り巻く森の斜面を歩けるようになっていた。外周はだんだんと短くなり、猫の額ほどの小さな頂に着いた。

 エスレイは足元の石の円盤に見たことのない象形文字が描かれているのを見た。その文字はそのまま古代の石積み技術によってつくられた空の桟橋まで続いていた。ウルバ曰く、そこに刻まれた象形文字には飛ばんとするものを勇気づける不思議な力があるという。

「ここの風であれば、このマントでもコアトルに帰ることができる」

 コアトル――テスケノたちの都を乗せた岩柱は高く聳え立ち、雲を貫いている。

「本当に大丈夫ですか?」

「風のことなら問題はない」

「そうではありません。あの〈天使のギルド〉です」

 それをきくと、ウルバは笑った。考えてみると、この少女はいつも表情が硬かった。こんなに笑うのは初めてだ。

「テスケノの民はあのようなグェレカに負けはせぬ。むしろ、わたしの分の活躍の場が残っていないのが心配なだけだ」

 そのとき、岩を逆なでにする碧い風が天へと昇って雲を穿とうと吹き上がった。

 ウルバの小さな体はふわりと一浮きしたかと思うと、見えない巨人の指でつままれたように飛び上がり、雲と光が渦巻く空の小さな点になっていった。

「テスケノの都は平穏無事で」エスレイは遠ざかるウルバを見つめながら、詩でも諳んじるように言葉をつなぐ。「〈天使のギルド〉は逃げ帰った。少女の冒険はこれで終わり。風と暮らす日々が戻る。でも、これは幻想です。垣間見える断片はまったく別のことを指示しています。ウルバちゃんは逃げてきたんです。いえ。逃げるよう強く命じられたんです。尊敬している人、大切な人に。国を救うため、援軍を乞うために。そうでなければ、フリントロック・ピストルの射程範囲まで降りてきた理由がありません。でも、コアトルという彼女たちの都はすでに〈天使のギルド〉の手に落ちたのでしょう。空を飛ぶ他のテスケノの姿を全く見ていませんからね。たぶん、みな捕まっている。あの小さな肩に自分たちの国の運命を背負わせているのに、ウルバはひとりで戻っていく。誇りが邪魔をしたのでしょうか? それとも、やはりわたしたちも彼らとかわりのないグェレカだからでしょうか?」

「素直じゃないだけですよ」

「なぜ思うんですか?」

 シンザはこたえるかわりに、腰から吊るした革の雑嚢から小さな土器を取り出した。それはなかが空洞の心臓に似ていて、穴がいくつも開いていた。「ウルバの共鳴箱から、こっそり抜き出しました。おれもいろいろ考えたんです。テスケノは空を飛ぶ術を持っています。でも、〈天使のギルド〉は飛行艇をすでに持っているから、空の飛び方を知りたいんじゃない。何か、別のものを求めている。それはウィツルアクリの羽根だということですが、その羽根で何をするのか。それは不明です。ただ、昨夜襲撃してきた連中は〈笛〉を探しているようでした」

 笛、ときいた途端、エスレイの心にあの忘れられた寺院で奏でられた不思議な音が甦った。焼いた土でできた不思議な心臓から流れ出た音楽を。

「じゃあ、〈天使のギルド〉はこの笛を求めている?」

「はい。この笛はテスケノの神事において重要な役目を持っている。その笛を、ウルバはおれたちに見せた。それだけでなく、これが奏でる音すらきかせた。これが笛と分かるように。もし、〈天使のギルド〉とおれたちを等閑視していたとしたら、あり得ない。そうじゃないですか?」

「でも、なぜ? どうして、あの子はそんなことを……」

「保険です。やつらがこの笛を求めているということは笛がこちらにある限り、やつらはテスケノの民に指一本触れられない。だから、いざというときは全てを話して、おれたちにこの笛を預けるつもりだったんでしょう」

「でも、あの子がそこまでわたしたちを信じる理由がありません。わたしたちだって、〈虹の王〉の羽根を求めて、ここに来たのですから」

「エスレイ。ウルバはほんの十歳くらいの少女です。自分以外の家族、友達をみな囚われた女の子にとって、この世界がどれだけ心細いものに見えると思います?」

「あ……」

「助けを求めていたんですよ、エスレイ。まどろっこしくて、本人でさえ分かっていないかもしれないやり方で、ですが」

 エスレイは爪が食い込むほど強く拳をかためた。

 自分の不甲斐無さに悔やむ。

 どうして理解してあげられなかったのか。

 強がりの後ろにあるものを。

 全てを失った心細さを経験したわたしはウルバのことを分かってあげるべきだったのに。

「わたしは……」

「エスレイ。あなたは自分が事実から目を背け、願望に逃げ込むことをひどく恐れている」

 そう語りかけるシンザの声は観察者の鋭さがあり、同時に観察者の温かさがあった。

「そして、あなたもウルバに負けず、背負っているものがある。それが何かはたずねません。知り合って、ほんの数週間のおれが、その重さを分かち合おうなんて言ったら、無責任にきこえるでしょうし、実際、どんなふうにしたら、それを分かち合えるのかも知らないのです。でも、エスレイ。たまには願望に逃げてみたらどうです? それが積み上げた事実と異なるからどうだと言うんです。そんなものは状況次第でいくらでも変えられます。そして、変えるなら、ここほどそれにふさわしい場所はないんです。なぜなら、ここはテスケノが――誇り高き翼の人々が飛び立つ勇気を与える場所なのですから」

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